量産開始
水晶宮を埋め尽くした熱狂は、冷めやらぬままに新聞各紙へと飛び火した。 「英国車はもはや大陸の模倣ではない」「馬車を駆逐する真の『国産の心臓』が産声を上げた」 タイムズ紙をはじめとするマスコミの論調は、キャンベル号の「1000マイル・トライアル」完走を、大英帝国の新たな技術的勝利として報じたのである。
その反響は、アシュフォード家が支援するキャンベル社の工場を、かつてない活気で満たしていた。 「注文は山積みだ。一台でも多く、良質な車を送り出すぞ!」 ジャックの指揮のもと、アシュフォードの重工業のノウハウとキャンベルの精密技術が融合した生産ラインが、規則正しい槌音を響かせ始めていた。
そんなある日、工場の喧騒を割って、懐かしい人物が姿を現した。 「やあ、ジャック。生産開始おめでとう! 景気のいい音じゃないか」 油の匂い漂う現場に、不似合いなほど洒落たスーツを着こなして現れたのは、マイク・バートン氏だった。
「バートンさん! あなたの助言がなければ、このエンジンは完成していませんでした」 ジャックは作業の手を止め、満面の笑みで歩み寄った。しかし、マイクの鋭い審美眼は、すでに工場の隅に積み上げられた出荷待ちのシャシーに向けられていた。
「礼はいいさ。ところでジャック、大事なことを聞きに来た。販売店との契約はどうなっているんだ?」
ジャックは少し意外そうな顔をして答えた。 「契約、ですか? いえ、以前の電気タクシーの時と同じように、自分たちで直接、顧客に販売しようと考えていますが」
その言葉を聞いた瞬間、マイクはわざとらしく大げさに肩をすくめてみせた。 「ジャック、君は最高のエンジニアだが、商売に関してはまだ『魔法』を信じているようだな」
「どういう意味ですか?」
「いいかい、広く一般の人々に車を普及させるなら、販売は専門の販売店に任せるべきだ」 マイクは一歩詰め寄り、真剣な眼差しで続けた。 「君たちの使命は、いい車を一ポンドでも安く、安定して作ることに集中することだ。そして、我々ディーラーの仕事は、その情熱を消費者に届け、適切なアフターケアを保証することにある。役割分担だよ」
「でも……」ジャックは、苦労して立ち上げた工場の利益率を計算し、少し顔を曇らせた。「仲介を通せば、我々の手元に残る利益が減ってしまいます」
マイクは豪快に笑い、ジャックの肩を叩いた。 「売る方法を持たずに、いくら倉庫に名車を積み上げても、それはただの鉄の塊だ。客に届かなければ一銭にもならない。安心しろ、私は君の才能の搾取者になるつもりはないよ。法外な仲介料など取るものか。私に、英国の未来を走らせる手伝いをさせてくれないか?」
マイクの提案は、合理的でありながらも、どこか彼らしい「粋」な心意気に満ちていた。ジャックは工場の入り口に目をやった。そこには、事務仕事の合間に様子を見に来た、スカーレットの姿があった。
「バートンさん。魅力的な提案です。ですが、僕一人では決められません。……スカリーと、僕の頼もしいパートナーと相談してから、返事をしてもいいですか?」
ジャックの問いかけに、マイクは深く頷いた。 「もちろんだ。彼女の『合理的』な判断なら、私も信頼できるからね」
ジャックは、こちらを見守るスカーレットに向かって小さく手を挙げた。技術という名の「理屈」だけでは動かない、信頼という名の新しい歯車が、ゆっくりと回り始めようとしていた。




