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完走はしたけれど

 彼がクランクを回した瞬間、エンジンが目覚めると同時に、今までにはなかった「ヒュン」という鋭い風の唸り声が、ボンネットの中から響き渡った。


 それは、魔法の冷気ではない。 人の知恵が、鉄に命じた新しい呼吸の音だった。


「乗るんだ、スカリー! 君をエディンバラまで連れていく。魔法も奇跡もいらない、この『風』と一緒にね!」


 ジャックは泥のついた手でスカーレットを助手席へと引き上げた。 二人の旅路に、新たな風が吹き抜けようとしていた。


 ジャックとスカーレットが乗った「キャンベル号」は1000マイル・トライアルを何とか完走した。技術的にはドイツ、フランス勢には及ばないことが明らかであったが参加車両の三分の一程度しか完走できないレースを完走したことは大きかった。

 キャンベル号はHill-climb competitions(ヒルクライム競技)、Reliability awards(信頼性賞)に二つの賞を獲得した。圧倒的な実力をしめしたダイムラーは11もの賞を得ていたので同じ完走車と言っても実力の差はあったが、ジャックもスカーレットも当初目標とした完走を成し遂げたので満足していた。


 霧の街に、冬の陽が淡く差し込んでいた。

 1000マイルの旅路を終えたキャンベル号は、まだ泥と油の匂いを纏いながら、キャンベル家の工場の片隅で静かに眠っている。


 エンジン冷却の魔法を科学に変える道は1000マイル・トライアルの坂道を登るよりも辛く厳しい挑戦だった。ラジエーターはメルセデスの考案したハニカムラジエーターが技術的には完璧で、これは特許技術を金を払って手に入れることにした。問題は冷却水を強制循環させる方法だった。


 その車体に触れるジャックの指先は、勝利の余韻よりも、次なる戦いの重みを感じていた。

「……スカーレットの水魔法に頼った完走では意味がない」


 彼は低く呟き、図面の束を机に広げる。そこに描かれたのは、冷却システムの心臓部——ウォーターポンプ。


 水を送り続けるただの装置。しかし、その「ただ」が、彼にとっては深い谷だった。

 試作一号は、あっけなく壊れた。


 羽根車は水を送り出すどころか、泡を巻き込み、流れを乱した。流れの乱れが泡を呼び、その泡が破裂するたびに、鉄は小さな牙で噛まれるように傷ついていき、羽根車の軸は夜のうちに歪んでいた。

 二号機は、漏水。三号機は、回転が重すぎてエンジンを苦しめた。


 失敗の音が、夜ごと工場に響く。鉄を打つ音ではなく、諦めを叩きつけるような音だった。


 スカーレットは、その背を黙って見守っていた。

 彼女は魔法でジャックを手助けする誘惑を耐えていた。ジャックの自動車のために彼女はもう魔法を使わないと決意していた。

「あなたの戦いだから」と、静かに言った夜から、彼女はただ、お茶を淹れクッキーを用意する役目に徹していた。


 ジャックは、図面に顔を伏せながら、ふと彼女の横顔を見た。

 霧の朝に似た、淡い光を宿した横顔。


「……スカリー。君がいなければ、僕の心はとっくに折れていた」


 その言葉は、鉄の匂いに溶けて消えたが、スカーレットの瞳には、微かな炎が灯った。

 やがて、夜明け前の工場に、新しい音が生まれた。


「ヒュン」という風の唸り。

 革ベルトが遠心式の羽根車に命を与え、冷たい水を勢いよくエンジンに送り出す。

 それは、魔法ではない。人の知恵が生んだ、確かな呼吸だった。


「……できた」


 ジャックは、油に汚れた手で顔を覆い、笑った。

 スカーレットは、その笑みを見て、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

「魔法を科学に変える。それが、あなたの矜持でしょう?」

「いや……君がいたから、僕はここまで来られたんだ」


 夕暮れのロンドン。

 二人を乗せた新型車が、石畳を軽やかに駆ける。

 霧が金色に染まり、街灯がひとつ、またひとつと灯る中で、ジャックはハンドルを握りながら言った。

「スカリー。もう魔法はいらない。でも、君は……僕に必要だ」

 スカーレットは、風に髪を遊ばせながら、静かに微笑んだ。

 その微笑みは、長い旅路の果てに咲いた、一輪の花のようだった。

 ロンドンの街角で、子どもたちが歓声を上げる。


「見て! あれがキャンベル号だ!」

 その声を背に、二人の車は霧を抜け、未来へと走り続けた。

 魔法と科学の境界を越えたその先に、まだ見ぬ道が広がっている。

 そして、その道を照らすのは、鉄の輝きでも、炎の魔力でもない。


 人の意志という、静かで確かな光だった。


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