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闇夜に忍び寄る影

「助かったよ、スカリー。君が『冷却構造のせいだ』と言ってくれなかったら、今頃インチキ扱いか、さもなければ魔女裁判だった」


「いいのよ。でもジャック、嘘を本当にするのがあなたの仕事よ。明日から死ぬ気で、私の魔法と同じくらい冷えるラジエーターを発明してちょうだい?」


「ああ、もちろんだ。魔法(奇跡)を科学(日常)に変える。それがエンジニアの矜持だからね」


 二人は月明かりの下で、まだ少し冷気を帯びたエンジンの前で、勝利の祝杯を挙げました。


 祭りのあとのような喧騒が、湿った夜気に溶けていく。 熱を帯びた群衆と、鉄を焼く匂い。その騒乱の境界に、一人の男が影のように立っていた。


 男の名はマイク・バートン。自動車を語らせれば右に出る者はいない高名な評論家であり、腕利きのディーラーとしても知られている。だが、その瞳の奥に宿る怜悧な光を知る者は少ない。彼こそは、アシュフォード魔法協会の頂点に立つ男、ルーサー・スペルマンその人であった。


 マイクは、まだ微かに冷気を纏っているキャンベル号のボンネットを、愛おしむように、あるいは検分するように指先でなぞった。


「まずは、おめでとうと言っておこう。ジャック、そしてスカーレット」


 その声は、夜のとばりに深く沈み込むような、重みのある響きを帯びていた。


「だが、浮かれてはいられない。このレースは、まだ始まったばかりだ。1000マイル……人の足では遠く、機械にとっても過酷な、10日間もの長きにわたる旅路なのだからな」


 マイクは視線を巡らせた。闇の向こう側、篝火かがりびの届かぬ場所で、獲物を狙う獣のような無数の視線がキャンベル号に注がれている。


「今夜からは、スパイにも用心しろ。奴らは血眼だ。なぜこの車だけが、あの死の坂道を涼しい顔で越えられたのか……その『秘密』を暴こうと、影の中から爪を研いで狙っている」


 ジャックは、スカーレットの肩を抱く手に力を込めた。マイクの言葉は、単なる警告ではない。それは、この先に待ち受ける、人智を超えた領域の争いを示唆していた。


 マイクは、蒼白な顔で車体に身を預けているスカーレットに目を向けた。その瞳は、彼女の指先に残る、魔法を酷使した者に特有の「魔力の残滓」を見抜いているようだった。


「スカリー、君の体力の消耗は、私の想像を超えているのではないか。これから先、道はさらに険しさを増す。幾つもの峠が、牙を剥いて待ち構えているのだ。どのガソリン車も、熱にうなされ、のたうち回ることになるだろう……」


 スカーレットは、重い瞼を持ち上げた。指先は氷のように冷たく、心の芯には、使い果たした魔力の代わりに虚無感に似た鈍い痛みが淀んでいる。


「……分かっているわ、ルーサー。でも、この車を止めるわけにはいかないの。ジャックの夢を、イギリスの未来を、熱に溶かさせるわけにはいかない」


「気丈だな。だが、無理は禁物だ。機械を冷やすために、君自身の命の灯火ともしびを燃え尽きさせては元も子もない」


 マイクは短く告げると、再び群衆の闇へと溶け込むように去っていった。


 残された二人の前には、暗く、果てしない道が続いている。 ジャックはスカーレットの冷え切った手を、自分の大きな掌で包み込んだ。


「スカリー……すまない。君にばかり、重い荷を負わせてしまう」


「いいのよ、ジャック。その代わりに、いつか本当の魔法を見せて。私の魔法なんて使わなくても、北の果てまで走り抜けられるような、そんな素晴らしい機械を」


 二人の吐息が、夜の冷気に白く混ざり合う。 鉄と、魔力と、人の意地。それらが織りなす長い10日間の旅は、まだ序章を終えたばかりであった。


 北の荒野を撫でる風は、夜が深まるにつれて湿り気を帯び、重く沈んでいく。 野営地の焚き火がぜる音だけが、静寂の中に鋭く響いていた。


 ジャックは、慣れない長旅と格闘の疲れからか、愛車の横で泥のように眠り込んでいる。だが、スカーレットの意識は、薄氷を踏むような危うい均衡の中にあった。昼間の魔法行使で削られた心身は、かえって周囲の「ざわめき」に対して、獣のように敏感になっていた。


(……来たわね)


 闇の向こう側。草を踏む微かな音ではなく、空気が「揺れる」気配を感じ、彼女はそっと瞼を開けた。


 マイク・バートンの警告は正しかった。闇に紛れ、数人の影が音もなくキャンベル号へと這い寄ってくる。彼らの手には、鋭いナイフや、中の構造を強引に暴くための工具が握られていた。


 スカーレットは身を起こさず、ただ静かに、車体から伸びた細い導線に指先を触れた。 彼女はあらかじめ、ジャックに内緒で仕掛けを施しておいたのだ。エンジンの点火を司る高圧発電機——マグネトー。その電気を、絶縁を解いたボディ全体へと密かに誘導する回路。


「……お行きなさい」


 唇だけで囁き、彼女はごく微かな、呼吸のような魔法を導線へと流し込んだ。それは電気の奔流を呼び覚ますための、ほんの小さな「呼び水」に過ぎない。


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