魔法の助けを借りて
「落ち着いて、ジャック。私を誰だと思っているの?」
助手席のスカーレットが、静かに手袋を脱いだ。彼女の透き通るような指先が、ダッシュボードの奥、エンジンルームへと繋がる隔壁に触れる。
「……凍てつきなさい」
スカーレットが小さく呟いた瞬間、車内に凛とした冷気が走った。 彼女が放つ氷魔法が、過熱した鉄の塊を内側から優しく、かつ強力に包み込んでいく。激しく上昇していた水温計の針が、魔法に押し戻されるようにスルスルと適正温度まで下がっていった。
「スカリー、これは……!」 「エンジンの冷却温度を私が直接制御するわ。あなたはアクセルを踏むことだけに集中して。外気冷却に頼っている彼らには、真似できない芸当よ」
ジャックは不敵に笑い、ギアを叩き込んだ。 「最高だ! 魔法と科学の融合……これこそがキャンベル社の真骨頂だな!」
猛烈な勢いで坂を駆け上がるキャンベル号。 その横を、エンジンを冷やそうと必死にバケツで水をかけている大陸メーカーのドライバーたちが、呆然とした表情で見送る。彼らの目には、白煙を上げるどころか、ラジエーターからうっすらと霜を滴らせながら爆走していくイギリス車が、怪物か何かに見えたに違いない。
「抜いたぞ! メルセデスも、パナールも、みんな止まって見える!」 ジャックの歓喜の叫びが、山々に響き渡った。
難所を越えたキャンベル号は、他の追随を許さない圧倒的なリードを保ったまま、上位集団へと躍り出た。マスコミの記者たちが待つチェックポイントは、もう目の前だった。
チェックポイントまでの約100マイルを走り抜き、ゴールラインを越えたキャンベル号を待っていたのは、割れんばかりの歓声と、それ以上に鋭い「疑念の目」でした。
他社の車が軒並み蒸気を噴き上げ、無残にボンネットを歪ませている中で、キャンベル号だけはまるで避暑地をドライブしてきたかのように涼しげな顔で停車していたからです。
「ありえん! こんなことは物理的に不可能だ!」
最初に声を上げたのは、道中で追い抜かれたフランスの有力メーカー、パナールの技術主任でした。彼は血走った目でキャンベル号に詰め寄り、まだ熱を持っているはずのエンジンルームを指差しました。
「あの急勾配の峠を、この速度で登り切ってオーバーヒートしないはずがない。さては、隠しタンクに大量の予備冷却水でも積んでいたのか? それとも、何か不正な冷却装置を隠しているのか!」
新聞記者たちが一斉にノートを構え、フラッシュが焚かれます。魔法の行使は、この時代の科学者たちにとっては「詐欺」か「オカルト」として糾弾の対象になりかねません。ジャックが説明に窮し、冷や汗をかいたその時でした。
スカーレットは優雅に車から降り立ち、手袋をはめ直しながら、あえて挑発的な笑みを浮かべました。
「あら、パナールの方。イギリスの気候を知らないのかしら? この霧と冷たい大気を『味方』につける方法を知っていれば、予備のタンクなんて重たいものは必要ありませんわ」
「な、何だと……? 霧を味方にするだと?」
記者が身を乗り出す中、スカーレットはボンネットの一部を指差しました。そこには、彼女が魔法で冷やした際に生じた結露が、不自然なほどびっしりと付着していました。
「私たちは、エンジンの熱を単に逃がすのではなく、独自の『多層薄型冷却翼』と、効率的な『強制循環流路』を採用しているのです。秘密は流体力学と、この特殊なフィン構造にあるの。……もっとも、企業秘密ですからこれ以上は見せられませんけれど?」
彼女は秘密めいたウィンクを投げかけました。記者たちは「最先端の科学的設計」という言葉に飛びつき、「英国の知性が大陸の馬力を凌駕した!」と猛烈な勢いでメモを取り始めました。
スカーレットが時間を稼ぎ、世論を「未知の新技術」へと誘導したのを見逃さず、ジャックは即座にその流れに乗りました。彼は愛車の横に立ち、自信に満ちた声で宣言しました。
「諸君! 今日の勝利は、単なる速さの証明ではない。自動車の最大の敵である『熱』を、我々キャンベル社が完全に支配した記念すべき日だ!」
ライバルたちの不満を封じ込めるように、彼はさらに言葉を重ねます。
「今回我々が実戦投入した冷却技術は、近日中に『キャンベル式高効率ラジエーター』および『強制駆動ウォーターポンプ』として、すべての自動車メーカーに供給可能な形で製品化する予定だ。我々の車が熱を持たなかった理由を知りたいか? ならば、その答えは我々の工場にある!」
「製品化だと……!?」 ライバル会社の技術者たちの顔色が変わりました。疑惑は一瞬にして「最新技術への興味」へと書き換えられたのです。
その夜、人影のないガレージで、ジャックはスカーレットに深く頭を下げました。




