1000マイル・トライアルで起死回生
19世紀も終わりを告げようとする霧のロンドン。石畳を叩く馬蹄の音に混じって、近頃では聞き慣れない機械音が響くようになっていた。
ジャックは窓の外を走る1台のフランス製自動車を苦々しく見つめ、隣に立つ相棒に声をかけた。
「スカリー、見てくれ。大陸の連中に比べて、イギリスの自動車産業は数十年も遅れている。この国を走っているのは、どこの国の車だと思う?」
スカーレットは手元の資料から目を離さず、冷静に返した。 「知っているわ、ジャック。すべてはあの忌まわしい『赤旗法』のせいよね。乗合馬車を守るために、自動車の前に赤い旗を持った人間を歩かせた……。あの法律が、この国の技術革新を檻に閉じ込めてしまったのよ」
「その通りだ」 ジャックは力強く頷いた。 「おかげで、今や大陸のメーカーの自動車がイギリス中を席巻している。だが、我々だって指をくわえて見ていたわけじゃない。キャンベル社として、彼らに勝るとも劣らない素晴らしい自動車を作り上げたじゃないか」
「ええ、技術的にはね」 スカーレットは皮肉めいた笑みを浮かべ、帳簿を指差した。 「でも、残念ながら全く売れていないわ。市場はまだ、我々の車を信じていないのよ」
ジャックは窓から離れ、ガレージの奥に鎮座する、静かな光沢を放つ最新モデルへと歩み寄った。 「そこでだ、スカリー。起死回生の策がある。カーレースに出て、大陸の有名メーカーの車と真っ向から勝負するんだ。そこで遜色ないどころか、我々が優れていることを証明できれば、マスコミもこぞって我々の車を英雄として書き立てるだろう」
スカーレットは眉をひそめた。 「レース? あなた、本気なの? 一体どんな無茶なレースに出るつもり?」
「今度開催される『1000マイル・トライアル』だ。ロンドンからエディンバラまで、イギリス中を駆け抜ける過酷な長距離レースだよ。このレースで完走さえできれば、十分な耐久性があることを世間に示せる」
その言葉を聞いて、スカーレットの瞳にわずかな希望の光が宿った。 「1000マイル……。確かにキャンベル社の電気自動車は『耐久性がない』『街乗りの玩具だ』っていう悪い評判が定着してしまっているわ。もしその距離を走り抜けば、その汚名をそそぐ最高の舞台になるわね」
ジャックは不敵に笑い、愛車のボンネットを叩いた。 「ああ。我々の『キャンベル号』が、ガソリン臭い大陸の怪物たちを追い抜く姿を見せてやろうじゃないか」
「わかったわ、ジャック。準備を始めましょう。イギリスの誇りを取り戻すためにね」
二人の視線の先には、まだ誰も成し遂げたことのない、長く険しい道のりが続いていた。
「1000マイル・トライアル」の幕が上がった。 かつて「トラブル続きの電気自動車のキャンベル」と揶揄された汚名をそそぐべく、ジャックが新たに設計したのは、最新鋭のガソリンエンジンを搭載した野心作だった。
ロンドンの市街地では、その静粛性と安定性は群を抜いていた。ジャックはハンドルを握りながら、確かな手応えを感じていた。 「見ていろスカリー、この新型エンジンなら、大陸の連中を驚かせるどころか、イギリスの夜明けを告げることになるぞ」
しかし、レースが北部の険しい山岳地帯に差し掛かると、状況は一変した。 目の前には、空を突くような急勾配の坂道が連なっている。先行していたフランスやドイツの強力な大排気量車たちが、次々と路肩に停車し、ボンネットから真っ白な蒸気を噴き上げていた。
「……まずいな。想像以上の負荷だ」 ジャックの表情が強張る。エンジンの回転数が落ち、ボンネットの隙間から、嫌な熱気が運転席まで流れ込んできた。金属が悲鳴を上げるような異音が混じり始める。 「このままだと、うちの車もあいつらと同じ末路だ。オーバーヒートでエンジンが焼き付くぞ!」




