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ロンドンで見た現実

 ガス灯の光が石畳を濡らす1897年のロンドン。ジャックがスカーレットの手を引いてピカデリー・サーカスへ連れ出したのは、単なる物見遊山ではありませんでした。


「見てごらん、スカーレット。あれがキャンベルの『ハミングバード』だ」


 ジャックが指さした先には、鮮やかな黄色と黒に塗られた奇妙な車両が停まっていた。馬がいない。代わりに重厚なモーターの唸りを上げ、静かに滑り出すその姿は、確かに新しい時代の幕開けを予感させた。


「馬がいないのに動くなんて、魔法みたい。でも……」 スカーレットは鋭い観察眼で、その車両の不自然な揺れを見逃さなかった。


 ジャックは苦笑混じりに頷いた。「君の言う通りだ。中身は魔法どころか、厄介な代物さ。あの床下には途方もない重さの鉛蓄電池が積み込まれている。このロンドンの荒れた石畳を走るには、馬車由来の華奢なシャシーではあまりに荷が重いんだ」


 事実、二人の目の前で一台の電気タクシーが深い轍に足を取られ、金属の悲鳴を上げた。サスペンションが耐えきれず、不格好に車体を傾けて立ち往生する。数分後には、通りかかった辻馬車に牽引されていく無惨な姿があった。


「郊外まで行けば、帰りは馬に引かれて戻ってくるのがあいつらの日常さ」 周囲の辻馬車御者たちは、最初は自分たちの職を奪う「鉄の怪物」を警戒していた。しかし、その技術的な未熟さが露呈するにつれ、今では鞭を振りながら「おい、誰かあのハチドリに餌(電気)をやってくれ!」と嘲笑の声を上げている。


 だが、ジャックがスカーレットに見せたかったのは、失敗の記録ではなかった。


「電気はまだ早すぎたのかもしれない。だが、あっちを見て」


 彼が指した視線の先を、一台のガソリン自動車が独特の破裂音を立てて横切った。かつて蒸気自動車の普及を阻んだ「赤旗法」が撤廃されて以来、大陸のベンツやパナール、そして米国からの輸入車がロンドンの空気を変え始めていた。


「あれなら、馬に牽引される屈辱を味わうこともないわね」 スカーレットは、運転手が車体の前でクランク棒を力一杯回し、エンジンに命を吹き込む面倒な儀式を興味深げに見守った。


「ああ。APOCやシェルといった会社が石油を扱い始め、今や都会の角を曲がればガソリンが手に入る時代だ。薬局へ行かなくても、燃料が買える。インフラが整えば、もはやクランクを回す手間など些細な問題になるだろう」


 ジャックの言葉を聞きながら、スカーレットは目の前の風景を脳裏に焼き付けた。重すぎるバッテリーに喘ぐ電気の夢と、轟音と共に躍進する内燃機関。


「ジャック、あなたの言う通りだわ。この街はもう、馬の足音ではなく、ガソリンの爆発音に支配される。電気のハチドリは、少しばかり時代を先取りしすぎたのね」


 霧の向こうへ消えていくガソリン車のテールランプを見つめながら、スカーレットは確信していた。新しい世紀の主役が、今まさにロンドンの空気を塗り替えようとしていることを。


 ***


 ジャックがスカーレットの紹介で訪ねたのは、ロンドンのはずれに瀟洒なガレージを構える男、マイク・バートン氏(またの名をルーサー・スペルマン、アシュフォード魔法協会の会長)だった。


 マイクは単なる評論家ではなかった。彼は最新の輸入車ディーラーとしての顔を持ち、大陸のパナールやベンツ、あるいは海を越えて届くアメリカの技術にまで精通する、ロンドンで最も「先を見通せる男」の一人だった。


「スカーレットの友人なら歓迎するよ、ジャック。それで、あの『黄色いハチドリ』に見切りをつけたというのは本当かい?」


 マイクは、整備台に置かれたフランス製のエンジンを磨きながら、愉快そうにジャックを迎え入れた。ジャックは率直に胸の内を明かした。電気タクシーの無惨な立ち往生、石畳に負けるシャシー、そして何より、巨大な鉛の塊を持ち運ぶという非効率さ。


「電気タクシーの販売からは手を引こうと考えています。これからはガソリン車の時代だ。私はその販売代理店を始めたいと思っています」


 ジャックの言葉を聞くと、マイクは手に持ったウエスを置き、真剣な眼差しでジャックに向き直った。


「いい判断だ。電気自動車も、静粛性や操作性の面では貴重な技術だ。だが、商売にするにはいささか早すぎた。インフラも、そして何より材料工学が追いついていないんだよ」


 マイクはガレージの隅に置かれた、クランク棒で始動する剥き出しのエンジンを指差した。


「今、イギリス国内のメーカーも必死に追い上げている。だが、まだ大陸や米国からの輸入に頼っているのが現状だ。君のところは、電気タクシーの保守で培った『重い車体を制御する』技術と、精巧な機械工作のノウハウがあるじゃないか」


 マイクはジャックの肩を叩き、野心的な助言を付け加えた。


「単なる輸入販売業者ディーラーで終わるつもりかい? もったいない。君たちのような技術を持ったチームなら、輸入車の修理や販売に留まらず、自社でガソリンエンジンの製造……いや、イギリス独自の自動車開発に取り組んでもいいはずだ。技術のトレンドは今、まさに『内燃機関の国産化』へ向かっているんだからね」


 その言葉は、ジャックの心に新たな火を灯した。ただ完成品を売るのではない。この手で、霧の街ロンドンを力強く駆け抜ける「心臓」を作り上げる。


 ジャックは隣で微笑むスカーレットを見た。彼女の瞳にも、ガソリンの匂いと共に訪れる新しい時代の輝きが映っていた。


 ***


 ジャックがマイク・バートンのガレージを辞した直後の夜、スカーレットはアシュフォード工場の実質的な支配者である祖父、ヘンリー卿の執務室を訪ねていた。


 重厚なオーク材のデスクを前に、スカーレットはジャックが抱えている苦悩と、彼が心に秘めた新たな野心について、一言一言慎重に言葉を選んで打ち明けた。


 すべてを聞き終えたヘンリー卿は、暖炉の火を見つめたまま、しばらく沈黙を守っていた。やがて、深く、静かな声が漏れる。


「……ジャックが儂にではなく、お前にその本音を話したという意味を、お前は考えたことはあるかね」


 スカーレットは言葉に詰まり、祖父の背中を見つめた。ヘンリー卿は椅子をゆっくりと回転させると、半ば独りごとのように語り始めた。


「ジャックも随分と悩んでいるのだろうな。ルーサー……いや、マイク・バートンからも、彼がガソリン自動車へ舵を切りたがっているという話は聞き及んでいる。あの先読みの鋭いマイクが言うのだから、電気自動車の未来は、早晩潰える運命にあるのだろう」


 ヘンリー卿の眼差しは、鉄道王として一時代を築き上げてきた男特有の鋭さを湛えていた。彼は時代の潮目が変わる音を、ジャックやマイクと同じように聞き取っていたのだ。


 スカーレットは意を決して、祖父の目を真っ直ぐに見据えた。


「おじい様、もし……もしジャックがどうしても必要としたら、アシュフォード工場の人や技術を彼に貸し出す許可をいただけますか。新しい心臓を作るために」


 ヘンリー卿は孫娘の強い眼差しを、試すように見返した。アシュフォードの技術は英国の至宝だ。それを一若者の冒険に投じることは、本来ならば許されない。


 しかし、卿の口元にはわずかな微笑が浮かんだ。


「スカーレット。お前がその鋭い観察眼で、この事業に成功の見込みがあると判断したのなら……その時は許可しよう」


「本当ですか?」


「ああ。ただし、これは慈善事業ではないぞ。アシュフォードの誇りを貸すのだ。結果で示せ」


 その言葉は、ジャックの夢を支えるための最大の「切札」をスカーレットに預けたことを意味していた。彼女は深く頭を下げ、執務室を後にした。その胸には、ジャックと共に新しい時代を切り拓くという、揺るぎない確信が芽生えていた。


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