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共犯者の道へ

 それからしばらく経って、放課後の柔らかな光が、古びた煉瓦の校舎を琥珀色に染め上げていた。その裏手、大きなプラタナスの木陰で、スカーレットはどこか決然とした面持ちでジャックに向き合っていた。


「……ジャック、伝えておかなくてはならないことがあるの」


 彼女の声は、風にそよぐ葉の音に混じって静かに響いた。ジャックは、彼女の真剣な眼差しに、わずかに背筋を伸ばした。


「実はね、お爺さまに報告したわ。あのキャンベル社の工場で、私があなたに……自分が魔法を使えることを知られてしまったこと」


 ジャックは息を呑んだ。アシュフォード家の現当主、あの威厳に満ちたヘンリー・アシュフォードに自分のことが伝わったのだ。


「お、お爺さまは何て……?」


「最初は驚いていらしたけれど、事情を話したら分かってくださったわ。あの時、労働者たちの猛った気を静めるには、ああするしかなかったのだと。……それにね、お爺さまにはあなたのことも話したわ」


 スカーレットの瞳に、柔らかな光が宿る。


「あなたが労働者たちの前で、なぜキャンベル社が電気自動車の製造へ舵を切ったのかを説いたこと。あの誠実な言葉が、どれほど彼らの魂を救ったか……。お爺さまは、あなたがただの傍観者ではなく、自らの足で未来を見ようとする少年であることを、高く評価していらしたわ」


 スカーレットは、プラタナスの白い樹皮にそっと手を触れた。 (――お爺さま自身も『術』を使い、この世界のことわりを知る方だからこそ、状況の危うさを理解してくれたのだわ。けれど、それはまだジャックには秘密……) 心の内でそう呟き、彼女は言葉を続けた。


「お爺さまがね、『時間ができたら、そのジャックという少年を連れてきなさい』とおっしゃったわ。あなたに直接、会って話がしたいそうです」


「僕に……? アシュフォード家のご当主が?」


 ジャックの困惑を宥めるように、スカーレットは小さく微笑んだ。


「怖がらなくていいわ。お爺さまが私をこんな風に育てたのは、伊達に長く一族を率いてきたからではないの。厳しい方だけれど、真実を見抜く目を持っていらっしゃる。あなたが大切にしている電気自動車の夢も、きっとお爺さまの耳には、未来を拓く新しい風の音として届くはずよ」


 プラタナスの葉が、一際大きく揺れた。ジャックは、自分の運命が大きな川の流れに乗り始めたような、得も言われぬ予感に震えていた。


 ***


 アシュフォード邸を囲む高い石壁の向こう側は、外の世界とは流れるときの密度が違うようだった。


 重厚な黒檀の扉が開かれた先、高い天井まで届く書架に囲まれた応接室で、ジャックは硬い椅子に腰を下ろしていた。スカーレットは隣に座り、まるで嵐の前の静寂を楽しむかのように、凛として背を伸ばしている。


「……父さんがいれば、少しは心強かったんだけどな」


 ジャックが震える声でささやくと、スカーレットは悪戯いたずらっぽく、けれど優しく微笑んだ。


「お父様がいらっしゃらない方が、お爺さまも話しやすいのよ。それに、これはあなた自身の問題だわ」


 その時、奥の扉がゆっくりと開き、部屋の空気が一変した。 入ってきたのは、銀髪を隙なく整え、鉄の芯が通ったような背筋を持つ老人――ヘンリー・アシュフォード卿だった。


 その鋭い眼差しに射すくめられた瞬間、ジャックは息をすることさえ忘れた。それは、数多の労働者を一喝し、激動の時代を生き抜いてきた者だけが放つ、抗いがたい「気」の圧力だった。


 ヘンリーは無言のままジャックの正面に座ると、テーブルに置かれたジャックの手を、その深いしわに刻まれた眼差しで見つめた。


「ジャック、と言ったな。……このスカーレットが、お前の前で『術』を使ったと聞いた」


 低く、地の底から響くような声だった。ジャックは喉を鳴らし、懸命に言葉を絞り出した。


「は、はい……。あの時は、工場の皆が……混乱していて、彼女がそれを止めてくれました」


「ほう。あれだけの狂乱を目の当たりにして、腰を抜かさずにいたか」


 ヘンリーの視線が、わずかに細められる。


「それだけではない。スカリーからは、お前が労働者たちに『電気自動車』の必要性を説いたとも聞いている。古い技術にすがる者たちに、未知の未来を信じさせるのは、言葉に魂を乗せねば叶わぬこと。……お前は、この世界の変わりゆく時代の音が聞こえているのか?」


 ジャックは、ヘンリーの瞳の奥に、スカーレットが持っているものと同じ「静かな熱」を見た。緊張で指先は冷えていたが、自分の夢を語る時だけは、不思議と視線が揺るがなかった。


「……聞こえているかは分かりません。でも、古いものが消えていく悲しみを知っているからこそ、新しい光を見せなきゃいけないと思ったんです。スカーレットが魔法で彼らの心を静めてくれなかったら、僕の言葉なんて届きませんでした」


 スカーレットは、隣でジャックの言葉を静かに聞きながら、お爺さまの表情の変化を逃さなかった。ヘンリーの口元に、ほんのわずかな、氷が解けるような揺らぎが生まれたのを。


「……伊達にアシュフォードの隣で育ったわけではないようだな」


 ヘンリーはそう言うと、傍らに置いてあった古い革装の書物を指先で叩いた。


「ジャック。お前が目指すその『未来』には、鋼の知識だけでは足りぬ瞬間が必ず来る。スカーレットに見せられたあの力を、お前はどう受け止めるつもりだ?」


 ヘンリー卿の鋭い眼差しが、ジャックの心の奥底を抉り出すように向けられました。重厚な書斎の空気は一気に密度を増し、ジャックは自分が試されていることを痛いほどに感じました。


 ジャックは震える拳を膝の上で強く握りしめ、一度ゆっくりと息を吐き出すと、逃げることなくその老人の瞳をまっすぐに見つめ返しました。


「……魔法が何なのか、正直に言って、今の僕にはまだ分かりません」


 ジャックの声は、最初は微かに震えていましたが、言葉を重ねるごとに確かな熱を帯びていきました。


「でも、ヘンリー卿。僕は工場で、はがねがただの冷たい塊ではないことを教わりました。それを打つ人の心や、扱う人の『気』ひとつで、機械は生き物のように表情を変えます。スカーレットが見せてくれた力も、僕にとってはそれと同じなんです」


 スカーレットが隣で、小さく息を呑むのが分かりました。


「もし、彼女の力が、荒ぶる気を鎮めて人々の心をなぎにするものだとしたら……僕の作る鋼の機械は、人々の暮らしを穏やかにして、そもそも心が荒ぶらずに済むような、そんな『土台』になりたいんです」


 ジャックはそこで一度言葉を切り、少しだけ表情を和らげました。


 部屋を支配する沈黙の中で、プラタナスの葉を揺らす風の音だけが、窓の外から微かに届いていた。


 ヘンリー・アシュフォードは、ジャックの言葉をじっと吟味するように沈黙を守っていた。部屋を支配する重厚な空気の中で、暖炉の薪が爆ぜる音だけが、まるで時を刻む鼓動のように響いている。


 やがて、ヘンリーは深く、長い溜息をつくと、椅子の背にもたれかかった。


「ジャック、お前に一つ、アシュフォード家が数世代にわたり、墓場まで持っていく覚悟で守り続けてきた秘密を話そう」


 スカーレットがわずかに身を乗り出した。彼女の瞳にも、緊張の色が走る。


「我が一族には、稀にスカーレットのような『力』を持って生まれてくる者がいる。それは祝福でもあり、同時に呪いでもある。かつて、その力を私利私欲のために、あるいは他者を支配するために使おうとした者たちがいた。だからこそ、我々はこの力を血の中に隠し、ただ一族の責務を果たすためだけに、密かに用いてきたのだ」


 ヘンリーの鋭い眼光が、ジャックの魂の奥底を見透かすように向けられた。


「この秘密をお前と共有する。……だが、それには条件がある」


 ジャックは無意識に拳を握りしめ、ヘンリーの言葉を待った。


「その条件とは、スカーレットの力が暴走した時、あるいは彼女がその力の重みに押し潰されそうになった時、お前が『技術』という名のくさびとなり、彼女をこの人の世に繋ぎ止めることだ」


「僕が……スカリーを、繋ぎ止める?」


「左様。魔法というものは、使い手の心に呼応する。あまりに深くその力に沈めば、人は人であることをやめてしまう。だが、お前が語る『電気自動車』や『新しい技術』は、ことわりに基づき、等しく人々の暮らしを支えるものだ。お前のその現実を見据える瞳が、いつか彼女を救う光になるかもしれない。……いかなる時も、彼女の傍らで正気を保ち、友として、あるいはそれ以上の存在として、彼女を導き続けると誓えるか?」


 ジャックは隣に座るスカーレットを見た。彼女は驚いたように目を見開いていたが、その頬は微かに赤らんでいる。ジャックは再びヘンリーに向き直り、震えを抑えてはっきりと頷いた。


「誓います、ヘンリー卿。僕は……魔法は使えません。でも、僕が作る機械や、僕の言葉で、彼女が迷わないように支え続けます」


 ヘンリーは、初めてその厳格な相好を崩し、ふっと短く笑った。


「よろしい。伊達にアシュフォードの血を見てきたわけではないようだな。……ジャック、これからはお前も、この『歴史』の共犯者だ」


 窓の外では、大きなプラタナスの木が風に揺れ、乾いた音を立てている。それは、古い魔法の時代の終わりと、少年が切り拓く新しい技術の時代の始まりを、祝福しているかのようだった。


 ***


 ジャックの足音が遠ざかり、重厚な扉が閉まると、応接室には再び静寂が戻ってきた。琥珀色の夕闇が窓から差し込み、長い影が床に伸びている。


 スカーレットは、熱の冷めきったティーカップを見つめたまま、小さく息を吐いた。沈黙に耐えかねたように、彼女は正面に座る祖父、ヘンリーを仰ぎ見る。


「……お爺さま、誤解しないで。私とジャックは、恋人とか、そういうものではありませんから」


 その声は、どこか自分自身に言い聞かせるような響きを持っていた。ヘンリーは、手元に残った茶を飲み干すと、静かに口角を上げた。その眼差しは、すべてを見透かす老練な狩人のようであり、同時に孫娘を慈しむ守護者のようでもあった。


「スカリー、お前がジャックに己の力を見せた。その意味を、お前自身が一番よく分かっているはずだ。知られても構わない、いや、この者にならば知られてもいいと、お前の魂が決断した。それは、理屈を超えた心の動きなのだよ」


 スカーレットは反論しようと唇を動かしたが、言葉は形にならずに消えた。ヘンリーは、窓の外で揺れるプラタナスの梢に視線を移し、静かに言葉を続けた。


「自分の心に正直になることも必要なことだ。秘めたる力を持つ者にとって、孤独は毒となる。だが今、彼はもう他人ではない。お前と命の根源に触れるような特別な秘密を共有する仲になったのだ」


 ヘンリーは椅子から立ち上がり、スカーレットの肩に節くれだった大きな手を置いた。その手の温もりが、彼女の頑なな心を少しずつ解かしていく。


「これからは、スカリー、お前もジャックを守らなければいけないよ。彼が新しい時代を拓こうとすれば、必ず強い風にさらされ、困難が降りかかるだろう。秘密を分かち合ったということは、互いの運命を背負うということだ。彼の歩む道が険しいものになった時、その傍らで力を振るい、彼を支えなさい」


「……私が、彼を」


「そうだ。彼がお前を人の世に繋ぎ止める楔となるならば、お前は彼を嵐から守る盾となる。それが、アシュフォードの名を継ぎ、力を持つ者の選ぶべき道なのだから」


 スカーレットは、夕闇に沈む庭園を見つめた。そこにはもうジャックの姿はなかったが、彼と交わした約束の残り香が、まだ部屋の中に漂っているような気がした。


「……はい、お爺さま」


 小さく、けれど確かな決意を込めて答えた彼女の瞳には、かつてない強さと、ほんの少しの戸惑いが混じり合っていた。風が吹き抜け、プラタナスの葉が騒めく。それは、これから二人に訪れる波乱の予兆のようでもあり、新しい絆への祝詞のようでもあった。


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