収束
ジャックは、傍らに立つ少女の姿に、息を呑んだ。 逆光のなかに立つスカーレットの横顔は、見慣れたはずの「スカリー」ではなかった。光の粒子を纏い、超然と佇むその姿は、この世の理を超越した、どこか遠い世界の、神聖な生き物のようであった。
――彼女は、何者なんだ。
合理という名の盾に守られ、理性の範疇で世界を解釈してきたジャックにとって、それは雷に打たれるような衝撃だった。
スカーレットは静かに目を閉じた。 この瞬間、二人の間にあった「当たり前の日常」が永遠に失われることを、彼女は痛いほど分かっていた。魔法など迷信であり、非科学的な不合理だと切り捨てられるこの社会で、その力を晒すということが、どれほどの孤独を招くか。
それでも、彼を、彼の守ろうとした場所を守れるなら、それでよかった。
完全な静寂が訪れた。 波打っていた群衆のざわめきが、降り積もる雪のように音を失い、消えていく。 張り詰めていた緊張が解け、スカーレットの細い肩が、わずかに震えた。
(これでジャックとの別れになるのね。でも私は後悔しない……)
その震えを、ジャックは見逃さなかった。驚愕のあとに押し寄せたのは、恐怖ではなく、自分の知らない場所で一人戦っていた少女への、胸を締め付けられるような想いだった。
静寂は、降り積もる新雪のように工場敷地を覆い尽くしていた。
さきほどまで怒号を上げ、石を握りしめていた労働者たちは、一様に手をおろし、呆然とした表情で立ち尽くしている。ある者は自分の掌を見つめ、またある者は隣の男と顔を見合わせた。彼らの瞳からは先刻の濁った熱が消え、深い霧のあとに訪れる清澄な空気が、その場を支配していた。自分がなぜこれほどまでに猛っていたのか、その理由さえ、今は遠い夢の中の出来事のように感じられているようだった。
その静寂を裂いて、マイケル・キャンベルの声が響いた。それは、一人の経営者としてではなく、共にこの土地で生きてきた男としての、苦渋に満ちた告白だった。
「……みんな、聞いてくれ。キャンベル織物工場は、実は倒産の瀬戸際にあったんだ」
その言葉に、労働者たちの間にさざ波のような動揺が走った。マイケルは、工場の重い扉を背に、逃げ場のない真実を語り続ける。
「我々の織物を欲しいという人たちが、もはや市場からいなくなってしまった。時代の流れは残酷だ。人々は、ロムニー羊の硬い毛よりも、しなやかで柔らかなメリノ羊の毛を好むようになった。どれほど精緻に織り上げても、売れ残った反物が倉庫に積み上がるばかりだったんだ」
沈黙のなか、一人の年嵩の労働者が、掠れた声で問いを投げた。 「……イギリス国内で売れないのなら、海外への輸出は考えなかったのか。俺たちが心血注いで織った布だ、海を渡れば価値がわかる奴もいたはずだ」
厳しい追及に、マイケルは深く頷いた。その瞳には、幾夜を悩み抜いた男の疲労が滲んでいる。 「……もちろん考えた。だが、大陸の関税の壁はあまりに高い。我々の製品は、向こうに着く頃には、誰も手が出せないほど高価なものになってしまうんだ。このままでは、キャンベル家も、そして君たちの生活も、共倒れになるしかなかった」
マイケルは一度言葉を切り、傍らに立つジャックと、その隣で静かに息を整えるスカーレットに視線を走らせた。
「そこで、私は決断した。これからの時代を牽引するのは、布を織る力ではなく、未来を走る力――電気自動車だ。アシュフォード家の並外れた協力があって、ようやく世界と戦える、競争力のある車が開発できた。織機から油の匂い漂う機械へと、仕事の内容は大きく変わるだろう。慣れない作業に戸惑うことも多いはずだ。だが……それでも、私は誰一人欠けることなく、君たちの雇用を守りたい。それが、私の唯一の願いだったんだ」
「電気自動車なんて言う得体のしれない機械が売れるとも思えないし、我々に作れるとも思えない。その場しのぎの作り話ではないのか」と先ほどの騒動を先導していた労働者の一人が大声で言った。
ジャックがその声に応えた「電気自動車が未完成な技術であることは確かです。我々は他のメーカーに無いノウハウをアシュフォード家から授けられたので他の自動車メーカーよりも競争優位にいるのです。今、市場に製品を出せれば勝てるとの確信をもって鞍替えの決断をしました」
「そういう訳で勝算があると思っての転換なんだ。よく考えて、できれば我々と一緒に車づくりをするという結論を出して欲しい」マイケルが力強く話した。
マイケルの声は、冬の夜気をついて真っ直ぐに労働者たちの胸へと届いた。 魔法がもたらした一時の静寂は、今や、血の通った言葉によって、重い納得へと変わり始めていた。ジャックは、父の背中越しに広がる工場の影を見つめた。そこには、不合理な力に救われ、合理的な対話によって繋ぎ止められた、危うくも新しい時代の萌芽があった。
闇の底で蠢いていた熱は去り、工場の敷地には、冬の夜特有の静謐な冷気が戻っていた。
騒乱のあと、労働者たちの多くは、マイケルの誠実な言葉に未来を託すことを選び、家路についた。新しい「自動車」という機械に不安を覚えつつも、彼らはマイケルが差し出した希望の糸を掴んだのだ。しかし、二割ほどの者たちは、やはり先祖代々の織機を離れる決心がつかず、工場を去る道を選んだ。マイケルは苦しい工面の中から、キャンベル家の財産を処分して彼ら一人ひとりに厚い餞別を手渡し、その背中を見送った。




