労働争議
アシュフォード邸の重厚な玄関扉を叩く音は、どこか切羽詰まった響きを帯びていた。
「ヘンリー卿は、ご在宅でしょうか!」
駆け込んできたジャック・キャンベルは、冬の冷気に肺を焼かれたかのように、激しく肩を上下させていた。応対した老使用人は、銀の盆を胸に捧持したまま、困惑したように眉を寄せる。
「旦那様は議会がございますゆえ、ロンドンへ発たれました。あちらには数日滞在されるご予定ですが……」
その言葉を聞いた瞬間、ジャックの全身から力が抜け、がっくりと肩が落ちた。少年の面影を残すその背中には、彼一人の手には余るほどの、重く暗い「現実」の礫が降り注いでいるようだった。
ホールの吹き抜けに落ちる足音を耳にして、スカーレットは二階の踊り場から姿を現した。
「ジャック、おじい様に何の用なの?」
その鈴を転がすような、けれど芯の通った声に、ジャックが弾かれたように顔を上げる。
「スカリー……。父が、織物工場を閉じて自動車工場に転換すると従業員に発表したんだ。そうしたら、職を失うことを恐れた者たちが騒ぎ出して……今、工場の事務所が完全に取り囲まれている。父一人では抑えきれない。ヘンリー卿なら、この混乱を鎮める知恵を貸してくださるはずだと、必死で駆けてきたんだが……」
スカーレットは階段を降り、ジャックの傍らまで歩み寄った。彼女の瞳には、祖父譲りの怜悧な光が宿っている。
「おじい様はロンドンよ。今すぐ使いを出しても、戻られるのは明日になるわ。……私に何ができるか分からないけれど、ジャック、一緒に工場へ戻りましょう。マイケル叔父様を一人にしておくわけにはいかないわ」
「いけない、スカリー! 君をあんな危険な目に合わせるわけにはいかない」
焦燥に駆られたジャックが制止するが、スカーレットは動じなかった。彼女の内に眠る、あの「理」の外側にある力が、微かに疼くのを感じていた。
「あら、私、こう見えて案外強いのよ」
彼女はそう短く告げると、迷いのない足取りで玄関の石畳を蹴った。
二人が辿り着いたキャンベル家の工場は、もはやかつての活気ある生産の場ではなかった。冬の夕闇が迫るなか、百人を超える労働者たちが、どろりとした澱みのような殺気を放ち、事務所の建物を幾重にも取り囲んでいた。
「……想像していたより、ずっと殺気立っているわね」
スカーレットの口から、吐息とともに呟きが漏れた。人の放つ「負」の感情が、見えない霧のように工場の敷地を覆い尽くしている。
「あいつだ……あそこで大声を上げている奴が、皆を扇動している」
ジャックが、群衆の中で先頭に立つ男を指差し、悔しそうに奥歯を噛み締めた。
鉄と石炭の匂いが染み付いた風が吹き抜けるなか、スカーレットは静かに目を閉じた。合理的な技術が世界を塗り替えようとするその陰で、行き場を失った人々の叫びが、不合理な「嵐」となって吹き荒れようとしていた。
「どけ! 俺たちの食いぶちを奪う機械なんて、叩き壊してやる!」
怒声が、凍てつく冬の空気を切り裂いていた。群衆の放つ熱気が、刺すような冷風を押し返し、どろりとした澱みとなって広がっていく。それは、長年この地で生きてきた誇りと、明日をも知れぬ暮らしへの恐怖、そして拠り所を失った絶望が綯い交ぜになった、逃げ場のない熱量だった。
事務所の扉を背に、父マイケルの前に立ちはだかったジャックは、群衆の圧力に気圧され、知らず知らずのうちに足がすくんでいた。 「待ってくれ! この工場は、皆にとっても新しい可能性に……」 声を張り上げても、荒れ狂う怒号にかき消され、誰の耳にも届かない。合理的な対話の通じない、理性の外側にある嵐のなかに、彼は一人取り残されていた。
その渦のなかに、スカーレットは静かに立っていた。 喧騒のただなかにありながら、彼女の周囲だけが、まるで深い淵の底のような静寂に沈んでいる。足裏に伝わる冷たい土の感触が、妙に遠く感じられた。
――これをすれば、すべてが変わる。
ジャックに、気味の悪い「異形のもの」として嫌われてもいい。街の人々に、呪われた魔女だと指をさされてもいい。 けれど、今ここでこの嵐を鎮めなければ、彼の愛する世界も、彼の信じる未来も、すべてが物理的な破壊のなかに消えてしまう。
胸の奥底に沈んでいた「理」の外側の言葉が、静かに、確かな形を取っていく。 スカーレットは深く息を吸い込んだ。凍てつく空気が肺を満たし、早鐘のようだった鼓動が、一つ、また一つと、深い森の奥で打つ鐘のように落ち着いていく。
彼女は両手をゆるやかに広げ、祈るように低く呟いた。
「怒りは嵐、嵐は過ぎる。心よ、静けさを思い出せ」
その声は、けっして大きくはなかった。だが、荒れ狂う怒号を遮るのではなく、水に落ちた一滴の墨のように、すうっと空気に溶け、浸透していった。
ふっと、風が止んだ。 見えない鐘が鳴り響いたかのような、清廉な響きが場を支配する。 「……え?」 誰かが呆然と声を漏らした。さきほどまで肩を怒らせ、拳を突き上げていた労働者たちの力が、潮が引くように抜けていく。
スカーレットの周囲に、淡い、真珠色の光が揺らめいた。冷たい冬の空気が、ふわりと春の陽だまりのような柔らかさを帯びる。血走っていた男たちの瞳から険が消え、霧が晴れるように焦点を取り戻していく。




