未熟な合理を不合理が支える現実……
カリ、カリ、と硬質な音が、静寂の中に小さく響いていた。 スカーレットの手元では、鋭利な針先がバッテリーの電極板の上を滑っている。
鉛色の冷たい表面に刻み込まれていくのは、幾重にも絡まり合う蔦のような、あるいは目に見えぬ風の流れをそのまま写し取ったかのような、複雑怪奇な紋様であった。 その精緻な手業を、傍らでじっと見つめていたジャックが、ふと息を漏らすように口を開いた。
「不思議な紋様だな」
ジャックの視線は、スカーレットの指先が生み出す不可解な軌跡に吸い寄せられているようだった。
「アシュフォード家には、代々こうした紋様が数多く伝えられているのかい?」
問われたスカーレットの手が、わずかに止まる。 彼女は顔を上げず、刻みかけの電極板を見つめたまま、ためらいを孕んだ沈黙の時間が過ぎた。 迷うように視線を泳がせたあと、彼女は意を決したように、ぽつりと語り始めた。
「……おかしな話だと思うかもしれないけれど」
スカーレットの声は、古い書物のページをめくるように静かだった。
「我が家は古い家系のようで、こうした不思議なものが沢山伝わっているの。これは『雷の魔法陣』と言われるもので、電気を操る魔法を制御するためのものなのよ」
彼女はそこで言葉を切り、自嘲するように薄く笑った。
「魔法だなんて、不合理な中世の遺物だと思っていた。ただの迷信だと。けれど、我が家には確かに、脈々と伝えられていたのよ」
それは、科学の光が隅々まで照らし出す現代において、影の中にひっそりと息づいていた古の知恵だった。 スカーレットの言葉には、自身が受け継いだ血への戸惑いと、それを受け入れざるを得ない畏怖のようなものが混じり合っていた。
ジャックは、彼女の言葉を笑わなかった。 彼はスカーレットの手元にある、冷たく光る幾何学模様を改めて見つめ直し、深く頷いた。
「今の科学では、まだ解明できていない不思議なことは沢山ある」
ジャックの声には、未知なるものへの敬意が滲んでいた。
「これも、そうした『理』の一つなのかもしれないね」
その言葉は、合理の世界に生きる者としての謙虚さと、広大な世界に対する探求心に満ちていた。 工房に差し込む光の中、刻まれた紋様が、まるで命を得たかのように微かに鈍い光を放った気がした。
カチリ、と硬質な音を立てて、スカーレットは仕上げの作業を終えた。 複雑な紋様が刻まれた二枚の電極を収めたバッテリーは、鈍い鉛色の中に、古い神話の秘密を抱え込んでいるかのようだ。 彼女は蓋を厳重に閉めながら、顔を上げた。 その眼差しは、科学の領域と伝承の領域の境界を見つめている。
「できたわ。これで、発電所の巨大な電気自動車のバッテリーと、同じ『理』を備えたはずよ」
スカーレットは、小さく息を吐いた。
「あとは、これをキャンベルの電気自動車に積んで走らせる。それは、ジャック、あなたの仕事」
そう言いながら、彼女は作業台に置かれた重い箱――バッテリーに、そっと指先で触れた。 次の瞬間、極めて微かな、青白い光が、バッテリーの表面を滑るように一瞬だけ走った。
それは、この装置の中に、古くから伝わる「力」が流れ込んだ証だった。 幸い、ジャックはそれに気づいた気配はなかった。 彼は、完成したばかりのバッテリーの効率を試算することに夢中だったらしい。
「よし、運ぶぞ!」
ジャックの号令のもと、屈強な作業員たちが数人がかりでバッテリーを台車に載せ、電気自動車工場の組み立て工程へと運び去った。
工房に静寂が戻る。 一人残されたスカーレットは、汗をぬぐいながら、誰にともなく独り言をこぼした。
「……不合理の盾を、ジャックに見せちゃったわね」
『雷の魔法陣』。 それは、合理の世界を生きるジャックたちにとっては、到底理解し得ない「不合理」な技術であった。 その盾を、彼女は今、世間に向けて振りかざしたのだ。
***
魔法のバッテリーを積んだ試作車は、見事に、そして軽快に走り出した。 それまでの、わずか数百メートル走るのにも苦労していた鈍重な動きは、まるで嘘のようだった。
試作車は、道に撒かれた砂塵を蹴散らし、滑るように快調な速度を維持する。 それは、ただの機械が走っているというよりも、命を得て野を駆ける獣のようであった。
その快調な電気自動車を駆り、ジャックは父のマイケルを伴って、アシュフォード家を訪れた。 広大な庭園に囲まれたアシュフォード邸の応接室には、ヘンリー卿とスカーレットが待っていた。
マイケルは深く頭を下げた。 彼の声には、商売人としての冷静な評価と、予期せぬ成功に対する興奮とが混じり合っていた。
「ヘンリー卿、アシュフォード家の長きにわたるノウハウを貸していただき、心より感謝申し上げます。おかげで、ようやく我々が目指していた、まともに走る電気自動車が出来上がりました」
マイケルは胸を張り、試作車が示した驚異的な走行性能を報告した。 ヘンリー卿は、その報告を穏やかな表情で聞きながら、茶器を静かに置いた。
「それは良かったね、マイケル君。だが、あまり浮かれてはいかんよ」
卿の声は静かだが、その言葉の裏には、長い歴史を知る者としての洞察があった。
「高性能なバッテリーは、アシュフォード家の特殊な技術に頼らずとも、いずれ、遠からずして科学によって開発されるだろう。それまでの猶予は短い。この束の間の優位性を活かし、事業を軌道に乗せるのは、いずれにしても厳しい道だぞ」
その言葉は、彼らの事業に対する冷静な警告であった。 ヘンリー卿は、彼らの進む道を照らす光であると同時に、そこに潜む影をも見据えていた。




