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電気自動車

 ジャックは、彼女の話題の転換の速さに、一瞬面食らった。


「どうして、急にそんなことを? 君が、機械の話を、しかもそんな最新式の乗り物の話を振ってくるなんて」


「だって、あなた、大陸から輸入したばかりのガソリン自動車に乗っていたでしょ。蒸気機関車が世界の中心であるこの時代に、もう『蒸気自動車の時代は終わった』なんて、高らかに宣言していたじゃない」


 スカーレットは、かつてのジャックの熱弁を思い出し、楽しそうに言う。


「ああ、あれは確かに素晴らしかった」


 ジャックは、誇らしげだった過去を思い出すように、遠くの工場から聞こえる蒸気機関の音に耳を澄ませた。


「でも、最近はあんまり乗れないんだ。燃料の入手が大変でね。ロンドンの薬局まで、貴重なガソリンを燃やして買いに行くのが面倒になってしまって」


 彼は肩をすくめた。それは、いかに文明が進んでも、まだ小さな部品の供給に頼らざるを得ない、合理の世界の小さな綻びだった。


 スカーレットは、まるで秘密の種明かしをするかのように、声を潜めた。


「ふふ。鉄道車両工場の付属の発電所に、一台、電気自動車があるのよ。誰でも簡単に動かせて、何より、発電所の余剰電力を蓄電池に蓄めて動かすから、燃料代もただみたいなものだって言うし、それに、静かで、速い。あなたなら、きっと興味を持つかなと思ったのよ」


 彼女の言葉には、油と騒音にまみれた従来の機械への嫌悪感がなく、まるで、新しい魔法の道具を見つけたかのような、清々しい熱が帯びていた。 ジャックは、その変化を敏感に感じ取った。


「スカリーは、その電気自動車が、とても好きそうだね」


「なぜそう思うの?」


 スカーレットは、自分でも気づいていなかった内面の動きを、見透かされたように問い返した。


「だって」ジャックは、苦笑を浮かべた。「君がそんなに熱心に語るからだよ。僕が、あのガソリン自動車を輸入して、いかに未来的な乗り物か自慢した時は、結構そっけなかったぜ。『何か臭いし、うるさいし』っていう印象しかない、なんて言っていたじゃないか」


 スカーレットは、過去の自分を振り返るように、一瞬目を伏せた。 あの時の彼女にとって、ガソリン車は、ただ五感を刺激するだけの、合理の世界の騒がしい道具だった。だが、発電所の「余剰電力」という、誰も気に留めない、裏側の静かなエネルギーで動くこの乗り物は、まるで人知れず働く魔法の力そのもののようで、彼女の心を惹きつけた。


「そうだったかしら」


 彼女は、小さく首を振った。


「ええ、その静かで、効率的な乗り物に、少しだけ興味が湧いたのよ」


 ジャックは、彼女が踏み込んだ「ヘンリー卿の仕事」という世界の深さを、言葉でなく、彼女の新たな情熱から感じ取った。


「そうか。電気自動車か。是非、一度、見せてよ、スカリー」


「ええ、ヘンリーお爺様に話しておくわ。あの人は、信頼できる人に見せることには、案外、寛容なものよ。多分、お許しが出ると思う」


 スカーレットは、そう言って微笑んだ。その顔には、秘密を背負う者だけが持つ、特別な自信の光が宿っていた。


 ***


 アシュフォード邸の書斎は、分厚いカーテンが閉じられ、外の町の喧騒から切り離されていた。ヘンリー卿は、磨き上げられたマホガニーの机に向かい、いつものように静かに紅茶を啜っていた。その様子は、世界が蒸気と石炭から電気へと舵を切ったなど、微塵も感じさせない、揺るぎない「合理」の砦そのものだった。


 スカーレットは、椅子の縁にそっと座りながら、意を決して尋ねた。


「お爺さま。あの…ジャックに、新しく作った電気自動車を、少し見せても良いでしょうか」


 彼女は、友の探求心を、秘密の技術で満たしてやりたいと願っていた。 ヘンリーは、カップをソーサーに戻す音を、まるで定規で測ったかのように正確に響かせた。


「構わんよ、スカリー」


 ヘンリーの声は、淡々としていた。


「彼の父親、マイケル・キャンベル氏と、その電気自動車の製作と販売について、話を進めているところだからな」


 スカーレットは目を見開いた。その言葉は、彼女の頭の中で、長年紡がれてきた毛織物の糸を、一瞬にして断ち切った。


「え…? ジャックのところは、うちの農場からロムニー羊の羊毛を仕入れて、毛織物を作っているんじゃありませんでしたの?」


 ヘンリー卿は、少しだけ顎を上げた。その仕草は、もう終わった時代の帳簿を眺めるようだった。


「今は、まだそうじゃがな。だが、毛織物にも流行はやりというものがあって、うちで供給しているロムニー羊の毛は固すぎて、輸入されるメリノ羊などの柔らかい羊毛には、最早、太刀打ちできんのだよ」


 ヘンリーは続けた。


「それに、今のイギリスから毛織物を輸出しようとすれば、高い関税を掛けられて、海外では価格競争でも勝てなくなっている」


 彼は、キャンベル家の工場が立地や規模で、ヨークシャーやランカシャーの大産地には敵わないことを知っていた。


「キャンベル家も、この羊毛事業は、もう潮時しおどきだと考えているようだ」


 スカーレットは、油と蒸気、そして羊毛の匂いが染み付いた、ジャックの明るい顔を思い浮かべた。


「ジャックは、そんなこと一言も言っていませんでしたわ」


「マイケルも、せがれが不安になるようなことを、まだ言いたくはなかったのだろう」


 ヘンリーは、父の情という、一見不合理なものを静かに理解した。


「それで、我々と手を組み、電気自動車の製造と販売に、大きく鞍替えをするのね。…思い切った方向転換ですね」


 スカーレットの心の中では、故郷の羊の重い毛と、未来の静かな電気モーターの振動が、激しく入れ替わりつつあった。


 ヘンリーは、一つだけ釘を刺した。


「まだ、この件は内緒だよ、スカリー。長年働いてきた従業員が騒ぎ立てるとまずいから、すべてが決まってから公表するらしい」


 スカーレットは、静かに、しかし深く頷いた。


「それは、そうですね。分かりました」


 彼女は、自分の中に、祖父とジャックの家の、新しい「合理的な秘密」がまた一つ加わったことを感じていた。それは、やがて来る電気の時代を、その静かな鼓動で動かすことになる、重い、そして輝かしい秘密だった。


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