電気の時代
合理的な社会の基盤であった石炭が、もはや不確かな未来へと傾き始めた時、ヘンリー・アシュフォードは、熟成されたワインをゆっくりと味わうように、一つの大きな決断を下した。
それは、アシュフォードの町を、そしてアシュフォード家の事業を、この移りゆく時代の中で確固たるものにするための、新たな「合理の要塞」を築くことだった。
「アシュフォードに本格的な発電所を建設する」
彼の決断は、古い常識にとらわれない、冷徹なまでの先見の明に裏打ちされていた。燃料は、もはや国内の枯渇しつつある石炭ではない。海を越えて輸入される石油である。
輸入された石油がドーバーに陸揚げされた後、広大なイギリス国内の消費地へと、鉄道を通じて送られているという状況。ヘンリーはその物流の経路を正確に見抜き、アシュフォードがその中継点にあるという地の利を利用した。
発電所は、駅のすぐそば、鉄道車両工場の裏手のA発電所を増設する形で建設された。これにより、石油を鉄道から直接引き込み、電気という新しい力を生み出す、最も合理的な仕組みが完成する。この計画は、アシュフォードの町を、蒸気から電気へと時代が転換する最前線に押し上げるものであった。
生み出された電気は、まずアシュフォード鉄道車両工場という巨大な消費地で利用されることを前提としていた。そして、キャンベル家の織物工場をはじめとする街の工場群も、その新しい力に組み込まれていく。
父マイケルが判断に苦しんでいたキャンベル家の機織り機も、ヘンリーのこの決断によって、高価な蒸気機関から解放され、騒音の少ない電動モーターで駆動するものへと置き換えられることが決定した。
「キャンベル君、儂はアシュフォードにオイル発電所を建設することに決めた。君のところでも電気を使ってくれないか」
ヘンリーはマイケル・キャンベルに決断を話した。鉄道車両工場という確固たるユーザーはいたが、電気の需要家は発電能力の限界まで多い方がいいと考えたからだ。一方、織物工場の新しい設備の方向性に悩んでいたマイケルにとってもありがたいインフラ整備だった。
ヘンリーは、ロンドンの喧騒から離れたカントリーハウスの書斎で、ゆっくりと息を吐き出した。彼の瞳の奥には、貴族院議員としての政治的な駆け引きや、魔法協会の秘密を抱える苦悩とは異なる、純粋な実業家の成功の確信が光っていた。
「これでアシュフォードの合理は、新しい技術によって守られる」
彼は、新しい合理的システムを自らの手で作り上げたことに、深い満足を覚えた。しかし、その「新しい技術」の裏側で、彼が今も秘密裏に不合理な魔法の力を使っているという真実は、この完璧な合理の設計図に描かれることのない、深い影を落としていた。
この発電所こそが、彼の持つ「合理と不合理の綱渡り」を、より長く、より危険なものにする、次の舞台となる予感に満ちていた。
***
駅の裏手、機関車工場のレンガ塀をわずかに抜けた先に、祖父ヘンリーが築いたアシュフォードA発電所という「新しい合理の砦」が、静かな威容をもって鎮座していた。
それは、これまでの煉瓦造りの建物とは異なる、鉄とコンクリートで固められた巨大な四角い建屋だった。その傍らには、油色の光を鈍く反射する、巨大な四角い石油タンクがいくつも並び、ドーバーから来る本線からの引き込み線が入り込み、鉄道貨車から直接、そのタンクへと文明の新しい血液を注ぎ込むための管を繋いでいた。
スカーレットは、祖父の案内で、その建屋の奥深くに足を踏み入れた。
内部に据え付けられた重油エンジンと発電機は、巨大な獣の心臓のように見えた。その全身からは、無数の真鍮のバルブと、複雑な目盛りを刻んだメーターが、まるで呪術的な護符のように取り付けられている。 その前には、油の匂いを纏ったオペレーターたちが、一人、また一人と、皆、微細な表情の変化も見逃すまいと、絶えず監視を続けていた。彼らは、この新しい合理の神殿で、24時間、その脈動を調整し続ける、孤独な巫女たちのようだった。
「これは、車両工場が動いている時に合わせて動く」と祖父は簡潔に説明した。「夜間は止め、残業があれば発電所も残業する。工場に合わせた、いわば巨大な付属設備だ」
スカーレットは、その言葉に、一つの不条理を感じ取った。
合理性を極めたはずの巨大なシステムが、いまだに人間的な時間、車両工場の都合という「気まぐれな約束事」に律されている。この砦は、まだ夜空にそびえる魔法の塔のように、洗練され、自律した存在にはなり得ていなかった。古い蒸気機関の時代と同じく、まだ人間の手が、四六時中、その心臓をさすり続けていなければならないのだ。
だが、この砦の鼓動は、車両工場が休む日も、完全に止むことはない。余った電気は、キャンベル家の織物工場など、街の別の命脈へと送られているからだ。小さな発電機だけは、ひっそりと、しかし粘り強く回り続け、アシュフォードの夜の闇を、微かな青い光で支えている。それは、合理の砦の底に流れる、小さな慈悲の血潮のように感じられた。
その時、工場の構内を、一台の静かな車が滑るように通り過ぎた。 それは、新しい合理的動力源の、小さな使者だった。発電機が生み出した電気をバッテリーにそっと蓄え、工員たちが工場内を乗り回すための電気自動車だ。
ジャックが誇らしげに駆る、あのドイツ製のガソリンエンジン車と比べると、その走りは驚くほど静かだった。騒音と振動を撒き散らす内燃機関の煩雑さはなく、まるで見えない足で地面を滑っているかのようだ。工員たちは、まるで手押し車を扱うように簡単な仕草でそれを操っていた。
スカーレットは、その操作の「簡単さ」に目を奪われた。ルーサーさんやジャックにこの未来の乗り物を見せてやりたいと思った。
新しい合理は、ただ強力なだけでなく、誰にでも扱える「優しさ」を纏い始めている。それは、ヘンリーが追い求める「絶対的な合理」とは異なる、もっと人間に寄り添う、新しい時代の魔法の萌芽のように思えたのだった。
***
アシュフォードA発電所の建屋に入ると、重油の燃える独特の匂いと、腹の底に響くようなエンジンの駆動音が二人を包み込んだ。
ヘンリーは、唸りを上げて回る発電機を見上げながら、ふと漏らすように悩みを語りだした。
「スカーレット、この発電所のことだがね。周囲からは24時間の連続稼働を強く望まれているのだが、これがなかなか難しくて実現できていないんだ」
スカーレットは、休むことなく動き続ける鉄の塊を見つめ返した。
「人手が足りないのですか? 夜通し動かすとなると、技師の方々の負担も大きいですものね」
「いや、人の問題ではないのだよ」
ヘンリーは首を横に振った。
「運転要員は、金さえ出せば三交代なり二交代なりで集めることはできる。人間は交代で眠ればいいからな。しかし、ここに据え付けてある今の重油エンジンや発電機は、そもそも24時間連続で運転し続けるようには出来ていないんだ」
機械は合理の結晶だが、無限の体力を持っているわけではない。熱を持ち、摩耗し、定期的な手入れを必要とする。
スカーレットは少し考え、合理的な解決策を口にした。
「それではお爺様、エンジンと発電機を、もう一組用意すればよいのではありませんか?」
ヘンリーが振り返り、孫娘の顔を見た。
「もう一組、か」
「はい。二組用意して、交代で運転させるのです。片方が動いている間に、もう片方を休ませてメンテナンスをする。そうやって交互に動かせば、機械の機嫌を損ねることなく、24時間電気を送り続けられるんじゃないかしら」
ヘンリーは、ほう、と小さく息を吐き、満足げに目を細めた。
「スカーレットは鋭いね。経営の理屈が分かってきたようだ」
彼は杖でコンクリートの床を一つ突いた。
「お前の言う通りだ。世にある大規模な発電所の中には、予備機を設けてそういう運転の仕方をしているところもある。だがな、残念ながらアシュフォードA発電所は、そこまで規模が大きくなくてね」
ヘンリーは苦笑交じりに、狭い建屋の中を見回した。
「二倍の設備投資をするには、まだ敷地も需要も足りんのだよ。限られた設備で、いかに効率よく光を灯し続けるか。それが今の私の悩みというわけだ」




