不合理の楯
朝の凍てつく空気の中、ジャックは息を切らせて学校の門をくぐり、水たまりを避けながら一直線にスカーレットの元へ駆け寄った。
「聞いたよ、スカーレット! 機関車工場の事務所に、泥棒が入ったんだって!」
飛沫が飛び散るような勢いで問いかけられ、スカーレットは驚いた顔もせず、ただ手にしたパンの耳をかじった。
「あら、ジャック。早いわね。今朝から鉄道車両工場は大騒ぎになっているわよ」
ジャックは興奮を抑えきれない様子で、身を乗り出した。
「やっぱり! 噂じゃ、競合他社の産業スパイの仕業じゃないかって? ロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道(LC&DR)に違いないって話さ!」
スカーレットは白い息を吐き出しながら、冷めた目でジャックを見つめ返した。
「ジャック、詳しいわね。でも、そういう噂も出ているけれど、うちの技術は、ただ設計図だけ盗めば何とかなるっていうもんじゃないのよ。あの新型機関車は、優れた技術者や熟練した職人たちの勘と技とセットでないと、真の意味では作れないの」
ジャックは少し鼻を鳴らした。自分も事情通であることを示したかったのだ。
「そうだとしても心配だね。サウス・イースタン鉄道(SER)とLC&DRとの競争の激しさは、新聞にもよく出ているからね。ロンドン・ドーバー間のわずか15分の短縮が、どれほど大きな差を生むか、みんな知っているさ」
事実、この15分の短縮はSERにとって決定的な優位性だった。SERに客車や機関車を供給するアシュフォード工場(Ashford Works)のこの功績は、競合するLC&DRの経営を大きく圧迫するだろう。速達性で劣れば運賃を引き下げざるを得ず、それはそのまま会社の死活問題に繋がる。それゆえ、腕のある技術者の引き抜き合戦は熾烈を極め、熟練工は貴族並みの高給を得ていた。
スカーレットは、うっすらと微笑んだ。その微笑みには、どこか諦めにも似た自信が滲んでいた。
「ええ、その通り。泥棒が入ったのは設計室のようだけれど……」
彼女は、工場に深く関わる者だけが知る秘密を思い浮かべていた。あの新型機関車の銘板の裏には、誰もが気づかない「不合理の楯」が隠されている。設計図には決して描かれることのない、「魔法陣」の存在を。
「図面だけを盗んで機関車を複製しようとしたところで、ボイラーに支障が出るだろうね」
スカーレットは確信していた。なぜなら、その「銘板の裏に刻まれた見えざる魔法陣」のことは、設計者はおろか、工場の従業員でさえ誰一人として知らないのだから。
泥棒が本当に産業スパイだったとしても、彼らが手に入れたのは、命なき線と数字の羅列にすぎない。機関車に魂を吹き込む魔法は、依然としてこのアシュフォードの土地に、そしてそれを創り出す魔法使いの指先に宿っているのだ。
***
半年ほどたち、学校の庭の桜の木がすっかり青葉を茂らせた初夏のことだった。 いつものように昼食を広げたスカーレットの元へ、ジャックが持ってきたのは、地方紙の片隅に小さく載せられた記事だった。
「スカリー、これを見ろよ!」
記事の表題は小さかったが、その内容はスカーレットの心臓を強く打った。
『LC&DR スワニー工場で爆発事故 (中略)詳細は不明ながら、サウス・イースタン鉄道(SER)に対抗するための新型機関車開発中にボイラーが破裂したものと見られる――』
「やっぱり……」
スカーレットがパンを握る手を固くした。彼女は新聞を無言で受け取り、その短い記事を何度も読み返した。あの時、アシュフォードの設計室から盗まれた「図面」が、スワニーで形を成そうとして、合理の原則に拒否されたのだ。
その日の夕刻、アシュフォード邸に、ルーサーが落ち着きのない様子でやって来た。彼の顔は、この事件がただの事故ではないことを知っている者のそれだった。
「やはり、事故が起きましたね」
ルーサーは息をひそめた。
「LC&DRは、我々の秘密の『強化魔法の魔法陣』を、手に入れることができなかったのですね」
ルーサーの言う「魔法陣」とは、アシュフォード工場で製作された機関車の銘板の裏に仕込まれた非合理の楯、合理では成り立たない機関車に非合理の力で「持続する命」を与えるための知恵の集合体だった。スカーレットが予感した通り、図面だけでは、あの新型機関車の心臓部、すなわちボイラーを完全に再現することは不可能だったのだ。
帰宅していたヘンリーは、新聞をテーブルに押し付け、小さく頷いた。その声は、重く、沈んでいた。
「その通りだ。そして、LC&DRはこの開発失敗を契機に、ついにSERとの合同を検討開始したのだ」
彼は遠いロンドンの、会議室の光景を見ているかのように目を細めた。
「この件はまだ諸君に語れることが少なくてな。しかし、ロンドンでは、両社の首脳陣が何度も話し合っているようだ。あの激しい競争は、二つの会社にとってあまりにも荷が重すぎた」
競争の火花が散り、ついには一方の火種が爆発によって消え去った。 そして今、残された二つの会社は、互いの痛手と疲弊を認め合い、一つの大きな会社となる道を模索し始めていた。その未来はまだ霧の中だったが、彼らが耳にする汽笛は、もはや敵対的な響きではなく、瓦解と融合の予兆を告げる音に変わり始めていた。




