合理の証人
学校の煉瓦造りの校舎の裏手。古いプラタナスの木の下は、秘密めいた囁き声には最適な場所だった。
昼休み、スカーレットは親友のジャック・キャンベルに呼び止められた。彼の瞳は、いつになく好奇心と期待に輝いていた。
「スカリー、機関車工場に出入りしているんだって? ロンドン・ドーバー間の時間を15分も縮めたっていう新型機関車のこと、僕たちの間でも噂になっているんだ。今度、僕にも見せてくれないかな」
ジャックの声は、未来の技術への憧憬に満ちていた。 しかし、スカーレットの心には、社長室で交わされた秘密――真鍮の銘板と魔法の紋様という、鋼鉄のボディーに隠された真実が重く横たわっていた。
あの日、極限まで合理を追求した設計が悲劇的な爆発を生んだ。そして、それを救ったのは、最も不合理な力だったのだ。
スカーレットは、できるだけ穏やかな声を選んだ。
「ジャック、機関車工場はね、ジャックのところの機織り工場より、かなり危険だよ。この間も、大きな事故があったでしょう」
彼女の言葉は、ジャックの「常識と良識」という堅固な世界観に、冷たい水の一滴を垂らした。
「でもスカリー、君は行っているんだろう?」
彼のまっすぐな視線は、スカーレットの胸の奥深くに突き刺さる。彼女は、ごまかしのきかないこの友人に、完全な嘘を吐くことはできなかった。
「私は、アシュフォード家の、経営者一族の一人だから。工場で何があっても、それは万が一の場合も自己責任で片がつく立場なのよ。でも、部外者のジャックを招き入れるとなると話は別だわ」
そして、一瞬の沈黙の後、スカーレットはそっと、希望の種を蒔いた。
「ジャックが工場を見学できるか、お爺様に相談してみるわ」
ジャックは、その名を聞いただけで、びくりと肩を震わせた。スカーレットのお爺様、つまりヘンリー・アシュフォードとは、彼にとってアシュフォードの産業界の厳格な掟そのもののような存在だ。
「あのヘンリーさんに? 下手に聞くと、うちの親のところに『息子の教育がなっていない』って、文句が来ないかな」
「そうならないように、上手に聞いてみるわ。大丈夫よ」
スカーレットは微笑んだ。その微笑みの裏には、彼女がアシュフォード家で学んだ、言葉を秘密の鍵にする技術が隠されていた。
***
その晩、食後の暖炉の側で、スカーレットはヘンリー・アシュフォードに歩み寄った。彼女は、ただの「工場見学」という単語を、決して使わなかった。
「お爺様、ジャック・キャンベルさんから、機関車工場を見せてもらえないかと頼まれました」
ヘンリーは、目を閉じたまま、暖炉の炎を見つめている。彼の顔には、微かな表情の揺らぎさえ見えない。
「合理の世界の、最先端の技術。それを、合理的なる世界の良識人である彼に見ていただくのは、アシュフォードの誇りを外部に示す、『合理の証人』にちょうどいいかと思いますが、お爺様はどう思われますか」
「合理の証人」。 スカーレットは、この言葉が持つ力を知っていた。ヘンリーにとって、アシュフォードの事業の成功を「合理」という絶対的な価値観で裏打ちすることは、魔法という不合理の秘密を守るための、最も重要な儀式である。
ゆっくりと、ヘンリーの瞼が開いた。その深い色の瞳が、スカーレットを見据えた。
「そうか、合理の証人か。面白い」
老紳士は一拍おき、続けた。
「機関車工場そのものは、子供が見るには鉄と油が渦巻く危険な場所だ。だが、完成車両置場に招きなさい。そこで最新技術の粋を、安全な形で見せて満足させてやるがいい」
「ありがとうございます。ジャックにはそのように話します。工場長にはお爺様からお話を通していただけますか」
「ああ、そのようにしておく」
ヘンリー・アシュフォードは、合理の盾の裏側で、自分の役割をしっかりと理解した孫娘に、満足のいく返事を与えた。
***
ジャックは、見学の許可が下りたことを聞くと、まるでクリスマス前の幼子のように喜び、すぐに両親であるマイケルとローラを誘った。
そして、工場見学の日。 広大な完成車両置場は、磨き上げられた漆黒の新型機関車がずらりと整然と並ぶ、鉄と蒸気の神殿のようだった。その威容は、訪れたキャンベル家の三人を、言葉を失わせるほどの力で圧倒した。
そして、案内役としてヘンリー・アシュフォードが、まるで自ら設計した建造物のように、その場に立っていた。
キャンベル家の人々は、彼を見るなりすっかり恐縮し、マイケルは深々と頭を下げた。しかし、ヘンリー・アシュフォードは彼らを軽く促し、誇らしげに最新の機関車を指し示した。
ジャックの父で、織物工場を経営するマイケル・キャンベルは、新型機関車の流れるようなフォルム、繊細に磨かれた真鍮の装飾、そして何よりも、その軽量でありながら巨大な力を秘めたであろう威容に、ただただ息を呑んだ。
「この機関車が最新技術の塊だというのは、素人の私が見てもよく分かります。アシュフォード様、本当に素晴らしい技術だ」
マイケルは唸るように言った。彼の目は、人間が知恵と努力で達成した、最高の合理の成果を前に、畏敬の念に満ちていた。
「そう、この機関車は合理が生み出した最先端の技術の結晶といえますな。そして究極まで洗練された科学技術は、それを理解できない凡人には、魔法と区別がつかないものなのだよ」
ヘンリー・アシュフォードは語った。 その言葉を聞きながら、スカーレットは、目の前の機関車の車体に刻まれた、美しい銘板の裏側を、そっと心の中で見つめた。
そこには、マイケルが見ることのできない、合理の世界を守るための、不合理なる秘密の印が、深く、静かに刻まれていたのだった。




