合理を守る不合理の楯
ロンドンの街並みが、薄い霧を纏う早朝。ルーサーは、アシュフォード家のタウンハウスの重厚な扉を叩いた。彼の胸ポケットには、工場事務所で徹夜して作成した、一本の合理的な報告書が収まっている。
サロンの暖炉の前に立つヘンリー・アシュフォードは、いつもであれば、背筋をピンと伸ばし、権威と自信に満ちた佇まいをしているはずだ。 だが今朝の彼は、まるで自分の影の中に閉じ込められたかのように小さく見えた。貴族院議員としての威厳も、大事業を統べる一族の長の風格も、新型機関車の爆発事故という「合理の失敗」の前では、脆く崩れ去る砂の城のようであった。
「……これが、結論かね」
ヘンリーは、ルーサーから受け取った報告書――「魔法による影響は検知されず、事故は軽量化を極限まで推し進めた設計ミスに起因する可能性が高い」という冷徹な事実――に、皺の寄った指を滑らせた。
「ええ、ヘンリー様。残念ながら、我々の魔力探知では、いかなる不合理な力も確認できませんでした」
ルーサーは、己の調査結果が、どれほどこの老紳士にとって重い意味を持つかを理解していた。ヘンリーは深く、深くため息をついた。その息は、この豪華なサロンの空気を凍らせるかのようであった。
「その内容が真実だとすると、アシュフォード鉄道車両会社と、ひいてはアシュフォード家は、大きな損失を出すことになりそうだ。競合する鉄道会社LC&DRには絶対負けるわけにはいかんのだ」
彼は暖炉の火を見つめたまま、絞り出すような声で言った。
「今回の新型車両は、我々の自信作だった。だからこそ、先行してずいぶん売っていたのだよ。その払い戻しと違約金を考えると、これは大変だ……」
いつもの彼ならば、この程度の危機は鼻先で笑い飛ばしただろう。だが、今回は違う。これは、彼が人生のすべてを賭けて信じてきた「合理」そのものが、根底から揺るがされた結果なのだ。
ルーサーは、この合理主義の砦が崩れ落ちる寸前にあるのを見て、恐る恐る、胸の奥に秘めていた不合理な提案を口にした。
「ヘンリー様……一つ、裏の手がございます」
ルーサーの声は、暖炉のパチパチという音にかき消されそうになるほど小さかったが、ヘンリーの耳には明確に届いた。
「我々、魔法協会には、ボイラーの強度を極秘に高めるための強化魔法の術があります。これを、機関車の目立たない場所――例えば、取り付けられる銘板の裏側などに、精巧な魔法陣として仕込むのです。納入する全ての機関車に、秘密の護符を埋め込む……」
静寂が部屋を支配した。ヘンリーはゆっくりと顔を上げ、ルーサーの目を見つめた。その眼差しは、鋭い洞察力と深い苦悩に満ちていた。
「……合理の砦を、不合理で守るというのか」
ヘンリーの口から出た言葉は、皮肉か、それとも諦念か。彼は、自らの信念と、一族の命運を天秤にかける、重い選択の前に立たされていた。合理的で潔白な世界を維持するためには、最も忌避すべき「魔法」を秘密裏に受け入れるしかない。ヘンリーは目を閉じ、深く、深く、思い悩んでいた。




