祖父の前で放った一言
プラックリー村の古い土の匂いと、夜露に濡れた聖堂の静謐を体中に吸い込んだスカーレットは、夕刻、慣れ親しんだアシュフォード邸の重厚な門をくぐった。門柱に刻まれた家紋は、蒸気機関と金融の帳簿が支配する合理の世界における、彼らの揺るぎない地位を静かに物語っている。
魔法協会での日々は、スカーレットにとって、己の血に流れる「不合理」と向き合う、得難い経験だった。だが、その経験が深ければ深いほど、このアシュフォード邸の壁と、厳格な祖父ヘンリー・アシュフォードの存在は、いっそう高く、そして冷たく立ちはだかるように感じられた。
「おじい様が、あの協会の名誉会長である」
その真実を確かめる覚悟は、村を出るときには胸の奥で火花のように燃えていたはずなのに、この屋敷の廊下の硬い大理石の上に立つと、まるで湿った薪のように萎んでいく。逃げだしたい。着替えもせず、ただ部屋の隅で、今日一日を、魔法の残滓を打ち消す「合理的な無」を唱えるだけで過ごしたい。
重い木製の玄関扉を開け、「ただいま戻りました」と、掠れた声を屋敷の奥へ放った。応える声は、すぐに、そして有無を言わせぬ響きを伴って返ってきた。
「スカーレットよ、部屋まで来なさい」
祖父ヘンリーだ。ロンドンから、あの重々しい権威と伝統を携えて帰ってきたのだ。先手を取られたスカーレットは、小さく「はい」と答えるのが精一杯だった。着替えもままならず、彼女は自らの意志とは裏腹に、まるで運命の引力に引かれるように、祖父の書斎へと向かった。
書斎の扉は、いつも通り微かに開いていた。 中から漏れる空気は、古びた革と、インクと、そして「畏怖」の香りが混じり合っている。ヘンリーは暖炉の前に置かれた重厚な肘掛け椅子に深く座り、まるで一つの石像のように動かない。
「スカーレットよ」
低く、しかし音の芯が通った声が、書斎の静寂を切り裂く。
「未だに得体の知れない者たちのところへ通っているそうだな」
それは詰問であり、同時に、確認であった。スカーレットの喉が張り付き、呼吸が一瞬止まる。だが、プラックリー村で魔法の残滓を消して回った時間が、彼女に力を与えた。
「そのことは、おじいさまもよくご存じのはずじゃありませんか」
言葉を発した後、彼女は自分の命脈が縮まったかのような戦慄を覚えた。アシュフォード家において、家長であるヘンリーへの口答えは、最大の罪に等しい。 案の定、ヘンリーの目が、暖炉の炎よりも鋭く、彼女を射抜いた。
「口答えをするな」
その一喝に、スカーレットは反射的に肩をすくめた。しかし、彼女は逃げなかった。書斎の重い空気の中で、己の血脈に刻まれた「不合理な力」を盾に、初めて立ち向かう覚悟を決めたのだ。
「はい。魔法協会へは、私の力の制御法を教わるために通っております」
そして、あえて、その場で最も触れてはならない言葉を、炎の如く、真っ直ぐに祖父へ投げつけた。
「ルーサー様は、私の魔法を、祖父譲りのきれいな炎と言っておられました」
最後の言葉は、まるでヘンリーの書斎の隅々に隠された秘密の帳簿を、白日の下に晒す呪文のようだった。ヘンリーは、顔の筋肉を微動だにさせず、長く、息を詰めたように黙り込んだ。彼の瞳の奥で、厳格な貴族院議員の顔と、古の魔法協会の名誉会長の顔が、一瞬だけ入れ替わったように見えた。
そして、やがて。吐き出すように、彼はたった一言を口にした。
「……そうか」
その一言は、叱責でも、許可でも、ましてや愛情でもなかった。それは、自らの秘密が孫娘に知られたという事実を、彼の合理が、渋々ながら受け入れたという、重い、重い嘆息であった。




