火の手品が照らした影
アシュフォード邸のダイニングルームは、ヘンリーの不在にもかかわらず、どこか緊張した静寂に包まれていた。テーブルには、銀食器と繊細な陶器が、完璧な秩序をもって並んでいる。
「お爺様は、議会があるため、ロンドンのタウンハウスにしばらく滞在するそうよ」
食卓についた母キャサリンがそう告げた。その言葉に、スカーレットは安堵と、かすかな失望を覚えた。ヘンリーに真実を問い詰める機会は失われたが、少なくとも、この嘘が張り巡らされた城で、彼と対面せずに済む。
今夜の夕食は、魚のパイ包み焼きだった。サクサクしたパイ生地の下には、鮮やかなサーモンの切り身が、クリームとハーブと共に蒸し焼きにされている。その温かさが、スカーレットの胃を優しく刺激した。キャサリンは、スカーレットの隣に座り、心配そうに尋ねた。
「今日はどうしたの、スカリー? ジャックが、あなたがうちで休んでいたって、わざわざ知らせに来たわよ。あの子があなたを心配するなんて、よほどの事があったのね」
スカーレットは、パイにフォークを入れる手元を止めた。この安心できる日常の枠の中で、どう秘密を語らずに、心の混乱を説明できるだろうか。
「ええ、ちょっとショックな出来事があって……」
「どうしたの?」
「お爺様絡みのことで……」
スカーレットがヘンリーの名を出した途端、キャサリンはすぐに得心がいったように、静かに頷いた。
「ああ、わかったわ。誰かにお爺様の悪口でも聞かされたのね」
キャサリンは、夫ウィリアムに聞こえないように、声をひそめた。
「お爺様は貴族院議員として、そしてアシュフォード家の当主として、厳格すぎるほどよ。ご自分にも、家族にも、そして他人にも厳しいから、世の中には、お爺さまを悪く言う人もいるの。でも、私たちは知っているでしょう? お爺様が、この家と、この『正しい世界』を守るために、どれだけ頑張っていらっしゃるか」
キャサリンの言葉は、ヘンリーの「合理主義の盾」を、そのまま肯定するものだった。スカーレットは、今、知ってしまった裏の真実を胸に抱きながら、尋ねずにはいられなかった。
「お爺様の、あの……厳格な性格は、いつ頃からなの?」
キャサリンは遠い目をしながら、少し考えた。
「そうねえ、私がアシュフォード家に嫁いできたころには、もうあんな感じだったわ。厳格で、非合理なものを一切認めない方だった。私たちがまだ若くて降霊会とか幽霊探しとか馬鹿げた流行に夢中になっていると、いつも、あの厳しい目で叱られたものよ」
その横で、父ウィリアムがフォークを置き、珍しく明るい調子で口を挟んだ。
「私が子供の頃は、あんなに厳格じゃなかったんだけどな。いや、厳格だったけど、優しさもあった。それに、よく手品を見せてくれたんだよ」
ウィリアムは、まるで遠い宝物を思い出すかのように、目を細めた。
「指先から小さな炎を出したり、離れた場所にある暖炉のストーブに、見えないように火を点けたり……火に関する手品が、本当にお上手だったよな。家族にも決して種を教えてくれなかったけど」
ウィリアムの、何気ないその言葉が、スカーレットの耳の中で、雷鳴となって響き渡った。
(もしかすると……それは、ただの手品なんかじゃないかもしれない)
あの厳格な祖父が、秘密裏に、家族の前で唯一、その異端の力を種も仕掛けもある「手品」という名の嘘の合理で包み込んで見せていたのだとしたら――。
スカーレットは、その恐るべき可能性に思い至ったが、サーモンのパイ包み焼きの温かさに紛れさせ、深く口を閉ざした。今、この食卓で、「火の魔法」という言葉を出すことは、この家庭の秩序そのものを燃やしてしまうことだと、直感的に悟ったからだ。 彼女は、この日、祖父の秘密だけでなく、アシュフォード家という「合理の城」全体が、いかに巧妙な偽りの壁で守られているかを知ったのだった。




