キャンベル家の客間にて
ジャックの誘いは、彼女にとって、今すぐ縋りつきたい合理と日常の温もりだった。 キャンベル家は、蒸気と計算によって富を築いた、現代的な合理主義の象徴だ。ここで過ごす時間は、祖父の嘘と、魔法協会の秘密から、一時的に逃れられる避難所のように思えた。
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
スカーレットは、まるで糸が切れた人形のように、キャンベル家の門へと吸い込まれていった。 彼女の頭の中では、ただひたすら、『おじいさまは魔法使い』という、世界の断末魔のような言葉が、繰り返し響き渡っていた。彼女が、その秘密を抱えたまま、この合理の世界の心臓部に入っていくことになるとは、今の彼女には想像もできなかった。
キャンベル家の客間は、アシュフォード家のカントリーハウスとは違う、新しい時代の息吹に満ちていた。磨き上げられたマホガニーの家具は、蒸気機関が生み出す富と計算された合理性を反映して、どこか輝かしい光を放っている。
スカーレットは、深々としたベルベットのソファに、力なく身を沈めた。彼女の意識はまだ、祖父の鉄の合理が崩れ去った衝撃から、完全に回復していない。
そこへ、ジャックの母、ローラ・キャンベルがお茶を運んできた。彼女は、工場の経理を担当する女性らしい、几帳面でいながらも、どこか安心感を与える柔らかい手つきで、ティーカップをスカーレットの前に置いた。立ち上る紅茶の華やかな香りが、スカーレットの心のざわめきを、微かに鎮めていく。
「ジャックがね、スカリーの様子が普通じゃないから連れてきて良いかって言うんで、本当にびっくりしたんだよ」
ローラは柔らかな口調で話し始めた。彼女の目は、心配と優しさに満ちていた。
「でも、思ったほどでなくて良かったわ。お茶でも飲めば、すぐに落ち着くでしょう」
「おばさん、すいません。ご迷惑をおかけして。気持ちが落ち着いたらすぐに失礼しますので、少し休憩させてください」
スカーレットは、キャンベル家の、この合理的で安定した日常の空間に、一時的に身を置けることに心から感謝した。
「いいのよ、ゆっくりして。せっかくだから、夕食をうちで食べていくかい? マイケルも喜ぶわ」
「それは……母に怒られます」
両親に心配をかけることだけは避けたい。その言葉で、彼女の頭の中に、日常の境界線がわずかに戻ってきた。
ローラさんの、ゆったりとした優しさと、現実的な会話は、スカーレットの脳内でリフレインする「おじいさまは魔法使い」という呪文の音量を、少しずつ下げていった。
スカーレットは、目の前の暖かい紅茶から、顔を上げた。この善良なローラさんに、誰にも言えない秘密を打ち明けるつもりはない。だが、この胸の重荷を、秘密を知らない誰かの視点から眺めてみたかった。
「ローラさん」
「なあに、スカリー」
「もし、尊敬して、長年信用していた人に騙されていることを、赤の他人に、突然教えられたら……ローラさんならどうします?」
ローラは、スカーレットの顔をじっと見つめ、すぐに答えることはしなかった。工場の帳簿を扱うように、一つ一つ言葉を吟味する。
「そうねえ……まず、その『赤の他人』って言うのが、信用できるかどうかだよね。その人が、どんな人なのか、何を目的としているのか。どんなに信用している相手でも、裏切られることはある。でも、会ったばかりの人の言葉を信じるのも、同じくらい恐ろしいことでしょう」
「そうですよね……」
スカーレットは、深く息を吐いた。
「長年信用してきた人の事を、会ったばかりの人に『嘘つきだ』と言われても、素直に信用する方がおかしいですよね」
ローラは、スカーレットの尋常ではない様子を察し、詮索はせずに、優しく問いかけた。
「何か、騙されていたのかい?」
「いいえ、ローラさん。でも、お話しして、少し気分が楽になりました」
スカーレットは立ち上がった。キャンベル家の客間は、一時的な合理の聖域だった。 しかし、彼女の心の中では、依然として『祖父ヘンリーの嘘』と『魔法協会の真実』が、激しい火花を散らしている。彼女は、この二つのどちらが真実なのかを、これから自らの力で、見極めなければならないのだ。




