第四話 変貌と喪失
「……お前、報告にあったレイだな」
生き残ったリーダーが、剣を構えたまま問いかけた。
レイが足を止める。
「なぜ、そこまで強い。報告では、まだ剣を習い始めたばかりだと――」
「なぜ、こんなことをした」
男の口が止まった。
レイは続けた。
「誰の差し金だ。答えろ」
男は、すぐには答えなかった。
少年の目は、その顔から離れない。
「……依頼主の名は明かせん。それが、仕事を受ける条件だ」
しばらく、雨音だけが響いた。
「……そうか」
次の瞬間、男の視界からレイが消えた。
(どこだ。今、そこに――!)
視線を走らせかけて、首筋が粟立った。
「――っ!」
少年の姿は、まだ捉えられない。
それでも、身体が勝手に顔を逸らしていた。
ひゅっ、と目の前で風が鳴った。
刃の鈍い光が、目の端をかすめる。
頬に、熱が走った。
男は弾かれたように後ろへ跳び、距離を取った。
着地と同時に剣を構え直す。
その先に、短剣を握ったレイが立っていた。
頬を、温かいものが伝った。
男は斬られた側へ視線を落とし、空いた手で頬に触れた。
離した指先に、血がついている。
(……斬られた?)
一瞬、息が止まった。
避けたはずだった。
いや、あの瞬間に顔を逸らしていなければ。
背筋を冷たいものが這い上がった。
(……ありえない。まだ、こんな幼い少年だぞ)
倒れた二人へ、素早く目を向けた。
どちらも、もう動かない。
二人とも、決して弱くはなかった。
大陸の冒険者協会の基準でいえば、中間層に当たる腕前だ。特に対人戦には慣れていた。
何度も一緒に仕事をこなしてきた。その実力は、よく知っている。
それが、二人とも。
こんな、子供に。
一人は反撃する間もなく倒れた。
もう一人も、剣を振り下ろした直後には殺されていた。
不意を突かれた。
相手を侮った。
だが、それだけで片づけられるか。
「……この俺にまで、傷を……」
レイへ視線を戻した。
短剣を下ろしたまま、こちらを見ている。
踏み込む瞬間すら、見えなかったのだ。
次も、頬の傷だけで済むとは限らない。
男は、剣先が揺れていることに気づいた。
柄を握る手に、余計な力が入っていた。
(……落ち着け)
深く、息を吐く。
目の前にいるのは、ただの子供ではない。
自分より格上の相手だ。
それを認めずに向かえば、あの二人と同じように殺される。
腰を落とし、握りを整える。
揺れていた剣先を、レイへと据え直した。
男の表情から、動揺が消えた。
先ほどまでとは違う、真剣な眼差しをレイへ向けた。
*
レイが、静かに歩き出した。
短剣を握った腕は、だらりと下がっている。
構えもせず、肩にも力が入っていない。
雨の中を歩く姿は、亡霊じみていた。
さっきまでは、それに騙されていた。
剣の構え方も知らない、ただの子供だと。
男は剣を据えたまま、近づいてくるレイを見ていた。
一歩。
また、一歩。
あと少しで、届く。
剣を振る距離を測った、そのとき。
レイが足を止めた。
男の間合いから、わずかに外れた位置だった。
踏み込まずに斬れば、届かない。
こちらから踏み込めば、今度はあの短剣を迎えることになる。
柄を握る指に、力がこもった。
(偶然ではない。わかっていて、そこに立っている)
レイは短剣を下げたまま、男を見ていた。
男も、その姿から視線を外さない。
ふと、少年の唇が動いた。
「…………」
何か、呟いている。
耳を澄ませたが、雨音に紛れて聞き取れなかった。
男はその口元と、下げられた短剣へ注意を配った。
(何を言っている?)
そのとき、少年の背後に違和感を覚えた。
木々の輪郭が、わずかに歪んでいる。
(……何だ、あれは?)
確かめようと視線を動かしかけ、レイの手元へ戻した。
短剣は、下がったままだ。
見失うわけにはいかない。
一度は、頬を掠めるだけで済んだ。次も避けられるとは限らない。
少年を視界の端に捉えながら、その背後へ目を凝らす。
歪んだ景色の手前に、薄い壁が見えた。
壁は左右へ続いている。
男は横へ身体をずらし、肩越しに背後を確かめた。
そこにも、同じ壁があった。
囲まれている。
(結界術か? だが、さっきの歪みは……)
すぐにレイへ視線を戻した。
少年の唇は、もう動いていなかった。
結界術は、術式の中でも扱いが難しい。
これだけの範囲を、こちらと向き合いながら展開した。
短剣を下ろした姿勢も変えずに。
(……剣だけではない、ということか)
襟の内側を、冷たい汗が伝った。
男はレイとの距離を保ちながら、さらに横へ足を運んだ。
少年の身体に隠れていた壁が見える。
その向こうで、木の幹が不自然に曲がっていた。
根元へ視線を下げると、地面との境目まで歪んでいる。
男はすぐにレイへ目を戻した。
(結界術に、こんな特性があったか……?)
見間違いではない。
最初に見えた木々も、同じように歪んでいた。
男の知る術式とは違う。
だが、正体を探ろうと目を奪われている場合ではなかった。
剣先をレイへ据え直した。
(……何の術だろうが、こいつを殺せば済む)
短剣は、相変わらず下がったままだ。
その手元を警戒しながら、踏み込む。
一息に間合いを詰め、腰を捻った。
レイは動かない。
男の剣が、その胴へ横薙ぎに迫る。
(捉えた――!)
刃が身体を横切った。
だが、手応えがない。
肉を断つ抵抗も、骨に当たる衝撃も。
剣は何にも触れず、振り抜かれた。
「……っ?」
男はすぐに剣を引き戻した。
次の一撃へ移ろうとして、目を見開く。
レイの姿が、ぼやけていた。
斬ったはずの胴に、傷はない。
顔も、服も輪郭を失い、その向こうに別の人影が透けて見える。
数歩、奥。
もう一人のレイが立っていた。
短剣を下げ、こちらを見ている。
男は斜め後ろへ退いた。
二つの姿を視界に収め、剣を構え直す。
「ちっ……幻術まで使うのか」
目の前にいたレイの姿が消えた。
(さっき、呟いていたときか……?)
結界を張るだけではなかったのか。
あのとき既に、こちらへ偽の姿を見せていたのか。
男は奥にいるレイを見た。
なら、あれも。
さらに踏み込もうとはせず、足場を確かめた。
何もない場所へ剣を振らされれば、また隙ができる。
(どこで、これほどの技術を……)
報告では、一人で獲物を仕留めたことすらない子供だった。
剣を習ってはいても、実戦の経験はないと。
「……これじゃ、塔都の学園の化物を相手にしてるみたいじゃねえか」
低く吐き捨てた。
レイは追ってこない。
男が退いても、短剣を持ち上げることさえなかった。
男は剣先を向けたまま、横へ足を運んだ。
少年の顔が、その動きを追う。
今、見えている位置なら届く。
だが、先ほどもそうだった。
男は足を止め、レイを見据えた。
次に動く、その瞬間を見極める。
何もわからないまま、剣を振らされるわけにはいかなかった。
ここは、後手に回る。
だが、それは選んではならない運命だった。
次の瞬間、男の右手首が内側へ折れた。
「……っ?」
剣先が落ちる。
戻そうとした手が、さらに捻じれた。
「ぐ、あああっ……!」
左手で右腕を掴む。
押さえ込もうとした、その手の中で骨が軋んだ。
肘が、不自然な方向へ曲がる。
(止まれ……!)
力を込めても、捻じれは止まらなかった。
袖が引き絞られ、痛みが二の腕へ突き上がる。
肩まで来る。
男は左手を剣の柄へ伸ばした。
右の指に引っ掛かった柄をもぎ取り、まだ捻じれていない上腕へ刃を振るう。
「があっ……!」
一度では、断ち切れなかった。
食い込んだ剣を引き、もう一度。
腕が泥へ落ちた。
男は歯を食いしばり、斬り落とした箇所を見た。
血が溢れている。だが、肩は捻じれていない。
「はっ……はあっ……!」
剣を持つ左腕で傷口を胴へ押しつけ、よろめきながら距離を取った。
足元へ、血が滴る。
「……何だ、これは……?」
レイは、離れた場所に立っていた。
短剣も、下がったままだ。
触れられてすらいない。
男は落ちた腕へ目を向けた。
自分の腕だ。ついさっきまで、剣を握っていた。
幾度も、死線を潜ってきた。
傷を負ったことも、勝てない相手から逃げたこともある。
だが、そのときはわかっていた。
何をされたのか。何から逃げればいいのか。
今は、それすらわからない。
泥を踏む音がした。
男が顔を上げると、レイがこちらへ歩いてきていた。
短剣を下げたまま、表情も変えずに。
「……ま、待て……」
男は傷口を押さえ、後ずさった。
少年の顔から目を離せない。
また、何かされる。
今度は、どこを。
「く、来るな……!」
急いで引いた足がもつれた。
尻が泥を打ち、傷に響いた痛みに喉が引きつる。
傷口から左手を離し、地面についた。
後ろへ逃れようとするが、腕が震え、身体を押し出せない。
立て。
早く、立て……!
「や、やめて……くれ……!」
声が裏返った。
必死に踵で地面を蹴る。泥が滑り、身体はほとんど動かなかった。
視界に、レイの靴が入った。
足音が止まる。
男は肩をすくめ、顔を上げた。
短剣が、すぐそばに下がっている。
何を考えているのか、わからない。
命乞いに反応する様子さえなかった。
「……頼む……」
震える唇から、かすれた声が漏れた。
レイは男を見下ろしていた。
道端のゴミにでも向けるような目だった。
「……お前は、やめたのか」
男は、震える唇を開いた。
「……何を?」
レイは答えない。
ただ、見下ろしている。
「何をやめるんだよ……! 俺が、お前に何をしたっていうんだ!」
男は声を荒げた。
レイはしばらくその顔を見ていたが、やがて目を逸らした。
小さく息を吐く。
「……もういいや」
ひどく冷たい声だった。
「もういいって……何だよ。待て、頼む……!」
男は左手を地面から離し、レイへ向けた。
「何もしねえ。もう、お前らには何もしねえから……! このまま帰る。それでいいだろ……?」
レイは答えなかった。
男に背を向け、歩き出す。
男は、その背中を見つめた。
一歩。二歩と、離れていく。
(……助かった?)
詰めていた息が、震えながら漏れた。
少年は振り返らない。
短剣を握った腕も、下がったままだ。
男は、そっと左手を腰の後ろへ回した。
服の内側に隠した、小型銃の握りに触れる。
まだ、届く距離だ。
背中を向けている、今なら。
銃を抜き、少年へ向けた。
引き金に指を掛けた、そのとき。
視界が、傾いた。
少年の背中が横へ流れる。
地面が迫り、景色が回った。
衝撃とともに、視界が止まる。
目の前に、片膝をついた身体があった。
右腕がない。
左手には、銃を握っている。
首から上が、なかった。
(……え?)
泥に汚れた服。
腰の帯。履き慣れた靴。
(あれ、俺……だよな?)
銃を握った身体が、ゆっくりと崩れた。
男の意識は、そこで途切れた。
*
三人の遺体へ目を向け、唇を動かした。
「…………」
頭部が砕け、倒れた身体を炎が包んだ。
火は雨に消されることなく、骨まで焼き尽くしていく。
何も残らなくなったところで、指を鳴らした。
歪んでいた景色が戻る。
木々の輪郭も、地面も。
薄い壁のように見えていたものが消えた。
僕は母さんのもとへ向かい、膝をついた。
「母さん」
濡れた髪が、頬に張りついていた。
指でそっと払う。
「僕だよ。レイ」
母さんは、目を閉じていた。
「……起きて」
頬に触れた。
返事はない。
もう、死んでいる。
わかっていた。
それでも、母さんの顔を見つめた。
「母さん……」
返事はない。
「ねえ。僕、帰ってきたよ」
いつもなら、名前を呼ぶだけで振り向いてくれた。
手が離せないときだって、声は返してくれた。
「……母さん」
口を閉じて、待った。
雨音だけが、聞こえていた。
なんで。
今朝は、ここで話していた。
僕の頭を撫でてくれた。
なんで、なんで。
あの記憶が、もう少し早ければ。
そりなんか置いて、もっと早く帰っていれば。
なんで。なんで。なんで。
倒れている母さんを見たとき、すぐに駆け寄っていれば。
僕が……もっと強ければ……。
(なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。)
涙が、母さんの頬へ落ちた。
拭おうとした指が震えて、うまく拭けなかった。
また、助けられなかった。
あの記憶を見たのに。
今度は、何もできないままじゃなかったのに。
母さんは、戻ってこない。
触れていた頬から、手を離せなかった。
あいつらは、もういない。
誰も、母さんを傷つけない。
だから。
もう、目を開けてくれていいだろ。
「母さん……」
呼んだあとには、必ず声が返ってきた。
それが、どんな声だったかも覚えている。
なのに、もう聞けない。
背後で、かすかな咳がした。
振り返る。
アルスだった。
身体がわずかに動き、それきり、また静かになった。
連れていかないと。
傷の手当てをしただけだ。
ミラも、あの痣が出たまま眠っている。
母さんへ目を戻した。
「……待ってて」
やっぱり、返事は返ってこない。
唇を噛む。
「あとで、迎えにくるから」
短剣の血を拭い、鞘に収めた。
父さんから譲ってもらったそれを、母さんの手元へそっと置く。
手を離して、立ち上がった。
アルスのそばへ戻り、傷を確かめた。
身体を支えながら背中へ負い、ずり落ちないよう布を回して結ぶ。
そのまま膝をつき、ミラを抱き上げた。
首を腕で支え、胸元へ引き寄せる。
立ち上がると、二人分の重さが身体にかかった。
母さんを見た。
あそこに、一人で。
雨に濡れたまま。
一歩踏み出した足が、止まった。
戻れば、またそばにいられる。
でも、腕にはミラがいる。背中にはアルスが。
二人とも、かろうじて息をしている。
腕に力を込めた。
「……すぐ、戻るから」
母さんに背を向けた。
後ろを振り返ることなく、森へ入る。
涙は、止まらなかった。
俯きかけると、腕の中のミラが見えた。
顔を上げる。
奥歯を噛みしめ、足を進めた。
アルスも、ミラも。
まだ、生きている。
それだけを繰り返しながら、診療所へ向かった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。Ruruです。
第四話では、リーダーとレイの対決、そして母親のもとへ戻る場面を書きました。
今回は、男の視点から見たレイの不気味さを意識しています。何をされているのかわからない。目の前の少年が何を考えているのかもわからない。そんな恐怖が伝わっていたら嬉しいです。
一方で、母親の前に戻ったレイは、何度も声をかけてしまいます。
特にこの場面は、書いては直してを繰り返しました。返事がないとわかっていても、呼ばずにはいられない。その気持ちを、言葉にしすぎずに書くのが難しかったです。
次回は、アルスとミラを連れて診療所へ向かった、その続きから。
あの日の回想も、終わりへと近づいています。
その続きをお届けします。




