第二話 記憶と現実
「ごちそうさまでした」
スプーンを置き、席を立った。
リナはまだパンを食べている。メイラさんとルートの前にも、少しだけ朝食が残っていた。
「先に片づけて、出かける準備してきます」
「ああ、わかったよ」
メイラさんが頷くのを見て、自分の食器を厨房の洗い場へ運んだ。
皿と器を洗って、スプーンもすすぐ。洗い終えたものを水切りに置き、手を拭いた。
食卓の脇を通って、三階へ戻る。
部屋の机に置いていた黒い帽子とマスクを手に取り、服の裾を整えた。忘れ物がないか確かめてから、部屋を出た。
一階へ下りると、メイラさんとルートも食べ終わっていた。
厨房では水の音がしている。覗いてみると、メイラさんが食器を洗い、ルートが隣で洗い終わった皿を拭いていた。
「メイラさん、行ってきます。朝ごはん、おいしかったです」
メイラさんが顔を向け、笑った。
「そりゃよかった。いってらっしゃい」
「レイ、気をつけて」
布巾を持ったルートに、微笑み返した。
「うん。ありがとう。いってくる」
玄関へ向かう途中、食卓に残っていたリナが僕を見つけた。片手には、まだパンを持っている。
「あっ、レイくん! いってらっしゃ~い!」
反対の手を大きく振るリナに、手を振り返した。
「いってきます」
扉を押すと、朝の光が差し込んできた。
外へ出て、後ろ手に扉を閉める。
ここ、アバンダが、今の僕の暮らす都市だ。
黒い帽子を深く被った。
マスクで鼻まで覆い、耳元に指を掛けて直す。
そこには、もう笑顔はなかった。
人の少ない路地を、気配を消して歩く。
宿を離れるにつれ、通りの賑わいが聞こえてきた。
大通りへ出ると、何人もの呼び声が重なった。
「安いよ、安いよ! どうだい、今日も野菜が安いよ!」
「今朝入ったばっかで新鮮だよ! ほら、こっちの魚も見ていきな!」
籠に積まれた野菜の向こうで、男が声を張り上げていた。メイラさんが昨日、安く買えたと言っていた店だ。
少し先では、魚屋が通りの客に呼び掛けている。店先には買い物客が集まり、その脇を荷物を抱えた人々が行き交っていた。
その中へ入る前に、もう一段、気配を落とした。
人の流れに紛れ、足音も気配も街の賑わいに溶かしていく。
誰の目にも留まらないまま、大通りを抜けた。
脇道に入ると、背後の賑わいが遠ざかっていった。
そのまま、しばらく歩いた。
診療所の前まで来て、足を止める。
扉に手を掛ける前に、帽子のつばを少し下げた。
*
中へ入ると、受付にいた女性が顔を上げた。
僕に気づくと、廊下の奥へ目を向ける。
頭を下げて、その横を通り過ぎた。
廊下には、薬草の匂いがしていた。
壁際の椅子には、診察を待つ患者が並んでいる。咳や話し声を聞き流し、そちらには目も向けずに歩いた。
向かったのは、廊下のいちばん奥にある特別室だ。
入口の脇に、二人分の名札が掛かっていた。
『アルス 様』
『ミラ 様』
ガラスの前で、足を止めた。
ガラスの向こうに、ベッドが二つ並んでいた。
左に、弟。右に、妹。
二人とも、目を閉じている。
それぞれの枕元に置かれた水晶に、細い光の線が浮かんでいた。
心臓の動きに合わせて、一定の間隔で波打っている。先生は、どちらも正常だと言っていた。
その光だけが、動いていた。
二人は、指一本動かさない。
こちらを向くことも、目を開けることもない。
ガラスに、片手をついた。
………………冷たい。
昨日も、二人に会いに来た。
一昨日も。その前も。
だけど、今日も、何も変わらない。
ガラスに、帽子を被った僕が映る。
帽子の影から覗く目には、何の表情もなかった。ただ、ガラスの向こうの二人を見ている。
背後で足音がした。
ガラスに映った誰かが、僕の少し後ろで立ち止まる。
声は掛けられなかった。
しばらくすると、その人もいなくなった。
二つの水晶の光が、変わらない間隔で波打ち続ける。
僕はガラスに片手を当てたまま、二人を見ていた。
*
診療所を出たときには、通りを歩く人が増えていた。
帽子を下げる。
来た道へは戻らず、都市の外へ続く通りを進んだ。
家々の間を抜け、都市を離れた。
しばらく歩き、森の入口で足を止める。
後ろを振り返った。
ついてくる人影はない。
森へ入り、道を外れて左奥へ進む。
しばらくすると、生い茂る枝葉に行く手を塞がれた。
行き止まりにしか見えない。
何も知らなければ、ここで引き返すだろう。
端にある枝へ手を伸ばし、決まった順番に分けていく。
最後の枝を押しのけると、さっきまで見えなかった通路が現れた。
ただ、ここを通れば着くわけじゃない。
この先も、決められた道を辿らなければ、いつの間にか森の入口へ戻される。
小さい頃から、何度も通った道だ。順路は身体が覚えている。
通路へ足を踏み入れ、迷うことなく奥へ進んだ。
頭上の枝が風で揺れる。
葉の隙間から落ちた光が、地面の上を動いていた。
今日は、雨は降っていない。
あの日、そりを引いて歩いた辺りを通った。
草が伸びて、もう跡なんて残っていない。
そこを過ぎても、まだ歩く。
木々の向こうに、黒い木材が見えてきた。
帽子を脱いだ。
マスクも外して、二つまとめて持つ。
家に、帰ってきた。
*
焼け残った柱のそばを通り、家の裏手へ回った。
草の間に、小さな墓が見えた。
母さんの墓だ。
帽子とマスクを脇へ置き、膝をついた。
墓を前にすると、言いたいことがいくつも込み上げてくる。
それらを飲み込んで、一つ、息をつく。
「……ただいま、母さん」
墓の周りに生えた草を抜く。
墓標にした石は、少し傾いていた。
もっと、ちゃんとした墓にしてやりたかった。
でも、誰かに任せるのは嫌だった。母さんに、誰にも触れてほしくなかった。
草を抜いた指に、土がついた。
母さんを埋めたときも、この手は土だらけだった。
*
棺の中の母さんを見下ろして、蓋に手を掛けたまま、動けなかった。
これを閉じたら、もう顔も見えなくなる。
そりなんて、置いてくればよかった。
褒めてもらえるかなって、あんなにゆっくり歩いて。
家が見えてからも、そうだ。
母さんが倒れているのに、僕は立ち止まった。
すぐに駆けつけていれば。
何か、変わったかもしれないのに。
唇を噛んだ。
血の味がしても、緩められなかった。
(……なんで。なんで、なん……で……。)
涙が落ちる。
袖で拭っても、母さんの顔がぼやけた。
蓋を少し動かして、止めた。
隙間から、もう一度だけ顔を見た。
顔を歪めたまま、ゆっくり閉じた。
棺を埋めるときも、何度も手が止まった。
土をかけるたびに、蓋が見えなくなっていく。自分の手で、見えなくしている。
最後に土をかけた場所には、今は草が生えていた。
残った草を抜き、墓の周りを片づける。
手についた土を払ってから、手を合わせた。
目を閉じて、しばらくそうしていた。
何を祈ればいいのかは、わからなかった。
安らかに、なんて。
あんな目に遭って、そんなふうに眠れるのか。
それでも、ほかにしてやれることがなかった。
ゆっくり目を開けた。
「今日も、二人に会ってきたよ。まだ寝てたけど、先生は変わりないって」
墓に向かって、話を続ける。
「……ミラって、よく母さんにくっついてたよね。僕が呼んでも、母さんの後ろに隠れちゃってさ」
少しだけ、口元が緩んだ。
「でも、母さんが一緒だと出てくるんだよな。あのときも、母さんの手を離さなくて。僕が反対の手を握ったら、やっと……」
そこで、言葉が止まった。
返事はない。
わかっている。
墓に向かって話したって、返ってくるわけがない。
それなのに、待ってしまった。
「あのときのミラ、そうだったね」って、母さんも笑ってくれる気がして。
「……母さん」
呼んでも、返事はない。
話したいことは、まだある。
なのに、その先が出てこない。
膝の上で、手を握った。
なんで、母さんがここにいるんだよ。
目の前にあるのは、僕が作った母さんの墓だ。
その下に、棺がある。僕が閉じた蓋は、もう開けられない。
歯を食いしばった。
ここに来ると、全部、はっきり思い出す。
剣を持っていた男。その足元に流れていた血。弟へ近づいていった、あの足。
(あいつら……。)
地面についた手に力が入った。
爪が土へ食い込む。
笑ってたんだぞ。
あの日だって、母さんも、アルスも、ミラも。
みんな……笑って……たんだ。
口を開いた。
何か言おうとしたのに、息しか出てこなかった。
地面についた指が、さらに深く土へ食い込んだ。
誰もいない。
ここには、誰も来ない。
俯いたまま、しばらく動けなかった。
雨の中に倒れていた母さんが、頭から離れない。
焦げた匂いまで、鼻の奥に蘇る。
弟に向かって伸ばした手。
届かなかった、その先を。
そして、あの日から僕の中にある、この記憶を。
*
刃が、弟を斬った。
「あ……」
弟の手から剣が滑り落ちた。
小さな身体が傾く。
まだ、届かない。
「アルス――っ!」
弟が地面に崩れた。
僕を見ていた顔が、見えなくなった。
足がもつれる。
それでも、走った。
「アルスっ……!」
そばへ駆け寄り、泥の中に膝をついた。
肩へ伸ばした手が、血で濡れた服に触れる。
まだ、流れている。
服に染みて、地面にまで。
「っ、アルス……! おい、僕だよ……!」
弟の唇が、かすかに動いた。
「……にい、さん……」
「そうだよ……! 僕だよ、アルス……!」
薄く開いた目が、僕を見た。
何か言おうとしている。けれど、唇が震えるだけで、続きが聞こえない。
「喋らなくていい。今、止めるから……っ」
傷を両手で押さえた。
「ぅ……っ、ごほっ!」
弟の顔が歪んだ。
咳と一緒に血がこぼれ、口元を赤く濡らした。
「アルス……っ!」
思わず手の力を緩めると、傷を押さえた指の間からも血が滲んできた。
だめだ。
でも、押さえたら、アルスが。
「ごめん……ごめん、アルス……っ」
どうすればいい。どうすれば止まるんだ。
弟の手が、僕の袖に触れた。
「……ミ、ラ……」
弟が、妹の方へ目を向けた。
僕もつられて、そちらを見た。
少し離れたところに、ミラが倒れていた。
横向きになったまま、動かない。
「……ミラ?」
片手を離し、小さな肩へ伸ばした。
触れても、動かない。
「ミラ、起きて……。ねえ……っ」
顔を覗き込む。
何も、返ってこなかった。
「……にい……」
袖を引かれた。
振り向くと、弟がまだ僕を見ていた。
「いるよ。ここにいるから……!」
涙が落ちた。
弟の傷を押さえる手は離せない。妹も、起きない。
何をすればいい。
僕は、どうしたら。
アルスを見て、ミラを見た。
どちらも放っておけない。なのに、何をしてやればいいのかわからない。
誰か。
誰か、助けて。
縋るように顔を上げかけて、視界の端に人影が映った。
あの男たちが、まだそこにいた。
その足元で、母さんは倒れたままだった。
雨に打たれたまま、動かない。
母さん。
――ぱき、と。
胸の奥で、何かが壊れる音がした。
その瞬間、頭の奥に何かが突き刺さった。
「う、あああっ……!」
痛い。
なんだ、これ。痛い、痛い……!
頭を抱えた。
内側から、頭がかち割られそうだった。
目の前の景色が歪む。
そこには、雨の中に倒れていたはずの母さんが、笑っていた。
*
「母さん、見て! できた!」
ミラが両手で皿を持ち上げていた。
その上には、形の不揃いな焼き菓子が並んでいる。
「上手にできたね。頑張ったね、ミラ」
母さんに頭を撫でられて、ミラが嬉しそうに笑った。
頬には、まだ白い粉がついていた。
(このときは、確か……。ミラが初めて、母さんとお菓子を作った日だ。)
「兄さんにも、あげる!」
ミラが皿から一つ取って、僕に差し出した。
受け取って齧ると、甘くて、少しだけ硬かった。
「……どう?」
ミラが、じっと僕の顔を見ている。
「おいしいよ」
「ほんと?」
頷くと、ミラは母さんを振り返った。
「母さん! 兄さんも、おいしいって!」
母さんが笑う。
僕も、もう一口齧った。
その甘さが口に残っているうちに、景色が切り替わった。
父さんの剣が迫る。
受け止めた腕が痺れた。
家の前では、アルスが座って見ていた。
僕と目が合うと、嬉しそうに手を振った。
また、景色が切り替わった。
今度は、雨の降る森にいた。
雨に濡れた草。その向こうに、鹿がいる。
息を殺して、短剣を握り直す。
近づくのが怖かった。でも、今日こそは。
刃を突き立てた感触が、手に蘇った。
(これ、さっきの……。僕が、鹿を仕留めたときの――。)
そりを引いている。
肩に縄が食い込んで、足が泥に沈む。
木々の向こうが、赤く染まった。
(……この先は。)
肩の縄を放り出して、走る。
枝葉を払いのけた先で、家が燃えていた。
母さんが、倒れている。
その向こうで、アルスが剣を握っていた。
(待って。そこから、動いちゃだめだ。)
男が近づく。
アルスが剣を持ち上げる。
(さっきと、同じだった。)
(だめだ。そっちを見るな……!)
僕の声に、アルスが顔を向けた。
刃が振り下ろされる。
「あ……」
(止められない。わかっているのに、何も変わらない。)
アルスが崩れ落ちた。
駆け寄った僕が、傷を押さえている。
自分の泣き声が、頭の中に響いていた。
傷を押さえたまま、何度もアルスを呼んでいる。
ミラへ駆け寄り、肩に触れる。顔を上げると、男たちの足元に母さんがいた。
(ここまでは、さっきと同じだ。)
なのに、景色は変わらなかった。
僕が、母さんのそばへ膝をついた。
「母さん……っ、ねえ、母さん……!」
肩を揺すっている。
返事がなくても、手を離さない。
(待て。僕は、まだそこへ行ってない。)
母さんの服を掴み、顔を伏せた。
何か言おうとして、泣き声しか出てこない。
その背後で、三人の男が動いた。
僕たちから離れていく。
(おい。あいつらが、行くぞ。)
けど、そこにいる僕は顔を上げなかった。
男たちの姿が見えなくなってから、ようやく顔を上げた。
母さんの服から手を離し、腰の短剣を掴む。
あいつら。
玄関の前を見た。
家の脇も、森へ続く道も。誰もいない。
「……どこだよ」
立ち上がって、もう一度見回した。
涙に濡れた顔が、憎悪に歪んでいた。
「どこに行ったんだよ……!」
短剣の柄を握りしめる。
殺してやる。
あいつらだけは、絶対に。
唇に歯が食い込んだ。
血が口の中へ広がっても、噛む力を緩められなかった。
追いかけようと足を踏み出した、そのとき。
背後から、細い息の音がした。
あいつらか……!
短剣を抜き、勢いよく振り返った。
けれど、そこに男たちの姿はなかった。
そこにいたのは、ミラだった。
「……ミラ?」
短剣を鞘へ戻し、駆け寄った。
膝をついて、口元へ顔を近づける。
息をしている。
弱いけど、確かに。
「ミラ……っ!」
肩に触れた。
目は開かない。それでも、息はしている。
だったら。
母さんも、アルスも。
母さんのそばへ戻った。
名前を呼んで、口元へ耳を寄せる。
何も聞こえない。
そんなはずない。
雨の音で、聞こえないだけだ。
首筋へ指を当てた。
触れる位置を変えた。もう一度、口元を確かめた。
「母さん……」
アルスにも、同じことをした。
何度も呼んで、身体に触れて、確かめた。
けれど、母さんも、アルスも。
もう、息をしていなかった。
(――違う。アルスは、喋ってた。僕の袖に触れて、ミラを見て。)
なのに、頭の中の僕は、弟の手を握りしめていた。
動かない指を包んだまま、俯いている。
(なんだよ、これ。こんなの、僕は――。)
ミラが、また細く息をした。
僕が顔を上げる。
弟の手を、すぐには離せなかった。
指をほどき、そっと地面へ下ろす。
立ち上がろうとして、膝が滑った。
ミラを助けないと。
妹の身体を抱き起こした。
首が傾いて、慌てて支える。腕の中に抱え直しても、目を覚まさなかった。
母さんを見る。
アルスを見る。
二人とも、雨に濡れていた。
一歩、足を動かした。
それでも、目が離れなかった。
置いていくのか。
母さんも、アルスも、ここに。
ミラを抱く腕に力が入る。
視線を落とすと、小さな口がわずかに開いていた。
息が、浅い。
「……っ」
歯を食いしばり、二人に背を向けた。
走る。
ミラの身体が揺れるたび、腕で抱え直した。
振り返りたい。
戻って、二人も連れていきたい。
でも、足を止められなかった。
ミラまで。
妹のミラまで、失うわけには。
枝葉を押しのけ、森を抜ける。
腕が痛い。息が苦しい。
その苦しさまで、僕の中へ流れ込んできた。
(こんなの、覚えがない。ミラを抱えて、この道を走ったことなんて。)
(なのに、腕の中の重さを知っている。ミラの息が聞こえなくなるのが怖くて、何度も顔を寄せたことも。)
また、景色が切り替わった。
診療所の扉の前で、声を張り上げていた。
「誰か……! 誰かお願いします、妹を……っ!」
扉が開く。
出てきた人が、僕の腕の中を見て顔色を変えた。
何かを聞かれた。
答えようとして、言葉が詰まる。
「息は、してて……でも、起きなくて……!」
ミラへ手が伸びてきた。
渡そうとしたのに、指が服を掴んだまま離れなかった。
誰かが僕の顔を覗き込み、何かを言っている。
頷いて、ようやく腕を緩めた。
妹が運ばれていく。
追いかけようとして、足が動かなかった。
閉まっていく扉を見ながら、その場に膝をついた。
そこで、景色が切り替わった。
土を掘っていた。
爪の間に泥が詰まっている。
指が痛い。曲げても、伸ばしても痛かった。
顔を上げると、焼けた家があった。
その前に、棺が二つ並んでいる。
大きな棺。
その隣に、小さな棺。
蓋に手を掛けた。
小さな棺の中には、アルスがいた。
(なんで。閉じられない。そこに顔が見えているのに、この手で隠すなんて。)
けれど、頭の中の僕は、泣きながら蓋を動かした。
(やめろ。閉じるな。まだ、アルスが。)
景色が切り替わる。
二つの墓が、目の前にあった。
土だらけの手を膝に置いて、僕は座り込んでいる。
何も言わなかった。
立ち上がることもなく、ただ、二つを見ていた。
胸が苦しい。
(見ているだけのはずなのに。どうして、こんなに。)
次の瞬間、手の中に剣があった。
大きな手だった。
指も、腕も、今の僕とは違う。
振り下ろす。
構え直して、また振る。
掌の皮が剥けていた。
柄を握るたびに痛む。それでも、手を離さない。
頭に浮かぶのは、あの男たちだった。
剣を持った腕。母さんのそばに立つ足。アルスへ振り下ろされた刃。
息を吐いて、踏み込んだ。
もっと速く。
もっと、深く。
あいつらを殺せるまで。
腕が上がらなくなって、膝をつく。
剣を地面に突き立て、すぐに立ち上がった。
また、景色が切り替わった。
見上げるほど高い本棚が並んでいる。
同じ制服を着た人たちが、机に向かっていた。
(どこかの学園の、図書館だろうか。)
その中で、僕は魔導書を開いていた。
机には、何冊もの本が積まれている。
開いたページの脇には、文字と図で埋まった紙が散らばっていた。
目が、文字を追っている。
読み終えると、前のページへ戻った。同じ箇所を読み直し、紙へ書きつける。
ペンを握る指に、インクが染みついていた。
目を擦った手にもついたけれど、拭こうともしない。
別の魔導書を開く。
書きつけた図と見比べ、線を引いて消した。空いたところへ、また書く。
何度も。
同じページを、何度も。
誰かが声を掛けていた。
僕は顔も上げなかった。
椅子が引かれる。
周りにいた人たちが、一人ずついなくなる。
それでも、ページをめくっていた。
指が止まったのは、一瞬だけだった。
こめかみを押さえ、歯を食いしばる。すぐに手を戻して、続きを読み始めた。
まるで、やめ方を忘れてしまったみたいに。
(やめ……ろ……!)
頭の奥が痛む。
けれど、景色は止まらなかった。
また、別の場所。
また、知らない顔。
次々に切り替わる。
一つを確かめようとしたときには、もう次の光景が押し寄せていた。
(やめ……ろ……!!)
(もう、わからない。何を見ているのかも、どこにいるのかも。)
(知らないはずなのに、苦しい。)
剣を振り続けた焦り。
魔導書に向かっていたときの、張りつめた気持ち。
ミラを抱えて、二人を置いていったときの――。
その場で何を感じていたのかまで、わかってしまう。
(なんで、覚えてるんだよ……!)
(僕は、こんなところへ行っていない。あんな大きな手で、剣を握ったこともない。)
(大きな、手。)
(……待て。)
(最初に見えたのは、家族と過ごした日だった。それから、今日の狩り。家が燃えて、アルスが斬られて。)
(そこまでは、全部、同じだった。)
(その先だけを、僕は知らない。)
(男たちがいなくなること。ミラを抱えて走ること。二つの棺を、埋めること。)
(そして、今より大きくなった僕が。)
(……そう、か。)
(これから、なのか。)
(まだ起きていないだけで。これが、この先、僕に起こることなのかもしれない。)
そう思った瞬間、記憶が途切れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。Ruruです。
家族の前では、年相応の幼さを見せるレイ。
それでも、弟や妹にとっては兄であり、長男でもあります。そんな彼の一面が、少しでも伝わっていたら嬉しいです。
ただ、レイの中にある暗い部分も、この先の物語で重要になってきます。
そして、レイの中に流れ込んできた記憶。
この記憶も、今後の物語に深く関わる要素の一つです。
次回は、記憶が途切れ、あの悲劇の場面へ戻ったところから。
流れ込んできた記憶を抱え、レイは何を思い、何をするのか。
その続きをお届けします。




