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幽暗に堕ちたあの日が消えない  作者: Ruru
1章

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3/7

第二話 記憶と現実

「ごちそうさまでした」


 スプーンを置き、席を立った。

 リナはまだパンを食べている。メイラさんとルートの前にも、少しだけ朝食が残っていた。


「先に片づけて、出かける準備してきます」


「ああ、わかったよ」


 メイラさんが頷くのを見て、自分の食器を厨房の洗い場へ運んだ。

 皿と器を洗って、スプーンもすすぐ。洗い終えたものを水切りに置き、手を拭いた。


 食卓の脇を通って、三階へ戻る。

 部屋の机に置いていた黒い帽子とマスクを手に取り、服の裾を整えた。忘れ物がないか確かめてから、部屋を出た。


 一階へ下りると、メイラさんとルートも食べ終わっていた。

 厨房では水の音がしている。覗いてみると、メイラさんが食器を洗い、ルートが隣で洗い終わった皿を拭いていた。


「メイラさん、行ってきます。朝ごはん、おいしかったです」


 メイラさんが顔を向け、笑った。


「そりゃよかった。いってらっしゃい」


「レイ、気をつけて」


 布巾を持ったルートに、微笑み返した。


「うん。ありがとう。いってくる」


 玄関へ向かう途中、食卓に残っていたリナが僕を見つけた。片手には、まだパンを持っている。


「あっ、レイくん! いってらっしゃ~い!」


 反対の手を大きく振るリナに、手を振り返した。


「いってきます」


 扉を押すと、朝の光が差し込んできた。

 外へ出て、後ろ手に扉を閉める。

 ここ、アバンダが、今の僕の暮らす都市だ。


 黒い帽子を深く被った。

 マスクで鼻まで覆い、耳元に指を掛けて直す。


 そこには、もう笑顔はなかった。


 人の少ない路地を、気配を消して歩く。

 宿を離れるにつれ、通りの賑わいが聞こえてきた。


 大通りへ出ると、何人もの呼び声が重なった。


「安いよ、安いよ! どうだい、今日も野菜が安いよ!」


「今朝入ったばっかで新鮮だよ! ほら、こっちの魚も見ていきな!」


 籠に積まれた野菜の向こうで、男が声を張り上げていた。メイラさんが昨日、安く買えたと言っていた店だ。

 少し先では、魚屋が通りの客に呼び掛けている。店先には買い物客が集まり、その脇を荷物を抱えた人々が行き交っていた。


 その中へ入る前に、もう一段、気配を落とした。


 人の流れに紛れ、足音も気配も街の賑わいに溶かしていく。

 誰の目にも留まらないまま、大通りを抜けた。


 脇道に入ると、背後の賑わいが遠ざかっていった。

 そのまま、しばらく歩いた。


 診療所の前まで来て、足を止める。

 扉に手を掛ける前に、帽子のつばを少し下げた。


     *


 中へ入ると、受付にいた女性が顔を上げた。

 僕に気づくと、廊下の奥へ目を向ける。


 頭を下げて、その横を通り過ぎた。


 廊下には、薬草の匂いがしていた。

 壁際の椅子には、診察を待つ患者が並んでいる。咳や話し声を聞き流し、そちらには目も向けずに歩いた。


 向かったのは、廊下のいちばん奥にある特別室だ。

 入口の脇に、二人分の名札が掛かっていた。


 『アルス 様』

 『ミラ 様』


 ガラスの前で、足を止めた。


 ガラスの向こうに、ベッドが二つ並んでいた。

 左に、弟。右に、妹。


 二人とも、目を閉じている。


 それぞれの枕元に置かれた水晶に、細い光の線が浮かんでいた。

 心臓の動きに合わせて、一定の間隔で波打っている。先生は、どちらも正常だと言っていた。


 その光だけが、動いていた。


 二人は、指一本動かさない。

 こちらを向くことも、目を開けることもない。


 ガラスに、片手をついた。


 ………………冷たい。


 昨日も、二人に会いに来た。

 一昨日も。その前も。


 だけど、今日も、何も変わらない。


 ガラスに、帽子を被った僕が映る。

 帽子の影から覗く目には、何の表情もなかった。ただ、ガラスの向こうの二人を見ている。


 背後で足音がした。

 ガラスに映った誰かが、僕の少し後ろで立ち止まる。


 声は掛けられなかった。

 しばらくすると、その人もいなくなった。


 二つの水晶の光が、変わらない間隔で波打ち続ける。

 僕はガラスに片手を当てたまま、二人を見ていた。


     *


 診療所を出たときには、通りを歩く人が増えていた。


 帽子を下げる。

 来た道へは戻らず、都市の外へ続く通りを進んだ。


 家々の間を抜け、都市を離れた。

 しばらく歩き、森の入口で足を止める。


 後ろを振り返った。

 ついてくる人影はない。


 森へ入り、道を外れて左奥へ進む。

 しばらくすると、生い茂る枝葉に行く手を塞がれた。


 行き止まりにしか見えない。

 何も知らなければ、ここで引き返すだろう。


 端にある枝へ手を伸ばし、決まった順番に分けていく。

 最後の枝を押しのけると、さっきまで見えなかった通路が現れた。


 ただ、ここを通れば着くわけじゃない。

 この先も、決められた道を辿らなければ、いつの間にか森の入口へ戻される。


 小さい頃から、何度も通った道だ。順路は身体が覚えている。

 通路へ足を踏み入れ、迷うことなく奥へ進んだ。


 頭上の枝が風で揺れる。

 葉の隙間から落ちた光が、地面の上を動いていた。

 今日は、雨は降っていない。


 あの日、そりを引いて歩いた辺りを通った。

 草が伸びて、もう跡なんて残っていない。


 そこを過ぎても、まだ歩く。

 木々の向こうに、黒い木材が見えてきた。


 帽子を脱いだ。

 マスクも外して、二つまとめて持つ。


 家に、帰ってきた。


     *


 焼け残った柱のそばを通り、家の裏手へ回った。

 草の間に、小さな墓が見えた。


 母さんの墓だ。


 帽子とマスクを脇へ置き、膝をついた。


 墓を前にすると、言いたいことがいくつも込み上げてくる。

 それらを飲み込んで、一つ、息をつく。


「……ただいま、母さん」


 墓の周りに生えた草を抜く。

 墓標にした石は、少し傾いていた。


 もっと、ちゃんとした墓にしてやりたかった。

 でも、誰かに任せるのは嫌だった。母さんに、誰にも触れてほしくなかった。


 草を抜いた指に、土がついた。

 母さんを埋めたときも、この手は土だらけだった。


     *


 棺の中の母さんを見下ろして、蓋に手を掛けたまま、動けなかった。

 これを閉じたら、もう顔も見えなくなる。


 そりなんて、置いてくればよかった。

 褒めてもらえるかなって、あんなにゆっくり歩いて。


 家が見えてからも、そうだ。

 母さんが倒れているのに、僕は立ち止まった。


 すぐに駆けつけていれば。

 何か、変わったかもしれないのに。


 唇を噛んだ。

 血の味がしても、緩められなかった。


 (……なんで。なんで、なん……で……。)


 涙が落ちる。

 袖で拭っても、母さんの顔がぼやけた。


 蓋を少し動かして、止めた。

 隙間から、もう一度だけ顔を見た。


 顔を歪めたまま、ゆっくり閉じた。


 棺を埋めるときも、何度も手が止まった。

 土をかけるたびに、蓋が見えなくなっていく。自分の手で、見えなくしている。


 最後に土をかけた場所には、今は草が生えていた。


 残った草を抜き、墓の周りを片づける。

 手についた土を払ってから、手を合わせた。


 目を閉じて、しばらくそうしていた。

 何を祈ればいいのかは、わからなかった。


 安らかに、なんて。

 あんな目に遭って、そんなふうに眠れるのか。


 それでも、ほかにしてやれることがなかった。


 ゆっくり目を開けた。


「今日も、二人に会ってきたよ。まだ寝てたけど、先生は変わりないって」


 墓に向かって、話を続ける。


「……ミラって、よく母さんにくっついてたよね。僕が呼んでも、母さんの後ろに隠れちゃってさ」


 少しだけ、口元が緩んだ。


「でも、母さんが一緒だと出てくるんだよな。あのときも、母さんの手を離さなくて。僕が反対の手を握ったら、やっと……」


 そこで、言葉が止まった。


 返事はない。


 わかっている。

 墓に向かって話したって、返ってくるわけがない。


 それなのに、待ってしまった。

 「あのときのミラ、そうだったね」って、母さんも笑ってくれる気がして。


「……母さん」


 呼んでも、返事はない。


 話したいことは、まだある。

 なのに、その先が出てこない。


 膝の上で、手を握った。


 なんで、母さんがここにいるんだよ。


 目の前にあるのは、僕が作った母さんの墓だ。

 その下に、棺がある。僕が閉じた蓋は、もう開けられない。


 歯を食いしばった。


 ここに来ると、全部、はっきり思い出す。

 剣を持っていた男。その足元に流れていた血。弟へ近づいていった、あの足。


 (あいつら……。)


 地面についた手に力が入った。

 爪が土へ食い込む。


 笑ってたんだぞ。

 あの日だって、母さんも、アルスも、ミラも。


 みんな……笑って……たんだ。


 口を開いた。

 何か言おうとしたのに、息しか出てこなかった。


 地面についた指が、さらに深く土へ食い込んだ。


 誰もいない。

 ここには、誰も来ない。


 俯いたまま、しばらく動けなかった。


 雨の中に倒れていた母さんが、頭から離れない。

 焦げた匂いまで、鼻の奥に蘇る。


 弟に向かって伸ばした手。

 届かなかった、その先を。


 そして、あの日から僕の中にある、この記憶を。


     *


 刃が、弟を斬った。


「あ……」


 弟の手から剣が滑り落ちた。

 小さな身体が傾く。


 まだ、届かない。


「アルス――っ!」


 弟が地面に崩れた。

 僕を見ていた顔が、見えなくなった。


 足がもつれる。

 それでも、走った。


「アルスっ……!」


 そばへ駆け寄り、泥の中に膝をついた。

 肩へ伸ばした手が、血で濡れた服に触れる。


 まだ、流れている。

 服に染みて、地面にまで。


「っ、アルス……! おい、僕だよ……!」


 弟の唇が、かすかに動いた。


「……にい、さん……」


「そうだよ……! 僕だよ、アルス……!」


 薄く開いた目が、僕を見た。

 何か言おうとしている。けれど、唇が震えるだけで、続きが聞こえない。


「喋らなくていい。今、止めるから……っ」


 傷を両手で押さえた。


「ぅ……っ、ごほっ!」


 弟の顔が歪んだ。

 咳と一緒に血がこぼれ、口元を赤く濡らした。


「アルス……っ!」


 思わず手の力を緩めると、傷を押さえた指の間からも血が滲んできた。


 だめだ。

 でも、押さえたら、アルスが。


「ごめん……ごめん、アルス……っ」


 どうすればいい。どうすれば止まるんだ。


 弟の手が、僕の袖に触れた。


「……ミ、ラ……」


 弟が、妹の方へ目を向けた。

 僕もつられて、そちらを見た。


 少し離れたところに、ミラが倒れていた。

 横向きになったまま、動かない。


「……ミラ?」


 片手を離し、小さな肩へ伸ばした。

 触れても、動かない。


「ミラ、起きて……。ねえ……っ」


 顔を覗き込む。

 何も、返ってこなかった。


「……にい……」


 袖を引かれた。

 振り向くと、弟がまだ僕を見ていた。


「いるよ。ここにいるから……!」


 涙が落ちた。

 弟の傷を押さえる手は離せない。妹も、起きない。


 何をすればいい。

 僕は、どうしたら。


 アルスを見て、ミラを見た。

 どちらも放っておけない。なのに、何をしてやればいいのかわからない。


 誰か。

 誰か、助けて。


 縋るように顔を上げかけて、視界の端に人影が映った。


 あの男たちが、まだそこにいた。

 その足元で、母さんは倒れたままだった。


 雨に打たれたまま、動かない。


 母さん。


 ――ぱき、と。


 胸の奥で、何かが壊れる音がした。

 その瞬間、頭の奥に何かが突き刺さった。


「う、あああっ……!」


 痛い。

 なんだ、これ。痛い、痛い……!


 頭を抱えた。

 内側から、頭がかち割られそうだった。


 目の前の景色が歪む。


 そこには、雨の中に倒れていたはずの母さんが、笑っていた。


     *


「母さん、見て! できた!」


 ミラが両手で皿を持ち上げていた。

 その上には、形の不揃いな焼き菓子が並んでいる。


「上手にできたね。頑張ったね、ミラ」


 母さんに頭を撫でられて、ミラが嬉しそうに笑った。

 頬には、まだ白い粉がついていた。


 (このときは、確か……。ミラが初めて、母さんとお菓子を作った日だ。)


「兄さんにも、あげる!」


 ミラが皿から一つ取って、僕に差し出した。

 受け取って齧ると、甘くて、少しだけ硬かった。


「……どう?」


 ミラが、じっと僕の顔を見ている。


「おいしいよ」


「ほんと?」


 頷くと、ミラは母さんを振り返った。


「母さん! 兄さんも、おいしいって!」


 母さんが笑う。

 僕も、もう一口齧った。


 その甘さが口に残っているうちに、景色が切り替わった。


 父さんの剣が迫る。

 受け止めた腕が痺れた。


 家の前では、アルスが座って見ていた。

 僕と目が合うと、嬉しそうに手を振った。


 また、景色が切り替わった。


 今度は、雨の降る森にいた。

 雨に濡れた草。その向こうに、鹿がいる。


 息を殺して、短剣を握り直す。

 近づくのが怖かった。でも、今日こそは。


 刃を突き立てた感触が、手に蘇った。


 (これ、さっきの……。僕が、鹿を仕留めたときの――。)


 そりを引いている。

 肩に縄が食い込んで、足が泥に沈む。


 木々の向こうが、赤く染まった。


 (……この先は。)


 肩の縄を放り出して、走る。

 枝葉を払いのけた先で、家が燃えていた。


 母さんが、倒れている。

 その向こうで、アルスが剣を握っていた。


 (待って。そこから、動いちゃだめだ。)


 男が近づく。

 アルスが剣を持ち上げる。


 (さっきと、同じだった。)


 (だめだ。そっちを見るな……!)


 僕の声に、アルスが顔を向けた。

 刃が振り下ろされる。


「あ……」


 (止められない。わかっているのに、何も変わらない。)


 アルスが崩れ落ちた。

 駆け寄った僕が、傷を押さえている。


 自分の泣き声が、頭の中に響いていた。


 傷を押さえたまま、何度もアルスを呼んでいる。

 ミラへ駆け寄り、肩に触れる。顔を上げると、男たちの足元に母さんがいた。


 (ここまでは、さっきと同じだ。)


 なのに、景色は変わらなかった。


 僕が、母さんのそばへ膝をついた。


「母さん……っ、ねえ、母さん……!」


 肩を揺すっている。

 返事がなくても、手を離さない。


 (待て。僕は、まだそこへ行ってない。)


 母さんの服を掴み、顔を伏せた。

 何か言おうとして、泣き声しか出てこない。


 その背後で、三人の男が動いた。

 僕たちから離れていく。


 (おい。あいつらが、行くぞ。)


 けど、そこにいる僕は顔を上げなかった。


 男たちの姿が見えなくなってから、ようやく顔を上げた。

 母さんの服から手を離し、腰の短剣を掴む。


 あいつら。


 玄関の前を見た。

 家の脇も、森へ続く道も。誰もいない。


「……どこだよ」


 立ち上がって、もう一度見回した。

 涙に濡れた顔が、憎悪に歪んでいた。


「どこに行ったんだよ……!」


 短剣の柄を握りしめる。


 殺してやる。

 あいつらだけは、絶対に。


 唇に歯が食い込んだ。

 血が口の中へ広がっても、噛む力を緩められなかった。


 追いかけようと足を踏み出した、そのとき。

 背後から、細い息の音がした。


 あいつらか……!


 短剣を抜き、勢いよく振り返った。


 けれど、そこに男たちの姿はなかった。

 そこにいたのは、ミラだった。


「……ミラ?」


 短剣を鞘へ戻し、駆け寄った。

 膝をついて、口元へ顔を近づける。


 息をしている。

 弱いけど、確かに。


「ミラ……っ!」


 肩に触れた。

 目は開かない。それでも、息はしている。


 だったら。

 母さんも、アルスも。


 母さんのそばへ戻った。

 名前を呼んで、口元へ耳を寄せる。


 何も聞こえない。


 そんなはずない。

 雨の音で、聞こえないだけだ。


 首筋へ指を当てた。

 触れる位置を変えた。もう一度、口元を確かめた。


「母さん……」


 アルスにも、同じことをした。

 何度も呼んで、身体に触れて、確かめた。


 けれど、母さんも、アルスも。

 もう、息をしていなかった。


 (――違う。アルスは、喋ってた。僕の袖に触れて、ミラを見て。)


 なのに、頭の中の僕は、弟の手を握りしめていた。

 動かない指を包んだまま、俯いている。


 (なんだよ、これ。こんなの、僕は――。)


 ミラが、また細く息をした。


 僕が顔を上げる。

 弟の手を、すぐには離せなかった。


 指をほどき、そっと地面へ下ろす。

 立ち上がろうとして、膝が滑った。


 ミラを助けないと。


 妹の身体を抱き起こした。

 首が傾いて、慌てて支える。腕の中に抱え直しても、目を覚まさなかった。


 母さんを見る。

 アルスを見る。


 二人とも、雨に濡れていた。


 一歩、足を動かした。

 それでも、目が離れなかった。


 置いていくのか。

 母さんも、アルスも、ここに。


 ミラを抱く腕に力が入る。

 視線を落とすと、小さな口がわずかに開いていた。


 息が、浅い。


「……っ」


 歯を食いしばり、二人に背を向けた。


 走る。

 ミラの身体が揺れるたび、腕で抱え直した。


 振り返りたい。

 戻って、二人も連れていきたい。


 でも、足を止められなかった。


 ミラまで。

 妹のミラまで、失うわけには。


 枝葉を押しのけ、森を抜ける。

 腕が痛い。息が苦しい。


 その苦しさまで、僕の中へ流れ込んできた。


 (こんなの、覚えがない。ミラを抱えて、この道を走ったことなんて。)


 (なのに、腕の中の重さを知っている。ミラの息が聞こえなくなるのが怖くて、何度も顔を寄せたことも。)


 また、景色が切り替わった。


 診療所の扉の前で、声を張り上げていた。


「誰か……! 誰かお願いします、妹を……っ!」


 扉が開く。

 出てきた人が、僕の腕の中を見て顔色を変えた。


 何かを聞かれた。

 答えようとして、言葉が詰まる。


「息は、してて……でも、起きなくて……!」


 ミラへ手が伸びてきた。

 渡そうとしたのに、指が服を掴んだまま離れなかった。


 誰かが僕の顔を覗き込み、何かを言っている。

 頷いて、ようやく腕を緩めた。


 妹が運ばれていく。


 追いかけようとして、足が動かなかった。

 閉まっていく扉を見ながら、その場に膝をついた。


 そこで、景色が切り替わった。


 土を掘っていた。


 爪の間に泥が詰まっている。

 指が痛い。曲げても、伸ばしても痛かった。


 顔を上げると、焼けた家があった。

 その前に、棺が二つ並んでいる。


 大きな棺。

 その隣に、小さな棺。


 蓋に手を掛けた。

 小さな棺の中には、アルスがいた。


 (なんで。閉じられない。そこに顔が見えているのに、この手で隠すなんて。)


 けれど、頭の中の僕は、泣きながら蓋を動かした。


 (やめろ。閉じるな。まだ、アルスが。)


 景色が切り替わる。


 二つの墓が、目の前にあった。

 土だらけの手を膝に置いて、僕は座り込んでいる。


 何も言わなかった。

 立ち上がることもなく、ただ、二つを見ていた。


 胸が苦しい。


 (見ているだけのはずなのに。どうして、こんなに。)


 次の瞬間、手の中に剣があった。


 大きな手だった。

 指も、腕も、今の僕とは違う。


 振り下ろす。

 構え直して、また振る。


 掌の皮が剥けていた。

 柄を握るたびに痛む。それでも、手を離さない。


 頭に浮かぶのは、あの男たちだった。

 剣を持った腕。母さんのそばに立つ足。アルスへ振り下ろされた刃。


 息を吐いて、踏み込んだ。


 もっと速く。

 もっと、深く。


 あいつらを殺せるまで。


 腕が上がらなくなって、膝をつく。

 剣を地面に突き立て、すぐに立ち上がった。


 また、景色が切り替わった。


 見上げるほど高い本棚が並んでいる。

 同じ制服を着た人たちが、机に向かっていた。


 (どこかの学園の、図書館だろうか。)


 その中で、僕は魔導書を開いていた。


 机には、何冊もの本が積まれている。

 開いたページの脇には、文字と図で埋まった紙が散らばっていた。


 目が、文字を追っている。

 読み終えると、前のページへ戻った。同じ箇所を読み直し、紙へ書きつける。


 ペンを握る指に、インクが染みついていた。

 目を擦った手にもついたけれど、拭こうともしない。


 別の魔導書を開く。

 書きつけた図と見比べ、線を引いて消した。空いたところへ、また書く。


 何度も。

 同じページを、何度も。


 誰かが声を掛けていた。

 僕は顔も上げなかった。


 椅子が引かれる。

 周りにいた人たちが、一人ずついなくなる。


 それでも、ページをめくっていた。


 指が止まったのは、一瞬だけだった。

 こめかみを押さえ、歯を食いしばる。すぐに手を戻して、続きを読み始めた。


 まるで、やめ方を忘れてしまったみたいに。


 (やめ……ろ……!)


 頭の奥が痛む。

 けれど、景色は止まらなかった。


 また、別の場所。

 また、知らない顔。


 次々に切り替わる。

 一つを確かめようとしたときには、もう次の光景が押し寄せていた。


 (やめ……ろ……!!)


 (もう、わからない。何を見ているのかも、どこにいるのかも。)


 (知らないはずなのに、苦しい。)


 剣を振り続けた焦り。

 魔導書に向かっていたときの、張りつめた気持ち。

 ミラを抱えて、二人を置いていったときの――。


 その場で何を感じていたのかまで、わかってしまう。


 (なんで、覚えてるんだよ……!)


 (僕は、こんなところへ行っていない。あんな大きな手で、剣を握ったこともない。)


 (大きな、手。)


 (……待て。)


 (最初に見えたのは、家族と過ごした日だった。それから、今日の狩り。家が燃えて、アルスが斬られて。)


 (そこまでは、全部、同じだった。)


 (その先だけを、僕は知らない。)


 (男たちがいなくなること。ミラを抱えて走ること。二つの棺を、埋めること。)


 (そして、今より大きくなった僕が。)


 (……そう、か。)


 (これから、なのか。)


 (まだ起きていないだけで。これが、この先、僕に起こることなのかもしれない。)


 そう思った瞬間、記憶が途切れた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。Ruruです。


家族の前では、年相応の幼さを見せるレイ。

それでも、弟や妹にとっては兄であり、長男でもあります。そんな彼の一面が、少しでも伝わっていたら嬉しいです。

ただ、レイの中にある暗い部分も、この先の物語で重要になってきます。


そして、レイの中に流れ込んできた記憶。

この記憶も、今後の物語に深く関わる要素の一つです。


次回は、記憶が途切れ、あの悲劇の場面へ戻ったところから。

流れ込んできた記憶を抱え、レイは何を思い、何をするのか。


その続きをお届けします。

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