第一話 序幕と記憶
「やった。やったぞ」
倒れた鹿を前に、思わず声が出た。
何日も足跡を追って、逃げられて、罠を仕掛け直して。やっと今日、一頭仕留めることができた。
父さんの手を借りずに、全部、僕一人で。
握っていた短剣を見下ろす。
父さんから譲ってもらったものだ。柄についた血を拭うと、ようやく手の震えがわかった。
最後に近づくときは、怖かった。それでも、できた。
これだけあれば、しばらく肉には困らない。
弟に見せたら、すごいって言ってくれるかな。
妹には……見せない方がいいかも。
あの子は優しいから、きっと「かわいそう」って泣くかな。母さんにしがみつくところまで、簡単に想像できた。
家に着いたら、先に母さんを呼ぼう。
短剣を鞘に戻すと、葉を打つ雨音が耳に入った。
久しぶりの雨だった。森に入る頃に降り始めて、まだ止みそうにない。額の雫を袖で拭い、鹿の脚に縄を掛けた。
試しに引っ張ってみる。
ほとんど動かなかった。
「……重いな」
狩ることばかり考えて、持って帰ることを忘れていた。
このまま引きずって傷めるのも嫌だし、どうしようか。
そうだ。父さんに教えてもらったそりをつくろう。
近くから太い枝を二本拾い、その間に細い枝と縄を交互に編み込む。父さんに習った編み方を思い出し、一度間違えたところはほどいて直した。
少し不格好だけど、初めて一人で作ったにしては、よくできたと思う。
そりに鹿を載せて、縄でしっかり留める。
今日は、父さんがいない。
塔都に用事があると言って、家を出た。
帰ってきたら、獲物のことも、そりを一人で作れたことも話そう。褒めてくれるかな。
肩に縄を掛けて引くと、今度は動いた。
重いけど、これなら帰れる。
そう思ったのに、雨でぬかるんだ地面にそりが沈んで、なかなか進まない。何度も足を滑らせながら、肩の縄を握り直した。
「よい、しょ……っ」
早く帰って、みんなに見せたい。
弟は、どんな顔をするだろう。母さんも、褒めてくれるかな。
そう考えると、重たいはずのそりが、少し軽く感じられた。
行く手を塞ぐ枝を押しのけ、伸び放題の草をかき分ける。
木々の隙間から、家のある方へ目を向けた。
木々の向こうが、赤かった。
黒い煙が上がっている。
雨で霞んでいるのに、それだけは、はっきり見えた。
足が止まった。
「……え?」
あっちって、家のある方だよな。
でも、そんなはずない。
家の周りには誰も住んでいないし、一番近い都市からだって遠い。それに、父さんに教わった道順で進まないと、いつの間にか森の入り口に戻される。
知らない誰かが、たまたま辿り着ける場所じゃないんだ。
なのに、なんで煙が上がってる?
「……みんな?」
何が起きたのか、考えるより先に身体が動いていた。
肩に掛けていた縄を放り出し、僕は家に向かって走り出した。
*
「はっ、はぁっ……!」
邪魔な枝を払いのけ、草木をかき分ける。濡れた葉が頬に張りついたけど、構っていられなかった。
早く。早く帰らないと。
足が滑った。
踏ん張る間もなく、泥の中に倒れ込む。
「いたっ……くそっ!」
すぐに手をついて起き上がった。膝が痛い。でも、止まっている暇なんかない。
口に入った泥を吐き出し、また走った。
「はぁっ、はぁっ、はっ……!」
苦しい。息が足りない。
なのに、家はまだ見えない。
きっと、何かの間違いだ。
帰ったら母さんがいて、弟と妹も、いつもみたいに――。
そうだ。何も起きているはずがない。
だから、早く確かめないと。
――キンッ。
雨音に混じって、甲高い音が聞こえた。
続けて、もう一度。
剣と剣がぶつかる音だ。
父さんとの練習で、何度も聞いた。間違えるはずがない。
でも、なんで。
父さんは、いないのに。
嫌な考えが頭に浮かんで、必死に振り払った。
速く。もっと速く。
息が苦しい。脚も痛い。
それでも走った。邪魔な枝葉を払いのけ、音のする方へ向かう。
焦げ臭い。
家に近づくほど、その匂いが強くなる。
「母さんっ!」
返事はない。
最後の枝を払いのけた、その先に家が見えた。
燃えていた。
僕たちの家が。
屋根から炎が上がっている。窓の中も真っ赤だった。
玄関の脇では、母さんが干してくれた服が燃えていた。
なんだよ、これ。
玄関の前に、見たことのない男が三人立っていた。
誰だ。なんで、ここにいるんだ。
その足元に目がいった。
母さんが、倒れていた。
「……っ!!」
息が、喉につかえた。
白いワンピースが、真っ赤に染まっていた。
なんだよ、これ。
火事じゃ、ないのか。
なんで母さんが。あの男たちは、誰なんだ。
何が起きているのか、わからない。
母さんのそばに立つ男が、剣を握っている。
あいつらが。
あいつらが、母さんを。
「ふざけんな……っ!」
短剣の柄を握りしめた。
今朝は笑ってたのに。
僕の頭を撫でて、気をつけてねって言ってくれたのに。
な、なんで。
なんで母さんが、こんな目に……。
「来るな……!!!」
弟の声がした。
玄関から離れたところで、剣を構えている。
その後ろに、見覚えのある小さな身体が見えた。
妹だ。
横向きになって、動かない。服の腹の辺りが泥で汚れ、片方だけ脱げた靴が転がっていた。
そこへ、男の一人が近づいていく。
「く、来るなって、言ってるだろっ!!」
弟が剣を構えていた。
切っ先が大きく揺れる。男が近づくたびに後ずさり、それでも妹の手前で踏みとどまった。
(やめろ。)
駄目だ。
剣なんて習ったこともないのに。
少し走るだけで咳が出るんだぞ。
僕の練習だって、いつも座って見ているだけだったじゃないか。
(やめてくれ。)
逃げろ。
お前まで、やられる。
弟は剣を握り直した。
震える切っ先を、それでも男に向けようとする。
男の腕が上がった。
(やめろ……!)
「やめろ――っ!!」
剣が弟に向いた瞬間、ようやく足が動いた。
僕は駆け出した。
弟が、こっちを向いた。
僕を見つけて、何か言おうと口を開く。
その瞬間、刃が振り下ろされた。
「やめろおおおお――っ!!」
まだ遠い。
どれだけ足を動かしても、間に合わない。
(だめだ。)
僕は走りながら、弟に向かって必死に手を伸ばした。
(頼むから、やめてくれ。)
*
「――っ!」
目が覚めた。
天井に向かって、手を伸ばしていた。
「はっ、はぁっ……はぁ……」
息が苦しい。
何もないところへ伸ばした手を、しばらく下ろせなかった。
赤く染まった白のワンピース。
妹を庇って立つ弟。
振り下ろされる剣。
まだ、目の前にある。
夢だ。
もう目は覚めている。
そう言い聞かせても、身体はまだ、あのときのままだった。
布団の擦れる音がして、左右を見た。
隣のベッドでは、エルフが布団を被っている。
反対側では、ハーピーが眠っていた。
二人とも、起きた様子はない。
……そうだ。
ここは宿の部屋だ。今、僕が暮らしている場所だ。
ゆっくり腕を下ろした。
汗で張りついた寝間着を引っ張り、息を吐く。
あの日から、一年以上が経った。
もうすぐ二年になる。
なのに、少しも薄れない。
あの剣が振り下ろされる瞬間を、何度だって見せられる。
「……くそっ」
奥歯を噛みしめた。
夢の中でくらい、届いたっていいだろ。
そう思って、余計に腹が立った。
夢で手が届いたところで、何になる。
ぎり、と歯が鳴った。
隣で寝ている二人に顔を向け、口を閉じる。
起こすわけにはいかない。
三人分のベッドと机で、この部屋はほとんど埋まっている。
ここに来たとき、僕にも一つずつ使っていいと言われた。
そう言ってくれたのが、宿の店主のメイラさんだ。
二十八歳のハイエルフ。
……なんで、こんなところで宿なんてやってるんだろう。
初めてこの宿に連れてこられる途中、一度だけ聞いたことがある。
あの頃の僕は、ひどく殺気立っていた。
小雨の降る路地裏で、膝を抱えてうずくまり、ただぼんやりと前を見ていた。
道行く親切な人が手を貸そうとしてくれても、触るな、と威嚇した。
メイラさんにも、そんな態度を取っていた。
だけど、本人はまるで気にしていなかった。
「……おい、少年。そんなに殺気立つな。来な、寝られる場所に連れてってやる」
僕の返事も待たずに歩き出した。
呼び止めることもせず、僕はその背中についていった。
なんでついていく気になったのか、自分でもわからない。
あんな態度を、まるで気にされなかったからか。
それとも、もう行く当てを探す気力も残っていなかったのか。
身体も心も、とっくに限界だった。
それでも、知らない相手についていく以上、気になることを放っておけなかった。
「……おい。あんた、ハイエルフだろ。なんで、こんなとこにいるんだよ」
今思えば、ひどい聞き方だった。
助けようとしてくれている相手に、礼の一つも言わずに。
前を歩いていたメイラさんが、足を止めた。
振り返り、タバコを口元へ運ぶ。
ゆっくり煙を吐き出してから、僕を見た。
「……なんで、私が『ハイエルフ』だと思ったんだい?」
静かな声だった。
さっきまでの気さくな調子が消えている。こちらを見る瞳も、妙に冷静だった。
僕は、その目を睨み返した。
「……その左目。ハイエルフの紋章、光らせといて何言ってんだよ!」
ハイエルフは、生まれたときから身体のどこかに紋章を持っている。
エルフ族の中でも高位の存在である証だ。
しかも、現れる位置で血統の格までわかる。
瞳に紋章を持つのは、歴代最高位の血統。
そんな相手が、こんな辺鄙な都市にいる。
しかも、わざわざ僕に声を掛けてきた。
助けてくれるからって、何も知らないままでいいわけないだろ。
「ふふっ。よく気づいたね、少年。けど、残念。今はまだ教えられない」
「……なんでだよ」
メイラさんは笑ったまま、タバコを吸った。
しばらく、沈黙が続いた。
ゆっくり煙を吐き出し、もう一度、僕に目を向ける。
「……そういう少年も――」
と言いかけて、口を閉じた。
何かを確かめるように僕の顔を見てから、ふっと笑う。
「ふふ。やっぱり、なんでもないよ」
「なんだよ、それ」
短くなったタバコの火を消し、新しい一本を取り出す。
それに火をつけると、メイラさんはまた歩き出した。
結局、何も聞き出せなかった。
あれ以来、一度も聞いていない。
それでも、行く当てのなかった僕を宿に連れて帰ってくれた。
泊まる金もない僕に、見返りを求めることもなかった。
なんでそこまでしてくれるのか、今でもわからない。
ただ、同じ部屋の二人にもメイラさんは優しい。
ごはんを用意して、服が破れれば繕ってくれる。食卓で話していると、タバコを片手に口を挟んでくる。
みんなで笑っている時間は好きだ。
メイラさんと、あの二人と、くだらないことを話して過ごす時間が。
(……だけど、僕の心の奥底には、まだ消えずに残っている。あの日が……。)
……でも、タバコを吸うのはやめてほしいかな。
似合ってるし、かっこいいとは思うけど。
くさいんだよな、あれ。
*
窓から差し込む光が、床の上まで伸びていた。
身支度を終えてベッドの端に腰掛けていると、隣から小さなあくびが聞こえた。
「ん~……おはよ~、レイくん~。今日もいい朝だね~」
布団から身体を起こしたのは、ハーピー族のリナだった。
レイ。それがここでの僕の名前だ。
「おはよう、リナ。まだ眠そうだね」
「ん~……そんなことないよ~」
目を擦りながら、リナが首を傾げる。
髪はあちこち跳ねたままだ。
「レイくんは、いつから起きてたの~?」
「少し前だよ」
「そっか~。早起きだねぇ~」
「リナがゆっくりなんですよ」
反対側の机で、ルートが本を閉じた。
エルフ族の彼も、もう身支度を済ませている。襟元まできちんと整えて、布団も綺麗に畳んであった。
「おはようございます、リナ。そろそろ朝食ですよ」
「おはよ~、ルートくん。……あと、ちょっとだけ~」
「そう言って、毎回二度寝していますよね」
「そんなことないよ~」
返事をしながら、また目を閉じかけている。
ルートは小さく息を吐き、リナのタオルを濡らしに行った。
戻ってきた彼から受け取ると、リナは顔に押し当てる。
「ん~……冷た~い」
目元や頬を拭って、ようやく顔を上げた。
「……お腹すいた~」
「じゃあ、下に行こうか」
*
階段を下りると、厨房からメイラさんが顔を出した。
左目には、いつもの眼帯をつけている。
ハイエルフの紋章を隠すためだろうか。理由は、まだ聞いたことがない。
「おはよう、三人とも。もうできるからね」
フライパンから漂う匂いに、リナの口元が緩む。
この宿は、一階が食堂、二階が客室。僕たちの部屋は三階にある。
食堂には、泊まり客以外も食べに来る。
「おはよ~、メイラさん。いい匂いだねぇ~」
「おはようございます。お皿、運びますね」
ルートが厨房へ向かい、僕も隣から覗き込んだ。
「おはようございます。僕はパンを運べばいい?」
「ああ。籠ごと頼むよ」
パンの籠を受け取り、皿を持ったルートとテーブルへ向かう。
リナもついてきた。
「ねぇ~、私も何か運ぼうか~?」
「ん? そうだね……」
メイラさんは厨房を見回し、少し考えた。
「じゃあ、そこのスプーンを頼むよ」
「はぁ~い!」
三人で並べた皿に卵が取り分けられ、スープの鍋も運ばれてきた。
「ほら、リナ。腕、引っ込めな。熱いよ」
「わっ! ごめ~ん、メイラさん」
メイラさんが僕の隣に座り、ルートがスープをよそう。
向かいのリナは、目の前の卵に夢中だった。
「リナ、よだれ垂れてるよ」
「ん~……? あっ!」
慌てて口を拭い、照れたように笑う。
「えへへ~……お腹、ぺこぺこで~」
メイラさんが優しく目を細めた。
「ふふ。揃ったね。じゃあ、食べようか」
「「いただきます」」
「いただきま~す」
パンをスープに浸して、一口食べる。
野菜が柔らかく煮えていて、噛むと甘かった。
「どうだい、今日のは」
「おいしいです。野菜、いつもと違う?」
「昨日、安く手に入ったんだ」
ルートが、スプーンの上の野菜を眺めた。
「煮込むと、こんなに味が変わるんですね」
「生のまま齧ったの?」
「はい。味を知っておきたくて、少しだけ」
メイラさんが笑った。
「熱心だねえ。次は切る前に言いな。齧った跡を避けるの、面倒なんだから」
「……すみません」
「それで昨日、厨房にいたんだ」
僕が言うと、ルートはこちらを向いた。
「手伝いもしていましたよ。味見だけじゃありません」
「私は、メイラさんが作ってくれたの、食べる方がいいな~」
「リナは嬉しいこと言うね」
リナは卵を口に運び、幸せそうに目を細めた。
「ん~……おいしい~!」
ルートも少し笑って、スープを口に運んだ。
「今日は三人とも、どうするんだい?」
メイラさんが僕たちを見回すと、ルートがスプーンを置いた。
「僕は特に予定がないので、食堂を手伝おうと思っています」
「じゃあ、私もルートくんと一緒に手伝う~」
リナが元気よく手を挙げる。
「そうかい? なら、今日は二人に手伝ってもらおうかな」
「はい。よろしくお願いします」
頷いたルートから、メイラさんが僕へ目を移した。
「レイは今日、どうするんだい?」
「少し、街に出てきます」
「そうかい。昼もここで食べるかい?」
「まだ、わからないです。僕の分は用意しなくていいよ」
「帰ってきて腹が減ってたら言いな。何かしらあるから」
「……ありがとうございます」
どこに行くのかは、聞かれなかった。
僕もそれ以上は話さず、スープを飲んだ。
「ねぇ~、メイラさん。パン、もう一個もらってもいい~?」
「籠にある分は食べていいよ。スープも残すんじゃないよ」
「うん! スープも、ぜんぶ食べるよ~」
嬉しそうにパンを選ぶリナを見て、僕も籠へ手を伸ばした。
食べ終えたら、会いに行かないと。
……みんなに。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。Ruruです。
冒頭では、レイが家族を大好きだということが伝わるように書きました。
獲物を見せたら、どんな顔をしてくれるだろう。褒めてくれるだろうか。でも、妹はかわいそうだと泣いてしまうかもしれない。嬉しいときに自然と家族の顔が浮かぶ、家族思いな少年でした。
そして、宿で暮らすルートとリナ。
ルートは礼儀正しいしっかり者ですが、気になった野菜をそのまま齧ってしまうような、少し抜けたところもあります。本人はいたって真面目です。
リナはのんびり、ゆるふわ。朝はなかなか起きられなくても、おいしいごはんには目がありません。この二人の性格は、朝のやり取りから感じてもらえたら嬉しいです。
次回、朝食を終えたレイが向かう場所はどこなのか。「会いに行く」と言っていた相手は一体誰なのか。
その続きをお届けします。




