刻まれた名前
教会の前まで来ると、三人は足を止めた。
近くで見ると、想像していたよりも大きな建物だった。
壁はところどころ黒ずみ、窓ガラスには細かなひびが入っている。
入口へ続く石畳も、長い年月の間に雑草に覆われていた。
「……本当に古いな」
祐希が教会を見上げる。
「昔から、このままなんですかね?」
咲が尋ねる。
蓮は周囲を見渡した。
「俺が島にいた頃も、ほとんど変わってなかったと思う」
「蓮先輩、ここに入ったことは?」
「ない」
「一度も?」
「うん」
蓮は教会を見つめる。
「子どもの頃から、入っちゃいけないって言われてた」
「誰にですか?」
「みんなに」
「みんな?」
「近所の大人とか……」
蓮は少し考える。
「悟も、この場所だけは嫌がってた」
その言葉に、祐希が反応した。
「悟も?」
「ああ」
「じゃあ、昔から何か知ってたのか?」
「分からない」
蓮は首を横に振る。
「悟は何も言わなかった」
三人は教会の扉の前に立った。
扉は錆びている。
祐希が取っ手を握る。
「開くか?」
「待ってください」
蓮が止める。
「壊したらまずいですよ」
「別に開けるだけだろ」
「だから、その開け方が問題なんです」
「……細かいな、蓮」
「祐希くんが雑なんですよ」
「お前、たまに俺にだけ厳しくねえか?」
「気のせいです」
咲が二人を見て笑う。
「ふふっ」
「咲ちゃんまで……」
三人は結局、正面の扉を諦めて教会の裏へ回った。
裏手には、古い墓地があった。
墓石はほとんどが苔に覆われている。
風雨にさらされ続けたせいか、表面はひどく削れていた。
刻まれている文字も、現在使われている文字とは少し違って見える。
古い字体。
ところどころ欠けていて、何と書いてあるのか簡単には読み取れない。
「……ここ、墓地だったんですね」
咲が小さな声で言う。
「みたいだな」
蓮が答える。
祐希が近くの墓石に顔を近づけた。
「これ……何て書いてあるんだ?」
「分かりませんね……」
咲も覗き込む。
蓮は別の墓石へ目を向けた。
古い文字の中に、かろうじて読める文字がある。
「……不死川」
「え?」
咲が振り返る。
蓮は墓石を指差した。
「ここ」
苔を軽く払う。
そこには、古い字体で刻まれた四文字。
――不死川。
文字は深く刻まれているものの、長い年月によってところどころ削れていた。
「不死川……」
祐希が呟く。
「名字ですよね?」
咲が尋ねる。
「たぶん」
蓮は答えながら、周囲を見渡した。
少し離れた場所に、もう一つ古い墓石がある。
蓮が近づく。
苔を払い、目を凝らす。
「……常盤」
「常盤?」
祐希が眉をひそめる。
「これも名字なのか?」
「分からない。でも……」
蓮は二つの墓石を交互に見る。
――不死川。
――常盤。
どちらも、この島では聞き慣れない名前だった。
「他にも何か書いてあるぞ」
祐希が別の墓石を指差す。
そこには、
田中。
佐伯。
森川。
高橋。
山下。
小川。
藤本。
そして――
少し離れた墓石に、別の古い文字が刻まれていた。
「……これ」
蓮が目を細める。
「何て読むんだ?」
祐希が覗き込む。
苔を払い、何度か文字をなぞる。
「……一ノ瀬、かな」
「一ノ瀬?」
咲が反応した。
三人の間に、一瞬の沈黙が落ちる。
今まで見てきた墓石とは違い、その名前だけが妙に鮮明に目に入った。
「……一ノ瀬先生と同じ名前ですね」
咲が呟く。
「まあ、同じ名字なんて珍しくないだろ」
祐希はそう言った。
蓮も頷く。
「……そうだな」
そう答えながらも、蓮は墓石から目を離せなかった。
古い墓。
古い文字。
そして――
自分たちが知っている人物と同じ名前。
ただの偶然なのか。
それとも――。
「……そろそろ行こうぜ」
祐希が立ち上がった。
三人は墓地を後にする。
しかし、蓮だけは何度も振り返った。
――不死川。
――常盤。
――一ノ瀬。
どれも、今の蓮には意味の分からない名前だった。
それなのに。
なぜか、その三つの名前だけが頭から離れなかった。
三人は教会の正面へ戻った。
大きな木製の扉。
黒ずんだ表面には、無数の傷が残っている。
蓮が扉の前に立つ。
「……開くかな」
「やってみましょう」
咲が後ろから言う。
祐希は甲冑を抱えたまま周囲を警戒している。
「何かあったら俺が――」
「甲冑は置いてくださいね」
「まだ言うか」
蓮は苦笑した。
そして、扉の取っ手に手を伸ばす。
指先が触れた。
その瞬間――
「やめろ」
低い声が響いた。
三人の動きが止まる。
「……え?」
蓮が振り返る。
教会へ続く道。
そこに、一人の男が立っていた。
白衣を着ている。
見覚えのある顔。
「……一ノ瀬先生?」
咲が呟く。
一ノ瀬透だった。
悟の葬儀の日。
そして、悟の目が紫色になった瞬間に蓮を止めた医者。
一ノ瀬は三人をじっと見つめていた。
その表情に、いつもの穏やかさはない。
「どうして……先生がここに?」
蓮が尋ねる。
一ノ瀬は答えなかった。
ただ、教会の扉を見る。
そして再び蓮を見る。
「そこから離れろ」
「……どうしてですか?」
「いいから」
一ノ瀬の声は低かった。
蓮は扉から手を離さない。
「先生は、この教会について何か知ってるんですか?」
一ノ瀬の表情がわずかに変わった。
「……知らない」
「嘘ですよね」
蓮の言葉に、一ノ瀬は黙る。
「悟のときもそうでした」
蓮は一歩近づいた。
「先生は何か知っていた」
「……」
「『今見たものは、忘れろ』って言いましたよね」
咲と祐希も、一ノ瀬を見つめている。
一ノ瀬はしばらく黙っていた。
そして――
「……お前たちは、何も知らなくていい」
その声には、わずかな震えがあった。
「だから、帰れ」
「嫌です」
蓮は即答した。
「俺は、悟がなぜ死んだのか知りたい」
一ノ瀬の目が細くなる。
「それに……」
蓮は胸元の鍵に触れた。
「七年前に消えた女の子のことも、調べたい」
一ノ瀬は、何かを言おうとして――
口を閉じる。
「……帰れ」
今度の声は、先ほどよりも弱かった。
そして一ノ瀬は、教会の扉を見た。
まるで――
その中に何かがいることを恐れているかのように。
蓮は扉を見る。
古い木製の扉。
その向こうには、何があるのか。
一ノ瀬はなぜ、ここまでして自分たちを止めるのか。
そして――
この鍵は、いったい何のためのものなのか。
蓮はもう一度、扉に目を向けた。
扉の向こうから、
ほんの一瞬。
何かが擦れるような音が聞こえた。
「……今の、何?」
咲が小さく呟く。
三人は息を止めた。
一ノ瀬だけが――
その音を聞いた瞬間、
明らかに怯えた顔をしていた。




