悪魔が残したもの
教会の中に、火の手が回り始めていた。
祭壇の近くを照らしていた蝋燭は、とうに倒れている。壁を這う炎は、まるで獲物を見つけた獣のように勢いを増し、天井へと伸びていった。
パキンッ!
突然、頭上で鋭い音が響いた。
ステンドグラスに亀裂が走り、無数の破片が床へと降り注ぐ。
それでも、祐希と正樹は動かなかった。
二人はただ、目の前で起きたことを理解できずにいた。
祐希の手から、拳銃が滑り落ちる。
乾いた音が、燃え盛る教会に響いた。
「……なんでだよ」
祐希の声は震えていた。
「なんで……お前が……」
正樹もまた、言葉を失っていた。
自分を庇い、銃弾を受けた男。
幼い頃から厳しい訓練を課し、戦うための人間として育て上げた男。
その男が、今、自分の目の前で倒れている。
風見蓮次。
誰よりも戦いを楽しみ、誰よりも人を翻弄し、何を考えているのかさえ分からなかった男。
そんな男が、最後の瞬間に選んだのは、自分の命を差し出すことだった。
「……蓮次?」
俺は膝をつき、蓮次の身体を抱き起こした。
返事はない。
いつものように、ふざけた笑顔を浮かべることもない。
「おい……蓮次」
肩を揺すっても、反応はなかった。
俺は震える手で、蓮次の身体に触れた。
その瞬間、視界が歪んだ。
――記憶が流れ込んでくる。
*
「遅い! もう一度だ!」
木刀が、容赦なく振り下ろされた。
「ぐっ……!」
幼い蓮次は地面に倒れ込んだ。
目の前に立っているのは、高尾正樹だった。
「その程度で倒れるな。戦場では、一度倒れれば終わりだ」
「……はい!」
「立て!」
正樹の声が響く。
蓮次は泥だらけの身体を起こし、再び木刀を構えた。
何度倒されても、何度打ちのめされても、蓮次は立ち上がった。
正樹は一切手加減をしなかった。
腕が上がらなくなっても、足が震えても、訓練が終わることはない。
普通なら、恨んでもおかしくない。
逃げ出してもおかしくない。
それなのに。
「……へへっ」
蓮次は笑っていた。
「何がおかしい?」
正樹が眉をひそめる。
「いやぁ、高尾ちゃんて、本当に容赦ないなぁって♪」
「ふざけるな。構えろ」
「はーい♪」
蓮次は嬉しそうに木刀を握り直した。
その笑顔には、恐怖も憎しみもなかった。
ただ、目の前の男に認められたい。
その一心で、何度でも立ち上がっていた。
*
記憶が切り替わる。
今度は、つい先ほどの光景だった。
教会へ向かう山道。
燃え始めた山を背に、俺たち四人は歩いていた。
祐希先輩と咲が前を歩き、俺と蓮次が少し後ろを歩いていた。
「いやぁ、まさか俺がこんな連中と一緒に行動することになるとはねぇ♪」
蓮次はいつもの調子で笑っていた。
「蓮ちゃん、これからどうするつもり?」
「正樹さんを止める。それだけだ」
「そっかぁ♪」
蓮次は空を見上げた。
燃え上がる山の向こうには、赤く染まった夜空が広がっていた。
しばらくして、蓮次は俺たちに聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……やっと友達ができたよ♪」
そして、誰かに語りかけるように、もう一度。
「……親父♪」
その声は、いつものふざけた調子とは少し違っていた。
どこか嬉しそうで。
どこか、寂しそうだった。
*
――現実に引き戻される。
目の前には、もう笑わない蓮次がいた。
「……そうか」
蓮は小さく呟いた。
蓮次が正樹を庇った理由。
あいつが最後に口にした「親父」という言葉。
その意味を、ようやく理解した気がした。
蓮次にとって正樹は、ただの上官ではなかった。
厳しく鍛え上げられ、道具のように扱われていたとしても。
それでも、蓮次にとっては父親に近い存在だったのだ。
そして、あいつは最後に、俺たちのことを友達と呼んだ。
「……馬鹿野郎」
声が掠れた。
「お前……勝手に友達なんか作って、勝手に死ぬなよ……」
返事はない。
蓮はそっと手を伸ばし、蓮次の目を閉じた。
その顔は、不思議なくらい穏やかだった。
いつも浮かべていた不気味な笑みも、今は消えている。
蓮は、何が正しいのか分からなくなっていた。
正樹を止めるために、俺たちはここまで来た。
誰かを犠牲にする研究を終わらせるために。
大切な人たちを守るために。
そのために、蓮は戦ってきたはずだった。
それなのに。
正樹を止めようとした蓮たちの目の前で、蓮次は正樹を庇って死んだ。
正樹を憎みながらも、最後にはその命を救った。
蓮には、あいつの選択を否定することも、肯定することもできなかった。
ただ、悔しかった。
何もできなかった自分が。
*
ゴオオオオッ!
炎が天井を舐め、教会全体が大きく軋んだ。
壁際の木材が崩れ、火の粉が舞い上がる。
「……蓮先輩」
咲の声が聞こえた。
振り返ると、咲は唇を噛み締め、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
祐希先輩は拳を握り締めたまま、俯いている。
そして正樹は、蓮次の亡骸を見つめたまま、微動だにしなかった。
そのときだった。
教会の入口から、複数の足音が響いた。
ダダダダダッ!
続いて、銃声。
俺たちは一斉に入口へと顔を向けた。
「動くな!」
銃を構えた自衛隊員たちが、次々と教会へなだれ込んでくる。
その先頭にいたのは、律と狂介だった。
二人とも、身体のあちこちに傷を負っていた。
先ほどの戦闘で受けた傷だろう。
それでも、律の目にはいつもの冷徹さが宿り、狂介の口元には不気味な笑みが浮かんでいた。
律は周囲を見渡し、やがて正樹の姿を見つけた。
「高尾司令官……何があったんですか?」
正樹は答えなかった。
律の視線が、床に横たわる蓮次へと移る。
一瞬だけ、その表情が揺れた。
「……蓮次?」
狂介も笑みを消し、蓮次を見つめた。
しかし、二人が何かを口にする前に、正樹がゆっくりと顔を上げた。
その目が、俺たちを捉える。
「……お前たち」
低く、押し殺した声だった。
「お前たちが……何をした!」
次の瞬間。
正樹は、律の持っていた拳銃を奪い取るように受け取った。
銃口が、真っ直ぐ俺へと向けられる。
「蓮!」
咲の叫び声が響いた。
パンッ!
銃声が、燃え盛る教会を震わせた。
俺は咄嗟に身を動かした。
だが、銃弾はすでに放たれていた。
――避けられない。




