燃えゆく島
燃え盛る山を前に、四人はしばらく言葉を失っていた。
木々を呑み込む炎。夜空を覆い尽くす黒煙。風に乗って運ばれてくる、鼻を刺すような焦げ臭さ。
それは、山火事という言葉だけでは片づけられないほどの光景だった。
「……正樹さんは、間違いなく教会に向かっているはずだ」
最初に口を開いたのは蓮だった。
「一ノ瀬先生から、知っていることを全部吐かせるために」
地下施設に囚われていた一ノ瀬透。
悟を殺したこと。そして、咲が生きていることを隠していたこと。
彼は、この研究に関する重要な秘密をいくつも握っている。
正樹がそれを放っておくはずがなかった。
「でも、あの山……」
咲は燃え続ける山を見つめた。
「まさか、本当に島ごと燃やすつもりなの……?」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
少し前、正樹は電話の向こうにいる相手から、研究を完成させられなければ島を焼き払い、住民全員を実験にかけるという命令を受けていた。
あの炎は、その命令に従った結果なのだろうか。
それとも、別の何かが起きているのか。
今の四人には判断できなかった。
「……考えていても仕方がない。教会へ向かおう」
蓮がそう告げると、祐希も小さく頷いた。
「ああ。親父が何をしようとしているのか、直接確かめる」
「その前にさぁ」
蓮次が、四人の姿を上から下まで眺めた。
「みんな、ひどい格好だねぇ♪」
「……は?」
「いやいや、だってボロボロじゃん。服は破れてるし、泥だらけだし。こんな格好で教会に乗り込んだら、正樹ちゃんより先に化け物扱いされちゃうよ?」
「お前にだけは言われたくない」
蓮は即座に言い返した。
蓮次の迷彩服も、これまでの戦闘でずいぶん傷んでいる。しかも、左腕は失われたままだ。
「えー、ボクはほら、個性的だから♪」
「便利な言葉だな……」
祐希が呆れたように呟く。
しかし、蓮次の指摘はもっともだった。
四人とも、基地からの脱出と度重なる戦闘で、服はひどく汚れ、あちこちが破れていた。
このまま教会へ向かったところで、まともに動ける状態ではない。
「……一度、小屋に戻ろう」
蓮が提案した。
「以前、隠れ家にしていた小屋だ。あそこなら、着替えが残っているはずだ」
「分かった。長居はできないけどな」
祐希が答え、四人は山道を外れて、小屋へと向かった。
*
小屋は、以前と変わらない姿でそこにあった。
木々に囲まれ、人目につきにくい場所に建てられた、小さな建物。
基地に潜入する前に身を隠すために使った場所だった。
扉を開けると、古い木材の匂いが鼻をくすぐる。
「なんかいいね♪ もう、ここでみんなで仲良く暮らせばいいんじゃない?」
「お前は黙ってろ」
「ひどいなぁ、蓮ちゃん♪」
軽口を叩きながらも、蓮次は室内を確認した。
蓮たちはそれぞれ荷物を探し、置いてあった服を取り出す。
汚れた上着を脱ぎ、破れた服を着替える。咲も奥のスペースで身なりを整えた。
ようやく、四人は元の格好に戻った。
少なくとも、見た目だけなら先ほどまでの惨状を忘れられそうだった。
「……よし。行こう」
着替えを終えた蓮が、そう声をかける。
そのとき、蓮次が迷彩服の上着を脱ぎ始めた。
「んー、さすがに暑苦しいねぇ。これ、もういらないかな♪」
上着を無造作に放り、肩を回す。
失われた左腕の袖は、空っぽのままだった。
その姿を見た祐希が、わずかに眉をひそめる。
「……その腕、本当に生えてこないんだな」
「そうだねぇ。傷は治るんだけど、なくなったものまでは戻らないみたい♪」
蓮次は、まるで他人事のように笑った。
「ま、片腕でも困らないけどね。祐希ちゃんよりは役に立つし?」
「てめぇ、まだ言うか!」
「元気になったねぇ。よかったよかった♪」
「誰のせいだと思ってんだ!」
また始まった二人のやり取りに、蓮は深いため息をついた。
「……本当に、緊張感がないな」
「蓮先輩、でも……」
咲が、少しだけ微笑んだ。
「さっきより、みんなの顔が明るくなった気がします」
「……そうかもな」
蓮は、咲の言葉に小さく頷いた。
これから向かう先には、正樹がいる。
何が起きるか分からない。無事に帰れる保証もない。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
蓮は小屋の扉を開け、外へと出た。
燃え盛る山は、少し離れた場所からでもはっきりと見えた。
炎は弱まる気配を見せず、夜空を赤く染め続けている。
あの炎の下に、島で暮らしてきた人々がいる。
自分たちの知らないところで、何かが起きているのかもしれない。
そして、そのすべてに正樹が関わっている可能性があった。
「行こう」
蓮の声に、三人が続く。
祐希は父親を止めるために。
咲は、母である千鶴と自分の過去に隠された真実を知るために。
蓮次は、何を考えているのか分からない笑みを浮かべたまま。
そして蓮は、すべてを終わらせるために。
四人は山道を進み、教会へと足を向けた。
しばらく歩いたところで、咲が隣を歩く蓮次に声をかけた。
「あの、蓮次さん」
「んー? なぁに、咲ちゃん♪」
「蓮次さんって……いい人ですね」
「…………は?」
蓮次の足が、ぴたりと止まった。
あまりにも予想外の言葉だったのだろう。いつも浮かべている笑みさえ、一瞬だけ消えていた。
「だって、私たちのことを気にかけてくれたり、落ち込んでいる祐希先輩に声をかけてくれたり……。言い方は少しきついですけど、本当は優しい人なんじゃないかなって」
咲は、少し恥ずかしそうに笑った。
「私には、悪い人には見えません」
蓮次はしばらく咲を見つめていた。
やがて、いつもの笑みを取り戻す。
けれど、その目には先ほどまでとは違う、妙な光が宿っていた。
「……ねえ、咲ちゃん」
「はい?」
「もし、千鶴おばさんが死んでたら、どうする?」
「……え?」
咲の表情が凍りついた。
母のこと。
あのとき、蓮次に刺された千鶴のこと。
生きているかもしれない。けれど、本当に生きているという確証は、まだどこにもなかった。
「な、なんで今そんなことを……」
「あはは、ごめんごめん♪ 冗談だよ。本当に生きてるから」
「……っ!」
咲は思わず息を呑んだ。
蓮次は、まるで何でもないことのように前を向く。
「ただねぇ、咲ちゃん。いい人って、その人にとって都合のいい人のことを言うんだよ」
「都合のいい人……?」
「そう。国や高尾っちからすれば、研究を止めようとしてるボクたちは極悪人ってわけ。向こうには向こうの正義がある。自分たちの目的を邪魔する奴は、悪い奴なんだよ。それに僕がいつ裏切るかわからないかもよ?♪」
燃える山を横目に、蓮次は続けた。
「まぁ、みんながみんな、同じ考えになるわけじゃない。大切にしてるものも、守りたいものも違う。だから対立するんでしょ」
その口調には、いつものふざけた調子がなかった。
「まあ、それが人間の面白みなんだと、ボクは思うけどね♪」
蓮次は笑った。
その笑顔は、普段と何も変わらない。
けれど、その奥にあるものは、咲には見えなかった。
「それにさぁ、ボクは正直、自分に関係ない人間がどうなろうと興味ないんだよね」
「……!」
「知らない誰かが死のうが、泣こうが、苦しもうが。ボクに関係なければ、どうでもいい。そういう人間なんだよ、ボクは」
蓮次は、咲の顔を覗き込んだ。
「ねえ。これを聞いても、ボクのことをいい人だと思う?」
咲はすぐには答えなかった。
蓮次の言葉を、頭の中でゆっくりと反芻する。
確かに、彼は優しい人間とは言い難いのかもしれない。
平気で人を傷つけるようなことを言うし、戦いを楽しむ。自分に関係のない人間の命には、ほとんど関心を示さない。
それでも。
咲は、目の前の男が自分たちにしてくれたことを思い返した。
蓮と戦い、負けたにもかかわらず、彼は自分たちに手を貸している。
危険な基地の中で、何度も軽口を叩きながら、前へ進む道を切り開いてくれた。
祐希が落ち込んだときには、あんな乱暴な方法であっても、立ち上がるきっかけを与えてくれた。
そして何より、千鶴の生存についても、彼は咲にとって大切なことを教えてくれた。
咲は、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうですね」
「ん?」
「蓮次さんは、私にとって都合のいい人です」
「…………」
「そして、優しい人です」
蓮次は、ぽかんと口を開けた。
何かを言い返そうとしたのか、唇がわずかに動く。
しかし、言葉は出てこなかった。
今まで、彼は何度も悪魔と呼ばれてきた。
人を傷つけることを楽しみ、命を軽んじる。まともな人間ではないと、周囲から見なされてきた。
それを否定するつもりもなかった。
自分自身、善人だと思ったことなど一度もない。
誰かに理解してほしいとも、認めてほしいとも思わなかった。
だからこそ、咲の言葉は予想外だった。
彼女は、自分の話を聞いたうえで、優しい人だと言った。
無理に善人だと決めつけたわけでもない。
自分の身に都合がいいからという、身勝手な理由を認めたうえで、それでも優しいと言ってくれた。
「……へえ」
蓮次は、ようやく声を絞り出した。
「咲ちゃんって、変わってるねぇ」
「そうでしょうか?」
「うん。相当ね♪」
いつもの調子で笑ってみせる。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
蓮次は咲から視線を逸らし、わざとらしく手を叩いた。
「それよりさぁ!」
「えっ?」
「咲ちゃん、蓮ちゃんにいつ告白するの?」
「――っ!?」
咲の顔が、一瞬にして真っ赤に染まった。
「な、ななな、何を言ってるんですか!」
「えー? だって、好きなんでしょ?」
「そ、それは……!」
「ずっと蓮ちゃんのこと気にしてるし、蓮ちゃんが危ないときなんか、すっごい顔するじゃん♪ 分かりやすいよねぇ」
「や、やめてください!」
咲は両手で顔を覆った。
耳まで真っ赤になっている。
「やっぱり、さっきの言葉は撤回です!」
「ん?」
「蓮次さんは、悪い人です!」
蓮次は、とうとう堪えきれずに吹き出した。
「あはははは! なにそれ! ひどいなぁ、咲ちゃん♪」
「笑わないでください!」
「いやぁ、ごめんごめん♪ でも、そっちのほうが咲ちゃんらしいねぇ」
「もう知りません!」
咲はぷいっと顔を背け、足早に歩き始めた。
その後ろ姿を見ながら、蓮次は楽しそうに笑っていた。
「……何をやってるんだ、あいつら」
少し離れたところを歩いていた祐希が、呆れた声を漏らす。
そして、隣にいた蓮の肩を軽く叩いた。
「なあ、蓮」
「……なんですか、祐希先輩」
「なんか、あの二人、仲よさそうだな」
「は?」
蓮が振り返る。
祐希は、ニヤニヤしながら咲と蓮次を見ていた。
「いやぁ、咲も蓮次にはずいぶん心を開いてるみたいだし。あいつ、案外いい奴なのかもな」
「……別に、仲がいいわけじゃないでしょう」
「そうか? 楽しそうじゃん」
「……祐希先輩」
「ん?」
「うるさいです」
蓮は、ほんの少しだけ頬を膨らませ、顔を背けた。
「おっ?」
祐希の口元が、さらに緩む。
「お前、もしかして妬いてんの?」
「妬いてません!」
「まだ何も言ってないだろ!」
「……っ!」
蓮は、ますます不機嫌そうな顔になった。
そんな二人の様子を見て、蓮次は再び声を上げて笑う。
「いやぁ、いいねぇ! 青春だねぇ♪」
「蓮次、お前は黙ってろ!この悪魔!」
「はいはい♪」
咲は顔を赤くしたまま、蓮の隣へと戻ってきた。
蓮は彼女と目が合いそうになり、慌てて前を向く。
咲もまた、何か言いたそうにしながら、結局何も口にしなかった。
ほんのわずかな時間。
燃え盛る山も、正樹の企みも、これから向かう教会で待ち受けているものも、忘れてしまいそうになるほどの時間だった。
しかし、遠くから響く木々の爆ぜる音が、四人を現実へと引き戻す。
山は、今も燃えている。
島を襲う異変の理由は、まだ分からない。
正樹は教会で何を知ろうとしているのか。
一ノ瀬透は、何を語るのか。
そして、千鶴は本当に生きているのか。
答えを知るためには、進むしかなかった。
「……急ごう」
蓮が静かに告げる。
「ああ」
祐希が頷いた。
「はい、蓮先輩」
咲も顔を引き締める。
「了解♪ さあて、正樹ちゃんはどんな顔で迎えてくれるのかなぁ」
蓮次は、いつもの不気味な笑みを浮かべた。
四人は再び歩き始める。
燃えゆく島の夜。
その先に待つのは、救いか。それとも、さらなる絶望か。
――教会は、もうすぐそこだった。




