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Myosotis 〜すべてを忘れるために〜  作者: こんにゃくミ(こんにゃイカ)


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死線の果てに

挿絵(By みてみん)

赤い警告灯が、廊下を不気味に照らしていた。


 柊木律は銃口を蓮へ向け、雨宮狂介は蓮次を見つめながら、狂気じみた笑みを浮かべている。


「さて……どうする? 蓮次」


 狂介が舌なめずりをした。


「お前の腕、ずいぶん寂しくなっちまったなぁ。以前なら、こんな状況でも余裕だっただろ?」


「いやぁ、まさか左腕を失うとは思わなかったよ♪」


 蓮次は右手をひらひらと振った。


「でも、片腕でも戦えないわけじゃないからねぇ」


「ははっ! 最高じゃねえか!」


 狂介が笑い声を上げた。


「そういう強がり、大好きだぜ!」


 一方、律は蓮次には目もくれず、蓮だけを見据えていた。


「お前が風見蓮次を裏切らせた人間か」


「裏切らせたっていうか……本人が勝手にこっちについただけだ」


「言い訳は必要ない。命令違反者と、その協力者。排除対象は明確だ」


 律は銃を構え直した。


「抵抗するなら、容赦はしない」


「……そうかよ」


 蓮は静かに息を吐いた。


 背後では、祐希が咲をかばうように立っている。


「蓮! 無茶するなよ!」


「わかってる、祐希先輩!」


 蓮は返事をしながら、律から目を離さなかった。


 銃を持つ相手に、どう接近するか。


 それが最初の問題だった。


 そして、もう一つ。


 自分の中にある、この白銀の刃。


 前回は無我夢中で振るった。


 だが、今度は違う。


 使いこなせなければ、死ぬ。


「……来いよ」


 蓮が呟いた。


 律の目が、わずかに細くなる。


「了解した」


 次の瞬間だった。


 パンッ!


 銃声が響いた。


 蓮は反射的に横へ飛び退いた。


 弾丸が頬をかすめ、背後の壁に穴を開ける。


 間髪入れず、二発目。


 三発目。


 律は一切の無駄なく、蓮の逃げ道を塞ぐように銃弾を放ってくる。


「くっ……!」


 蓮は床を蹴り、壁際へ身を投げた。


 銃弾がすぐそばを通り過ぎる。


 反撃する隙がない。


 律は冷静に距離を保ち、蓮が動く先を予測して撃っていた。


「無駄な抵抗だ」


 律が淡々と告げる。


「お前の動きは単純だ。回避の方向も、攻撃に転じるタイミングも読める」


「……だったら!」


 蓮は床を蹴った。


 正面から律へ突っ込む。


「愚かな選択だ」


 律の銃口が、蓮の胸元を捉えた。


 引き金に指がかかる。


 その瞬間――。


 蓮の両手が、白銀の光を放った。


 キィンッ!


 両手に現れたのは、短い二本の刃。


 蓮は身体をひねり、銃口の向きをわずかに逸らした。


 銃声が響く。


 弾丸は蓮の肩をかすめた。


 だが、蓮は止まらない。


「なっ……!」


 律の目が初めて見開かれた。


 蓮の右手の刃が、銃身を弾き飛ばす。


 左手の刃が、律の首元へ迫った。


 しかし、律もただ者ではなかった。


 銃を手放すと同時に身体を沈め、蓮の斬撃を紙一重でかわす。


 そのまま蓮の腹部へ鋭い蹴りを叩き込んだ。


「ぐっ……!」


 蓮の身体が後方へ吹き飛ぶ。


 床を転がりながらも、どうにか体勢を立て直した。


 律はすぐさま距離を詰めてきた。


 銃を失っても、動きに迷いはない。


 拳、肘、膝。


 無駄のない連撃が、蓮を追い詰めていく。


 蓮は二本の刃で受け流し、反撃の機会をうかがった。


 だが、律の攻撃は正確だった。


 一撃ごとに蓮の体勢を崩し、次の攻撃へとつなげてくる。


 まるで機械のような戦い方だった。


「お前には、戦う理由があるのか?」


 律が攻撃の合間に問いかけた。


「……何?」


「命令に逆らい、仲間を裏切り、命を危険にさらす。それだけの価値が、あの三人にあるのか」


「……あるに決まってるだろ」


 蓮は歯を食いしばった。


「俺は、あいつらを守るって決めたんだ」


「感情で判断するな」


「感情があるから、守りたいものができるんだろうが!」


 蓮は刃を交差させ、律の拳を受け止めた。


 火花が散る。


 互いの力が拮抗し、二人の動きが一瞬だけ止まった。


「……理解できない」


 律の声には、何の感情もなかった。


「理解してもらう必要はない!」


 蓮は力任せに律を押し返した。


 しかし、律は後退しながら体勢を整え、すぐに攻撃へ転じる。


 再び、激しい攻防が始まった。


 その頃、廊下の反対側では――。


「ほらほら、どうした蓮次!」


 狂介が笑いながら、ナイフを振り下ろしていた。

挿絵(By みてみん)


 蓮次は身体をひねってかわす。


 刃が制服を裂き、壁に火花を散らした。


「昔はもっと速かっただろ? もっと楽しませてくれよ!」


「いやぁ、注文が多いなぁ♪」


 蓮次は笑って返したが、その額には汗が浮かんでいた。


 左腕がない。


 それは、想像以上に大きな不利だった。


 以前なら両腕で受け止められた攻撃も、今はすべて避けなければならない。


 狂介はそこを理解していた。


 わざと攻撃の間隔を変え、蓮次が右手を使う瞬間を狙ってくる。


 さらに、狂介は戦いを楽しんでいた。


 相手が苦しむほど、傷つくほど、笑みが深くなる。


「いいねぇ! その顔だよ、蓮次!」


 狂介がナイフを突き出した。


 蓮次は身体をひねったが、刃が脇腹を切り裂いた。


「っ……!」


 血が飛び散る。


 それでも、蓮次は笑っていた。


「狂ちゃんって、本当に趣味が悪いよねぇ♪」


「お前に言われたくねえな!」


 狂介はナイフを引き、再び襲いかかった。


 蓮次は後退する。


 だが、背後には壁が迫っていた。


 逃げ場がない。


「終わりだ、蓮次!」


 狂介の刃が、蓮次の胸元へ迫る。


 その瞬間、蓮次はあえて右手を差し出した。


 刃が手のひらを貫く。


「……っ!」


 狂介の目が輝いた。


「ははっ! 自分から刺されに来たか!」


「うん。ちょっとね♪」


 蓮次は、狂介の右手首を掴んだ。


 そして、身体をひねる。


 狂介が踏み込んだ勢いを利用し、ナイフを持つ腕を外側へ引き込んだ。


 同時に、蓮次は頭突きを叩き込む。


「がっ……!」


 狂介の身体がぐらついた。


 蓮次はその隙に、狂介の手首を捻り上げる。


 ナイフが床に落ちた。


「ほら、武器がなくなっちゃったよ♪」


「この野郎……!」


 狂介は笑いながら、蓮次の顔面に拳を叩き込んだ。


 蓮次の身体が壁に激突する。


 それでも、狂介の笑みは消えなかった。


「最高だ! 最高だよ、蓮次!」


 狂介は拳を振り上げた。


「もっとだ! もっと俺を楽しませろ!」


 蓮次は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


 傷口は塞がり始めている。


 だが、失った左腕は戻らない。


 このまま正面から戦えば、いずれ押し切られる。


 蓮次は狂介の動きを観察した。


 攻撃の癖。


 踏み込む距離。


 相手が反撃を受けたとき、必ず次の攻撃を急ぐこと。


 狂介は狂っている。


 だが、戦闘能力は本物だった。


 だからこそ、蓮次はその狂気を利用することにした。


「ねえ、狂ちゃん」


「あぁ?」


「昔から思ってたんだけどさ。君って、勝つことより相手を苦しめることのほうが好きだよね♪」


「……何が言いてえ?」


「別にぃ。ただ、そういうところがかわいいなって♪」


 狂介の表情が、一瞬だけ歪んだ。


「……てめえ」


 次の瞬間、狂介が突進した。


 狙いは蓮次の顔面。


 蓮次は、その攻撃を待っていた。


 ぎりぎりまで引きつけ、身体を横へずらす。


 狂介の拳が空を切った。


 蓮次はその背後へ回り込み、右足を払った。


 狂介の身体が傾く。


 さらに蓮次は、壁を蹴って身体を回転させ、全体重を乗せた蹴りを狂介の側頭部へ叩き込んだ。


「ぐっ……!」


 狂介が床に倒れ込む。


 蓮次はすぐさま距離を取った。


「……はぁ。やっぱり、片腕じゃ疲れるねぇ♪」


 しかし、勝負はまだ終わっていなかった。


 狂介はゆっくりと立ち上がった。


 その口元から血が流れている。


 それでも、彼は笑っていた。


「……いい。いいぞ、蓮次」


 狂介の目が、異様な光を帯びる。


「お前、やっぱり最高だ!」


 狂介は床に落ちていたナイフを拾い上げた。


「次で終わらせてやるよ!」


 再び、二人が激突した。


 一方、蓮と律の戦いも、限界に近づいていた。


 蓮の身体には、いくつもの傷が刻まれている。


 傷は徐々に塞がっていたが、痛みが消えるわけではない。


 律もまた、無傷ではなかった。


 腕や肩に浅い切り傷があり、制服の一部が裂けている。


 それでも、その動きに乱れはなかった。


「……お前、何者だ?」


 律が初めて、問いかけた。


「何者って……ただの教師だよ」


「ふざけるな」


 律の拳が飛んでくる。


 蓮は刃で受け流した。


「その能力。異常な回復力。普通の人間ではない」


「……そうだな」


 蓮は息を整えた。


「俺も、自分のことはまだ全部わかってない」


「ならば、なおさら危険だ。制御できない力を持つ者を、野放しにはできない」


「……だから、殺すのか?」


「必要ならば」


 律は迷いなく答えた。


 蓮は、その言葉に怒りを覚えた。


 目の前の男は、命令に従っているだけなのかもしれない。


 自分で考えることをやめ、与えられた規則を守ることだけを正義としている。


 だからこそ、彼は躊躇なく人を殺せる。


「……お前には、守りたいものはないのか?」


「質問の意図が理解できない」


「家族でも、友達でも、誰でもいい。失いたくないものはないのかって聞いてるんだ!」


「任務に私情は不要だ」


 律は淡々と答えた。


「命令を遂行する。それが俺の役割だ」


「……そうかよ」


 蓮は目を伏せた。


 そして、再び顔を上げる。


「なら、俺はお前を止める」


「できるものなら、やってみろ」


 律が踏み込んだ。


 拳が蓮の頬を打ち、続く膝蹴りが腹部に突き刺さる。


「ぐっ……!」


 蓮は後退した。


 律は間髪入れず、蓮の手首を掴んで捻り上げる。


 白銀の刃が、床へ向けられた。


「終わりだ」


 律は蓮の腕を固定し、もう片方の手で首元を狙った。


 蓮は必死に抵抗した。


 しかし、力では押し返せない。


 このままでは、刃を振るうこともできない。


 ――また、負けるのか。


 悪夢の中で、蓮次に何度も叩き伏せられた記憶が蘇る。


 力が足りない。


 速さが足りない。


 守りたいものがあるのに、何もできない。


 そんな自分を、もう見たくなかった。


「……違う」


 蓮は、低くつぶやいた。


「俺は……もう、逃げない!」


 その瞬間。


 白銀の光が、ひときわ強く輝いた。


 蓮の手にあった刃が、鋭い音を立てる。


 律の目が見開かれた。


「何……!?」


 蓮は、拘束されていた腕を無理やり動かした。


 刃が床をかすめ、火花が散る。


 律は反射的に手を離した。


 その一瞬を、蓮は見逃さなかった。


 右の刃で律の腕を弾き、左の刃を返す。


 律が後退する。


 蓮はさらに踏み込んだ。

挿絵(By みてみん)


 これまでとは違う。


 ただ速く振るうのではない。


 相手の動きを読み、最小限の動作で刃を届かせる。


 蓮次との戦いで感じた、あの圧倒的な速度。


 その感覚が、少しずつ自分のものになっていく。


「はあああっ!」


 蓮の二本の刃が、白銀の軌跡を描いた。


 律は身をひねってかわそうとした。


 しかし、わずかに遅かった。


 刃が律の銃を持つ手を弾き、銃が床を滑っていく。


 さらに蓮は、律の足元へ踏み込み、体勢を崩した。


 律が倒れ込む。


 蓮はその首元に、白銀の刃を突きつけた。


「……動くな」


 律は、初めて言葉を失った。


 その目が、蓮の顔を見つめる。


「……なぜだ」


「何がだ?」


「なぜ、俺を殺さない?」


 蓮は眉をひそめた。


「……殺す必要がないからだ」


「俺はお前を殺そうとした」


「それでもだ」


 蓮は刃を構えたまま答えた。


「俺たちの目的は、研究を止めることだ。お前を殺すことじゃない」


「……理解できない」


「理解できなくてもいい」


 蓮は静かに言った。


「でも、これ以上、誰も殺させない」


 律はしばらく黙っていた。


 やがて、その目から、ほんのわずかに力が抜けた。


 蓮は刃を消し、律の手から銃を遠ざけた。


「……お前の負けだ。もう戦うな」


 律は答えなかった。


 ただ、床に座り込んだまま、蓮を見上げていた。


 その表情は相変わらず無機質だったが、何かが変わったようにも見えた。


 その頃、蓮次と狂介の戦いにも決着がつこうとしていた。


「はぁ……はぁ……」


 蓮次の呼吸は荒くなっていた。


 右手にはナイフを握っている。


 いや、正確には、狂介から奪ったナイフだった。


 狂介もまた、肩で息をしていた。


 顔には血が流れ、制服はあちこち破れている。


 それでも、笑みだけは消えていなかった。


「どうした、蓮次……。もう終わりか?」


「……まさか」


 蓮次は笑った。


「これからが本番だよ♪」


「最高だ……!」


 狂介が突進する。


 蓮次は迎え撃った。


 ナイフとナイフがぶつかり、金属音が響き渡る。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 互いの刃が交差し、火花が散る。


 狂介は力任せに押し込もうとする。


 蓮次はそれを受け流し、身体をひねって攻撃をかわす。


 だが、左腕がない。


 防御の選択肢が限られている。


 狂介の刃が、蓮次の肩を切り裂いた。


「ぐっ……!」


 蓮次がよろめく。


 狂介はその隙を逃さなかった。


 ナイフを振り上げ、蓮次の胸元へ突き出す。


「終わりだぁ!」


 蓮次は、わずかに身体をずらした。


 刃が胸をかすめる。


 同時に、蓮次は狂介の手首を掴んだ。


「……捕まえた♪」


「なっ……!」


 蓮次は狂介の腕を引き込み、身体を回転させた。


 狂介が踏み込んだ勢いを利用する。


 そのまま背負うようにして投げ飛ばした。


 狂介の身体が床に叩きつけられる。


「がっ……!」


 蓮次はすぐさま、その腕を捻り上げた。


 ナイフが床に落ちる。


 狂介が抵抗しようとする。


 しかし、蓮次は体重をかけて押さえ込み、耳元で囁いた。


「狂ちゃん。君、楽しむことに夢中になりすぎなんだよ♪」


「……っ、離せ!」


「やだね♪」


 蓮次は狂介の腕をさらに固定した。


 関節が限界まで曲がり、狂介の動きが止まる。


「……降参する?」


「誰が……!」


 狂介が暴れようとした、その瞬間。


 蓮次は床に落ちていたナイフを足で遠ざけ、狂介の首元へ右手を添えた。


「これ以上やるなら、本当に終わらせるよ」


 その声から、いつもの軽さが消えていた。


 狂介は動きを止めた。


 しばらくの沈黙。


 やがて、狂介は喉の奥から笑い声を漏らした。


「……ははっ。ははははっ!」


 蓮次は眉をひそめる。


「何がおかしいのさ?」


「負けたよ……。俺の負けだ、蓮次!」


 狂介は笑いながら、両手を上げた。


「くそっ……最高だったぜ。まさかお前が、そんな戦い方をするとはな!」


「褒め言葉として受け取っておくよ♪」


 蓮次はようやく狂介の腕を離し、壁に背を預けた。


「……はぁ。疲れたぁ」


 そのとき、蓮が駆け寄ってきた。


「蓮次!」


「おっ、蓮ちゃん♪ そっちは終わった?」


「ああ。律は戦闘不能だ」


 蓮は蓮次の傷を確認した。


「お前も、かなりやられたな……」


「まあねぇ。左腕がないって、思った以上に不便なんだよね♪」


 蓮次は苦笑した。


 その向こうでは、律が床に座り込んでいた。狂介もまた、抵抗する様子を見せずに壁にもたれている。


 祐希と咲が、恐る恐る近づいてきた。


「……蓮、大丈夫か?」


「俺は大丈夫。祐希先輩たちは?」


「問題ない。咲も無事だ」


 祐希が答えた。


 咲は蓮を見つめ、安堵したように息を吐いた。


「……よかった。蓮先輩、本当に……」


「心配かけて悪かったな、咲」


 蓮は微笑んだ。


 咲は小さく首を横に振った。


「……いえ。無事でよかったです」


 その言葉を聞いた蓮次は、ふと表情を曇らせた。


 そして、咲の前に立つ。


「……咲ちゃん」


「はい?」


「ごめんね」


 あまりにも突然の謝罪だった。


 咲は驚いて顔を上げた。


「え……?」


「さっき、君が記憶を操作した二人の隊員。僕たちを守ってくれたのに……死なせちゃった」


 蓮次は、先ほど二人が倒れた場所へ視線を向けた。


 床には、まだ血の跡が残っている。


「僕が君に合図を送らなければ、君が能力を使うこともなかった。あの二人が僕たちを護衛することもなかったかもしれない」


「……蓮次さん」


「もちろん、あいつらが撃ってきたことまで、僕のせいだとは言わないよ。でも、君にあの二人を味方にさせたのは僕だ。結果的に、二人を危険に巻き込んじゃった」


 蓮次は、いつもの笑顔を浮かべなかった。


「……ごめん」


 咲は何も言えなかった。


 自分が触れたことで、二人は自分たちを仲間だと信じた。


 そして、基地の外まで守ろうとしてくれた。


 彼らは命令されたからではなく、仲間を守るつもりで先頭に立っていたのだ。


 その結果が、あの二発の銃声だった。


「……私も、同じです」


 咲は、倒れている二人を見つめた。


「私が記憶を操作しなければ、あの人たちは……」


「咲ちゃん、それは違うよ」


 蓮次が静かに遮った。


「君は、僕たちを助けようとしただけだ。悪いのは、何のためらいもなく仲間を撃った連中だよ」


 そう言いながらも、蓮次の表情は晴れなかった。


 咲は唇を噛んだ。


 自分の能力は、使い方次第で大勢の人間を味方にできる。


 先ほど蓮次が提案したように、敵を一人ずつ味方へ変えていけば、戦わずに基地を脱出できるかもしれない。


 だが、記憶を操作した相手が、必ずしも安全になるわけではない。


 むしろ、自分たちを守ろうとすることで、危険に身をさらすことだってある。


 その事実を、今、目の前で突きつけられた。


「……もう、やめましょう」


 咲が小さくつぶやいた。


「ん?」


「これ以上、誰かを味方にするために記憶を操作するのは……やめたほうがいいと思います」


 蓮次は黙って咲を見つめた。


「もちろん、必要なときには使います。でも、ただ私たちを守ってもらうために、相手の記憶を変えるのは……」


 咲は言葉を詰まらせた。


 自分が能力を使ったことで、誰かの人生が変わってしまう。


 その重さを、今まで以上に感じていた。


「……そっか」


 蓮次は短く答えた。


 そして、床に座り込んでいる律と、壁にもたれている狂介へ視線を向けた。


「実は僕も、今、同じことを考えてたんだよねぇ」


「蓮次さんも……?」


「うん。二人を咲ちゃんの能力で味方にできれば、これからの戦いはずっと楽になる。さっきまでなら、それも悪くないと思ってた」


 蓮次は苦笑した。


「でも、味方にした相手が僕たちを守ろうとして、また誰かに撃たれたら? それに、二人を無理やり味方にしても、本当に僕たちのために動いてくれるとは限らない。記憶を操作したからって、何もかも思いどおりになるわけじゃないんだよね」


 咲は静かにうなずいた。


 律は命令に絶対服従する男だ。


 狂介は、戦いそのものを楽しむ危険な男だった。


 そんな二人を記憶操作で味方につけたとしても、何が起きるかはわからない。


 そして何より、今の二人は戦闘不能になっている。


 彼らを味方にするために、再び能力を使う必要はない。


「……二人は、このままにしておこう」


 蓮次が告げた。


「少なくとも、記憶を操作して味方にするのはやめる。起きたら、また別の問題が出てくるだろうけどね♪」


「……そうですね」


 咲はうなずいた。


 こうして、二人を味方につけるという選択肢は、咲と蓮次の中から消えた。


 祐希は、二人の会話を黙って聞いていた。


「……あの二人を撃った奴らも、ここの隊員なんだよな」


 祐希の言葉に、蓮は静かにうなずいた。


「ああ」


「だったら、これからも同じことが起きるかもしれない。親父の命令に従って、何のためらいもなく人を殺す奴が、ほかにもいるんだろうな」


 祐希は拳を握りしめた。


「……親父は、一体どこまでやるつもりなんだ」


 誰も答えられなかった。


 蓮は床に落ちていた銃を遠ざけ、律と狂介がすぐに武器を手にできないようにした。


「……こいつらを放っておくわけにはいかない。でも、今は先に進むしかない」


「そうだねぇ」


 蓮次は壁から身体を起こした。


 疲労の色は濃い。


 それでも、その目には再び鋭さが戻っていた。


「正樹のところまで行くんでしょ? だったら、いつまでもここにいるわけにはいかないよ♪」


 蓮は一度、倒れている二人を振り返った。


 彼らもまた、この基地の中で生きてきた人間だ。


 どんな考えを持ち、何を信じているのか。


 それを知る前に、戦わなければならなかった。


「……行こう」


 蓮が歩き出そうとした、そのときだった。


 廊下の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。


 しかも、一人や二人ではない。


 大勢の人間が、こちらへ向かっている。


 蓮の表情が引き締まった。


「……まずい。誰か来る」


 祐希が周囲を見回す。


「この人数じゃ、さすがに隠れられないぞ……!」


 蓮次は右手を握りしめた。


「……どうやら、まだ休ませてはくれないみたいだね♪」


 蓮は拳を握りしめた。


 律と狂介との死闘には勝利した。


 だが、基地にはまだ大勢の隊員がいる。


 そして、その奥には高尾正樹が待っている。


 もう、誰かを犠牲にして道を切り開くわけにはいかない。


 それでも、進まなければならない。


 蓮は前を向いた。


 ――ここからが、本当の戦いだった。

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