覚醒
薄暗い訓練室に、二人の足音だけが響いていた。
蓮次は部屋の中央で立ち止まると、ゆっくりと蓮へ振り返った。
「ねえ、蓮ちゃん」
いつもの笑顔だった。
まるで、これから始まるのが命懸けの戦いではなく、友人との他愛もない遊びであるかのように。
「僕と組まない?」
「……は?」
あまりにも唐突な言葉に、蓮は眉をひそめた。
「そしたら、祐希ちゃんと咲ちゃんを解放してあげる♪」
蓮次は指を一本立てた。
「それに、不老不死も完成させようよ。僕たち二人が組めば、怖いものなし。誰にも邪魔されない、最高に面白い未来が見られると思わない?」
「……何を言ってる?」
「悪い話じゃないでしょ?」
蓮次は一歩、蓮へ近づいた。
「大切なものも守れる。今の状況だって、一気に逆転できる。高尾っちの思い通りにさせる必要もないんだよ?」
その瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
「僕と組もうよ、蓮ちゃん♪」
蓮は、しばらく黙っていた。
千鶴の最期が脳裏をよぎる。
自分たちを逃がすために、命を懸けてくれた人。
咲が初めて「お母さん」と呼んだ相手。
その千鶴を、目の前の男は何のためらいもなく刺した。
「……ふざけるな」
蓮は、蓮次を睨みつけた。
「千鶴さんを殺したお前と、組むわけがないだろ」
蓮次の笑顔を見据え、言葉を続ける。
「それに、不老不死なんて絶対に完成させない。そんなものを完成させたら、どれだけの人間が犠牲になると思ってるんだ!」
蓮次は、しばらく蓮を眺めていた。
やがて、小さく肩をすくめる。
「ふーん……そっか」
笑顔が、わずかに薄れた。
「残念」
次の瞬間だった。
「じゃあ、もうお願いじゃない」
蓮次の声から、軽さが消えた。
「俺につけよ、蓮」
その顔が、一変した。
先ほどまでの人懐っこい笑みは消え、目の奥に潜んでいた狂気が、むき出しになる。
空気が変わった。
肌を刺すような殺気が、訓練室を満たしていく。
「……っ!」
蓮は思わず、一歩のけぞった。
呼吸が浅くなる。
目の前にいるのは、ただの狂人ではない。
自分を殺すことなど、何とも思っていない人間。
その事実を、身体が本能的に理解していた。
それでも、蓮は視線を逸らさなかった。
「……お前には、つかない」
沈黙。
蓮次は数秒、蓮を見つめていた。
そして、ふっと息を吐く。
「わかったよ♪」
いつもの笑顔が戻った。
「君が来ないなら、高尾っちの言うとおりに動くか」
蓮次は首を傾げた。
「せっかく面白くなると思ったのになぁ。でも、まあいいや♪ 高尾っちのほうでも、そこそこ楽しめそうだし」
彼は、着ていた上着を投げ捨てた。
「本気でいくよ♪」
その言葉が終わるより早く、蓮次の姿が消えた。
「――っ!」
気づいたときには、目の前に拳が迫っていた。
蓮は咄嗟に腕を上げた。
だが、衝撃を受け止めきれず、身体が後方へ吹き飛ぶ。
「がっ……!」
背中が床に叩きつけられた。
息が詰まる。
起き上がろうとした瞬間、蓮次が目の前に現れた。
腹部に一撃。
顔面に一撃。
そして、立ち上がる暇すら与えず、さらに拳が飛んでくる。
防御が間に合わない。
攻撃を避けることも、反撃することもできなかった。
圧倒的な速度。
圧倒的な技術。
そして、圧倒的な実力差。
蓮は、ただ攻撃を受け続けるしかなかった。
「ほらほら、どうしたの?♪」
蓮次の声が、頭上から降ってくる。
「蓮ちゃん、そんなもん? つまんないね」
再び拳が頬を打ち抜く。
蓮の身体が床を転がった。
「僕さ、君とは友達になれると思ってたんだよね」
蓮次は、倒れた蓮を見下ろしていた。
「だって、僕と君、同じ目をしてると思ったから」
「……何だと?」
「だから、もっと面白い人間だと思ってたのに。なんか拍子抜けだよ♪」
蓮は歯を食いしばり、震える腕で身体を起こした。
視界が揺れる。
全身が痛い。
何度も再生してきた身体でさえ、衝撃を受けるたびに意識が遠のきそうになる。
「……俺とお前が、同じなわけないだろ」
蓮は、血の混じった唾を吐き捨てた。
「俺はお前みたいに、簡単に人を殺したりしない……! 一緒にするな!」
蓮次は、少しだけ目を細めた。
「そっか♪」
そして、笑った。
「でも、それじゃあ何も守れないよ?」
蓮次が、ゆっくりと近づいてくる。
「祐希ちゃんも、咲ちゃんも。大切な人たちも。何もかも失って……残酷な未来を待ちながら、最後には死んでいく」
蓮次は蓮の目の前でしゃがみ込んだ。
「それだけだよ、蓮ちゃん♪」
その言葉に、蓮の脳裏へ悪夢が蘇った。
燃え上がる島。
紫色の瞳をした人々。
倒れた祐希。
そして、無力な自分を見下ろしていた蓮次。
夢の中で、何度も見た光景。
ここで負けるのか。
また、何も守れずに終わるのか。
千鶴が命を懸けて守ろうとしたものも。
咲も。
祐希も。
この島で暮らす人々も。
すべてを失うのか。
「……ふざけるな」
蓮は、ゆっくりと立ち上がった。
足元は覚束ない。
身体は限界だった。
それでも、前を向く。
「俺は……まだ、終わってない!」
蓮は最後の力を振り絞り、蓮次に向かって走り出した。
「へえ……♪」
蓮次は、上着を脱ぎ捨てる。
その瞬間だった。
蓮の右手が、淡い光を放ち始めた。
「……え?」
自分でも何が起きているのかわからなかった。
手のひらから、指先へ。
白銀の光が、血管をなぞるように広がっていく。
そして――左手もまた、同じ光を帯び始めた。
まるで、遥か昔から眠っていた何かが、目を覚ましたかのように。
周囲の音が消えた。
蓮次の呼吸も、床を踏む音も。
世界そのものが、静止したように感じられた。
蓮の両手から、細い光の筋が立ち上る。
それは次第に形を成し、白銀の刃へと変わっていった。
右手に一本。
左手に一本。
短く、鋭く、両刃を備えたダガーのような短剣。
その刀身は金属の輝きとは異なっていた。
透き通るような白銀の光の奥に、星空を閉じ込めたような淡い輝きが揺れている。
柄を握った瞬間、蓮の身体を温かな何かが駆け抜けた。
痛みが消えたわけではない。
傷が癒えたわけでもない。
それでも、蓮の目には、今まで見えなかったものが見えていた。
蓮次の肩の動き。
足の運び。
次に踏み込んでくる方向。
そのすべてが、まるで最初から知っていたかのように理解できた。
「……何だ、これ」
蓮自身が、目の前の光景を信じられなかった。
だが、立ち止まることはなかった。
蓮次へ向かって、最後の一歩を踏み込む。
白銀の光が、弧を描いた。
音はなかった。
刃が空気を裂く音すら、蓮の耳には届かなかった。
ただ、一瞬。
世界を切り取ったような、静かな光だけが走った。
「――っ!?」
蓮次の表情が変わった。
初めて見せる、明確な驚愕。
彼は反射的に身体をひねった。
しかし、間に合わなかった。
白銀の斬撃が、左腕を捉えた。
次の瞬間。
蓮次の左腕が、宙を舞った。
切断面から血が噴き出す。
遅れて、床に落ちた腕が鈍い音を立てた。
静寂。
蓮は、両手に握られた短剣を見下ろした。
何が起きたのか、理解できなかった。
ただ、目の前の光景だけが、異様なほど鮮明だった。
腕を失った蓮次が、呆然と自分の左肩を見つめている。
その表情からは、いつもの笑みが消えていた。
「……うそ」
蓮次は、初めて言葉を失ったようだった。
やがて、傷口を押さえる。
驚くべきことに、出血は急速に収まり始めた。
裂けた皮膚が閉じ、傷口が塞がっていく。
だが――。
床に落ちた左腕は、動かなかった。
傷は再生しても、失われた腕そのものは戻らない。
蓮次は何度も自分の左肩と、床に落ちた腕を見比べた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……あはっ」
小さな笑い声だった。
それが次第に大きくなり、やがて訓練室いっぱいに響き渡った。
「あははははっ! すごい! すごいよ、蓮ちゃん!」
蓮次は腹を抱えるようにして笑った。
「やっぱり君は面白い! 最高だよ♪」
彼は右手を上げ、もう片方の手も見えるように掲げた。
「蓮ちゃん、僕の負けだよ♪ 降参!」
両手を上げるような仕草をしながら、蓮次は満面の笑みを浮かべた。
まるで、負けたことすら喜んでいるかのようだった。
蓮は短剣を握りしめたまま、呆然と立ち尽くしていた。
自分が、蓮次を倒した?
あの圧倒的な力を持つ男を?
いったい、何が起きたのだ。
両手に握られた白銀の短剣。
その輝きは、少しずつ弱まっていた。
「……何なんだよ、これ」
蓮が呟く。
だが、答えられる者は誰もいなかった。
蓮次だけは、違った。
彼は切断された腕を一瞥すると、再び蓮へ視線を向けた。
「ねえ、蓮ちゃん」
「……何だ」
「さっきの話、なしにしよう♪」
蓮は眉をひそめた。
「は?」
「僕と組んで不老不死を完成させようって話。あれはもういいや」
蓮次は、楽しそうに笑った。
「代わりにさ、僕を使ってよ」
「……何を言ってる?」
「君が死ねって言うなら、死んでもいい。君が僕に何をさせたいのか、何を望むのか。好きにすればいいよ♪」
蓮次は、まっすぐに蓮を見つめていた。
その瞳には、先ほどまでとは違う色が宿っていた。
「君の思うように、僕を使ってよ。それが一番楽しそうだからさ♪」
「……ふざけるな」
蓮は短剣を握ったまま、蓮次を睨んだ。
「お前と一緒にいるなんて、ごめんだ!」
「えー、そんなこと言わないでよ♪」
「お前は千鶴さんを殺したんだぞ! 俺が許すと思ってるのか!」
「許してほしいなんて、一言も言ってないよ?」
蓮次は、悪びれもせずに答えた。
「ただ、君についていきたいだけ♪」
「……お前は、本当に何を考えているんだ」
蓮次は答えなかった。
ただ、ゆっくりと蓮へ近づく。
蓮は警戒して短剣を構え直した。
しかし、蓮次は攻撃してこなかった。
代わりに、蓮の耳元へ顔を寄せる。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、何かを囁いた。
「――――」
その言葉を聞いた瞬間。
蓮の目が、大きく見開かれた。
「……本当か?」
蓮次は、笑顔のまま小さく頷いた。
蓮はしばらく黙り込んだ。
頭の中で、さまざまな可能性が駆け巡る。
信じていいのか。
この男の言葉を。
それでも、今の蓮には無視できない情報だった。
「……わかった」
蓮は、ゆっくりと短剣を下ろした。
「お前を使ってやる」
蓮次の笑顔が、さらに深まった。
「ただし、条件がある」
「なになに?♪」
「先に祐希と咲を解放しろ。話はその後だ」
「了解♪」
蓮次は、まるで命令を待っていた犬のように軽快に返事をした。
「じゃあ、二人を迎えに行こうか♪」
蓮は、まだ消えかけている両手の光を見つめた。
自分の身に何が起きたのか。
なぜ、あの短剣が現れたのか。
そして、蓮次が耳元で囁いた言葉の意味。
わからないことばかりだった。
ただ一つ、確かなことがある。
夢で見た未来は、まだ決まっていない。
そして今、蓮は自分でも知らなかった力を手に入れた。
それが未来を変える希望なのか。
それとも、新たな絶望の始まりなのか。
答えは、まだ誰にもわからなかった。




