一ノ瀬学という男
子供たちを別の家へ託してから、数日が過ぎた。
千代と洋文は、遠くから子供たちの様子を見守っていた。
幸せそうに笑う二人の姿を見るたび、千代は少しだけ安心した。
けれど――。
「……本当に、大丈夫なんでしょうか」
ある夜、千代がぽつりと呟いた。
「何がだ?」
「あの子たちの身体です」
洋文は黙った。
千代は、自分の胸元に手を当てる。
「私は……薬を投与されて、生き残りました」
千代は薬を投与された。
だが、洋文は違う。
彼は薬を投与されていない。
「洋文さんは、薬を投与されていませんよね」
「ああ」
「私たちから生まれたあの子たちは、本当に普通の身体で生きていけるのでしょうか」
千代の声には、不安が滲んでいた。
自分たちが逃げている間に生まれた子供たち。
その身体に、自分たちの血がどう受け継がれているのか。
誰にも分からない。
「もし……あの子たちの身体に何かあったら」
「……千代」
「私たちは、あの子たちを守るために離したんです」
千代は唇を噛んだ。
「なのに、私たちが知らないところで苦しむことになったら……」
洋文は答えられなかった。
研究者である自分でさえ、答えを持っていない。
不死川の血。
常盤の血。
そして、薬。
何が子供たちに受け継がれたのか。
それを確かめる方法すらなかった。
――いや。
ひとつだけ、方法を知っている人間がいる。
「……一ノ瀬だ」
洋文が呟いた。
「学なら……何か分かるかもしれない」
だが、その名前を口にした瞬間。
二人の表情が曇った。
一ノ瀬学。
あの研究を続けようとしていた男。
人間の限界を知りたいと言い、研究を諦めようとしなかった男。
そして――。
「学は、まだ研究を続けている」
洋文の声は低かった。
「もし、あの子たちの存在を知れば……」
千代も、その先を理解した。
「……研究対象にする」
「ああ」
部屋の中に沈黙が落ちた。
研究を成功させるために必要な情報を知っているのは、三人しかいない。
千代。
洋文。
そして――一ノ瀬学。
「……私たち三人だけなんですよね」
「ああ」
「薬のことも」
「知っている」
「不死川と常盤のことも」
「知っている」
「そして……あの子たちの可能性も」
洋文は目を伏せた。
「だからこそ、学が一番危険なんだ」
千代は何も言わなかった。
しばらくして、洋文が重い口を開く。
「……学を止めなければならない」
「どうやって?」
洋文は答えなかった。
頭の中には、二つの方法が浮かんでいた。
一つは――。
学を殺すこと。
もう一つは――。
千代の力で、学から研究に関する記憶を消すこと。
「……どちらも、簡単ではない」
洋文は拳を握った。
「殺せば、俺たちは一生その罪を背負う」
千代は静かに聞いていた。
「記憶を消せば……本当に学本人を壊してしまうかもしれない」
千代の能力は、人の記憶を書き換えられる。
だが、まだ完全に理解しているわけではない。
どこまで消せるのか。
どこまで書き換えられるのか。
そして――。
一度壊した記憶を、元に戻せるのか。
「……私は、人の記憶を奪いたくありません」
千代が小さく言った。
「分かっている」
「でも……」
千代は子供たちがいる方向を見つめた。
「このまま学さんが研究を続けたら、いつかあの子たちに辿り着くかもしれない」
洋文も、同じ方向を見た。
「だから、俺たちは決めなければならない」
遠くで風が鳴っていた。
その音だけが、二人の間を通り抜けていく。
「学を殺すのか」
洋文が呟く。
「それとも――」
千代は自分の手を見つめた。
「私が、学さんの記憶を消すのか」
二人は、まだ答えを出せなかった。
ただ一つだけ。
もう後戻りできないところまで来ていることだけは、分かっていた。




