決別
それから数日。
研究室では、以前とは違う空気が流れていた。
学は、毎日のように資料を読み漁っていた。
不死川家。
常盤家。
薬の成分。
過去の被験体。
そして、千代の身体についての記録。
机の上には、紙が積み重なっていく。
「……やはり間違っていない」
学は、一枚の紙を見つめながら呟いた。
「不死川の再生。
常盤の不老。
この二つが揃えば――」
「学」
洋文が遮った。
「もうやめろ」
学が顔を上げる。
「……何を?」
「この研究だ」
「なぜだ?」
「分かっているだろ」
洋文の声は低かった。
「俺たちがやっていることは、もう研究なんかじゃない」
学は黙った。
「人間を死ななくする」
洋文は続けた。
「そんなものが、本当に完成してしまったらどうなる?」
「人類にとって大きな進歩になる」
「違う」
洋文は首を横に振った。
「国は、それを戦争に使う」
「だからこそ、完成させる価値がある」
「……本気で言ってるのか?」
学は洋文を見る。
「不死身の兵士がいれば、戦争で失われる命は減る」
「それは最初だけだ」
洋文は拳を握った。
「死なない兵士ができれば、国はもっと戦争をする」
「そんなのは想像だ」
「今の戦況を見ろ」
洋文は机の上に置かれた新聞を指差した。
日本は、他国への侵略を続けていた。
勝利。
占領。
さらに次の国へ。
「国はもう止まろうとしていない」
洋文は言った。
「そこに不老不死まで与えたら……」
言葉が詰まる。
「永遠に支配する人間が生まれる」
学はしばらく黙っていた。
だが、その目には迷いがなかった。
「それでも、研究を続ける」
「……学」
「ここまで来たんだ」
学は千代の記録を手に取った。
「今まで誰一人、薬に耐えられなかった」
「……」
「だが、千代さんは生きている」
「だから?」
「初めて、可能性が見えたんだ」
学の声には、強い熱がこもっていた。
「俺は知りたい」
「何を?」
「人間がどこまで変われるのか」
洋文は学を見つめた。
「それが探求心ってやつか?」
「ああ」
学は迷わず答えた。
「研究者なら、当然だろ」
「……俺には、そうは思えない」
沈黙。
二人の間に、これまでにはなかった距離が生まれていた。
「洋文」
学が静かに言う。
「お前は怖いんだ」
「……そうかもしれない」
「なら、俺一人で続ける」
その言葉を聞いた瞬間。
洋文は、学がもう自分とは違う場所にいることを理解した。
「……分かった」
洋文は静かに立ち上がった。
「今日で終わりだ」
「何が?」
「俺たちの研究だ」
「勝手に決めるな」
「俺はもう、協力しない」
学の表情が険しくなる。
「洋文……」
「この研究は成功させてはいけない」
洋文はそれだけ言って、研究室を出た。
扉が閉まる。
その音が、二人の決別を告げるように響いた。
――それから数日。
洋文は一人で考え続けていた。
このままでは、学が研究を続ける。
国も、それを止めることはない。
むしろ、成功を望んでいる。
ならば。
自分にできることは一つしかなかった。
その夜。
洋文は千代のいる部屋へ向かった。
「……洋文さん?」
千代が振り返る。
「どうしたんですか?」
洋文はしばらく何も言わなかった。
そして、決意したように口を開く。
「千代さん」
「はい」
「ここを出ましょう」
千代は目を丸くした。
「……ここを?」
洋文は声を落とした。
「今夜、ここから逃げます」
「どうして……?」
洋文は答えを探した。
研究のこと。
国のこと。
学のこと。
すべてを話すわけにはいかなかった。
「ここにいたら、あなた毎日のように実験を受けることになる」
千代は黙った。
「俺は、あなたをもう被験体として扱いたくない」
洋文の声は震えていた。
「だから……一緒に逃げてほしい」
千代は洋文を見つめる。
しばらくして、静かに頷いた。
「……分かりました」
その夜。
集落の灯りが一つ、また一つと消えていく。
誰も知らない。
不死川洋文が、常盤千代を連れてこの場所から消えようとしていることを。
そして――
二人の逃亡が、この島に残された研究の運命を大きく変えることになるとは。
まだ、誰も知らなかった。




