目覚め
蓮は意を決して、次のページをめくった。
書物に書かれた文字に触指が触れた。
次の瞬間、自分の記憶のように情景が浮かぶ。
研究室には、いつもとは違う緊張が漂っていた。
中央に置かれた簡素なベッド。
その上には、常盤千代が横たわっている。
洋文は、ベッドの横に立ったまま、千代の顔を見つめていた。
隣には、一ノ瀬学がいる。
「……始めるぞ」
学が静かに言った。
洋文は無言で頷いた。
これまで何度も繰り返してきた手順。
だが、今日だけは違う。
目の前にいるのは、これまでの被験体とは違う。
なぜか、洋文はそう感じていた。
「千代さん」
洋文が声をかける。
千代がゆっくりと目を開ける。
「……はい」
「体調に変化はありませんか?」
「特に……ありません」
千代は穏やかに答えた。
その顔を見て、洋文は一瞬だけ言葉を失う。
六十二歳とは到底思えない。
それでも、これから行うことを考えれば、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「では、始めます」
薬が準備される。
学が慎重に確認する。
そして――
千代の身体へ薬が投与された。
数秒。
数十秒。
何も起こらない。
洋文と学は、じっと千代を見つめる。
「……まだ、変化はないな」
学が呟いた。
「はい」
洋文も答える。
しかし、その直後。
千代の身体が小さく震えた。
「千代さん!」
洋文が駆け寄る。
千代は胸元を押さえ、苦しそうに息を吐いた。
「……大丈夫……です」
そう言った直後。
千代の身体から力が抜けた。
「千代さん!」
洋文が肩を支える。
千代は、そのまま意識を失った。
学が脈を確認する。
「……生きている」
洋文は安堵した。
しかし――
「目を見てくれ」
学の言葉に、洋文は千代の瞼をそっと開いた。
瞳は――
変わっていなかった。
紫色ではない。
これまでの被験体とは、明らかに違っていた。
「……変化がない」
「そうだ」
学も困惑している。
「だが、まだ分からない」
千代は目を覚まさなかった。
一日。
二日。
三日。
研究室では、千代の状態を記録し続けた。
脈拍。
体温。
呼吸。
血液。
どれも大きな異常はない。
しかし、千代は眠り続けていた。
「……今までとは違うな」
学が記録を見ながら呟く。
「これまでの被験体は、投与後すぐに変化が出た」
「紫色の瞳になって……」
「ああ。そして、その後に死亡した」
洋文は眠っている千代を見る。
「でも、千代さんにはそれがない」
「目の色も変わらない」
二人は顔を見合わせた。
「……薬が効いていないのか?」
洋文が言う。
「その可能性もある」
「それなら、なぜ生きている?」
「分からない」
学は首を横に振った。
「今までこんなことは一度もなかった」
さらに数日が過ぎた。
千代は目を覚まさない。
それでも、死ぬこともなかった。
研究室には、奇妙な静けさが続いていた。
そして――
投与から数日後。
朝。
洋文が千代の様子を確認するため、ベッドへ近づいた。
「……千代さん」
反応はない。
洋文が記録を確認しようとした、その時だった。
「……ん」
小さな声。
洋文の手が止まる。
「……?」
千代の指が動いた。
そして――
ゆっくりと瞼が開いた。
「千代さん!」
洋文が身を乗り出す。
千代は、ぼんやりと天井を見つめている。
しばらくして、ゆっくりと顔を横へ向けた。
「……ここは?」
洋文は言葉を失った。
生きている。
それだけではない。
瞳の色も――
変わっていない。
紫色ではなかった。
「千代さん……」
「……はい?」
「気分はどうですか?」
千代は少し考えるようにしてから答えた。
「……不思議なくらい、何ともありません」
洋文と学は、言葉を失った。
これまで。
一度もなかった。
薬を投与されても死ななかった人間。
紫色の瞳にならなかった人間。
そして――
数日間眠り続けた後、何事もなかったように目を覚ました人間。
千代はゆっくりと身体を起こす。
「……私は、何日眠っていたんですか?」
洋文は答えられなかった。
ただ、千代の瞳を見つめていた。
そこには――
何の変化もなかった。
洋文には、まだ分からなかった。
これは失敗なのか。
それとも――
これまで誰一人として辿り着けなかった、研究の先にあるものなのか。




