知らない記憶
「……祐希。動くな」
正樹の声が、冷たく響いた。
蓮は後ろから拘束されたまま、身動きが取れない。
「離せ……!」
「大人しくしていれば、すぐに終わる」
「何を……」
正樹が懐から、小さな注射器を取り出した。
透明な液体が入っている。
蓮の目に、それが映った。
「……なんだ、それ」
正樹は答えなかった。
そのまま、蓮の腕を掴む。
「やめろ!」
祐希が叫ぶ。
だが、動けば蓮がどうなるか分からない。
「父さん!」
祐希の声を無視して、正樹は注射針を蓮の腕へ突き刺した。
「――っ!」
冷たいものが、身体の中へ流れ込んでくる。
「……何を……入れた……」
蓮の声が震えた。
次の瞬間――
身体中を、激しい痛みが駆け抜けた。
「ぐ……あ……っ!」
膝から力が抜ける。
呼吸ができない。
心臓を内側から握り潰されているような感覚。
「蓮!」
祐希が叫ぶ。
蓮の視界が揺れる。
壁も。
鉄格子も。
祐希の顔も。
すべてが歪んでいく。
「……俺……死ぬのか……」
意識が遠のいていく。
視界が、徐々に黒く染まっていく。
何も見えない。
何も聞こえない。
――そのはずだった。
『……忘れるな』
声が聞こえた。
誰の声なのか分からない。
男なのか。
女なのか。
それすら分からない。
『忘れるな……』
また聞こえる。
これは、自分の記憶じゃない。
蓮はそう思った。
なのに――
頭の中に、知らない光景が浮かぶ。
古い場所。
誰かの手。
泣いている声。
知らない人間。
そして――
紫色の何か。
「……やめろ……」
蓮は頭を抱えた。
『忘れるな』
「誰だ……」
『忘れるな……』
その声が、遠くなっていく。
まるで夢の中から聞こえてくるように。
そして――
完全に視界が消えた。
「……蓮!」
身体が崩れ落ちる。
正樹が蓮を支えようとした、その瞬間だった。
「――お父さん!」
遠くから、声が響いた。
正樹が振り返る。
その背後から、誰かが走ってくる。
手には――
鉄パイプ。
「……!」
次の瞬間。
ガンッ!!
鈍い音が牢獄に響いた。
鉄パイプが正樹の肩を直撃する。
「ぐっ……!」
正樹がよろめいた。
その隙を、祐希は見逃さなかった。
「蓮!」
祐希が蓮の身体を抱き起こす。
「しっかりしろ!」
蓮は目を開けない。
「くそ……!」
祐希は蓮を背負った。
そのとき――
鉄パイプを握った人物が、こちらを振り返った。
「祐希先輩!」
「……咲!?」
そこにいたのは、咲だった。
息を切らしながら、鉄パイプを握っている。
「早く!」
咲が廊下の先を指差す。
「こっちです!」
「でも……」
祐希が正樹を見る。
正樹は、ふらつきながら立ち上がろうとしていた。
「今は逃げるぞ!」
祐希は蓮を背負ったまま走り出す。
咲も後を追う。
「こっちです!」
三人は白い廊下を駆け抜ける。
地下階段を上がる。
そして――
教会へ戻る階段を、必死に駆け上がった。
蓮の意識は戻らない。
ただ、その頭の中では――
あの声だけが、何度も繰り返されていた。
『……忘れるな』
三人は、暗い教会の中へと逃げ込んだ。




