第8話 「間違ってないから、嫌なの」
旧校舎へ続く廊下は、同じ学校の中とは思えないほど静かだった。
新校舎の教室からは、まだかすかに文化祭準備のざわめきが聞こえている。
けれど、その音は廊下を進むたびに薄れていき、やがて壁の向こうに置き去りにされたみたいに遠くなった。
昼休みの明るさは、ここまでは届かない。
窓はある。
光も入っている。
それなのに、旧校舎の廊下はどこか黄ばんで見えた。
古い掲示板。
剥がれかけた防火ポスター。
使われなくなった傘立て。
誰かが昔貼ったままの文化祭実行委員募集の紙。
その全てが、時間から取り残されている。
雨宮透真は、少し前を歩く早瀬凛の背中を見ていた。
凛は足音を立てずに歩く。
まるで、自分がここにいることを廊下に知られたくないみたいに感じる。
その斜め後ろを、白石理沙が歩いている。
理沙はスマホを握ったまま、何度も画面を確認していた。
相関図。
カウントダウン。
未央から伸びる線。
相沢芽衣の名前。
それらを見ているはずなのに、理沙の視線はどこか別のものを追っているようにも見えた。
透真は、そんな二人の後ろを歩きながら考えていた。
第二問は正解した。
橘未央が謝ろうとしていた相手は――相沢芽衣。
去年、二年三組にいた生徒。
二学期の途中で転校し、その後亡くなった少女。
凛の親友。
未央が助けようとして、助けられなかった相手。
そして、おそらく今のゲームの根にいる人物。
だが、それだけでは足りない。
未央はなぜ今、芽衣に謝ろうとしたのか。
なぜ旧校舎へ向かったのか。
なぜ相関図には、未央と理沙の線に疑問符がついているのか。
> 橘未央 → 白石理沙
> 親友? 43%
親友。
その言葉に疑問符がついているだけで、人はあれほど動揺する。
透真には、それが少し滑稽にも見えた。
友情なんて、最初から曖昧なものだ。
誰かが友達だと言えば友達になる。
誰かが親友だと言えば親友になる。
けれど、相手も同じように思っている保証はどこにもない。
そんな不確かなものを、人は大切そうに抱えている。
だからこそ、疑問符一つで傷つく。
「ここ」
凛が立ち止まった。
旧校舎へ続く渡り廊下の手前。
薄暗い階段の踊り場だった。
「未央と別れたのは、ここ」
凛は、手すりの近くを指さした。
そこには特に変わったものはなかった。
古い灰色の床。
壁に貼られた「立入注意」の紙。
階段下に置かれた使われていない掃除用具。
理沙が周囲を見回す。
「未央は、ここから旧校舎へ?」
「うん」
「一人で?」
「そう言った」
「どこへ行くって?」
「言わなかった」
凛の返事は短い。
理沙の眉が少しだけ寄る。
「早瀬さん。何度も聞くけど、本当にそれだけ?」
「何度聞かれても、それだけ」
「未央は何か持ってた?」
「カーディガン。あと、スマホ」
「鞄は?」
「持ってなかった」
「誰かに呼ばれてる様子は?」
「わからない」
「誰かと連絡してた?」
「知らない」
理沙の質問は細かかった。
焦りを抑え込むために、ひとつずつ確認しているようにも見えた。
凛はその全てに、必要最低限だけ答える。
透真は二人を見ながら、口を挟まずにいた。
理沙は未央を探している。
凛は未央を隠しているわけではない。
だが、二人の間には別の感情が流れている。
未央を巡る、昔からの何か。
「未央は」
凛がぽつりと言った。
「ここで一回、戻りかけた」
理沙の目が動く。
「戻りかけた?」
「うん。階段を上がろうとして、途中で立ち止まった。それで私のほうを見て、笑おうとした。でも笑えてなかった」
「何か言った?」
「『やっぱり、今さらだよね』って」
理沙は息を呑んだ。
凛は淡々と続ける。
「私が『そう思うならやめれば』って言ったら、未央は首を振った」
「それで?」
「『でも、謝らないまま忘れたふりをするのは、もっと違う気がする』って」
理沙は黙った。
透真は手すりに視線を落とした。
未央らしい言葉だと思った。
正しいことを言っている。
誠実なようにも聞こえる。
だが、すでに亡くなった相手に謝るという行為は、誰のためなのか。
芽衣のためか。
自分のためか。
残された誰かに見せるためか。
未央は、そこまでわかっていたのだろうか。
「早瀬さん」
理沙が言った。
「未央が芽衣さんに謝りたいって思うのは、そんなに悪いこと?」
凛は、理沙のほうを向いた。
「悪いとは言ってない」
「でも、責めてる」
「責めるよ」
凛の声に、わずかな冷たさが混じった。
「謝りたいって思うのも、後悔するのも、勝手だと思う。でも、芽衣はもう返事できない。許すとも許さないとも言えない。なのに未央が『謝りたい』って言ったら、周りは言うでしょ。未央はちゃんと反省してる。未央は優しい。未央も苦しんでたって」
理沙は何も言えなかった。
「それが嫌だった」
凛は続けた。
「芽衣がいなくなっても、最後に可哀想な顔をしてもらえるのは未央なんだって思ったら、嫌だった」
階段の踊り場に、静かな沈黙が落ちる。
その沈黙は、教室にあったものとは違った。
教室の沈黙は、誰かが自分に火の粉がかかるのを恐れる沈黙だった。
ここにある沈黙は、もう燃え尽きたものの灰を前にした沈黙だった。
「未央は」
理沙が低く言った。
「芽衣さんを忘れてなかった」
「それは知ってる」
「ずっと気にしてた」
「それも知ってる」
「じゃあ――」
「だから何?」
凛が遮った。
理沙の顔が強張る。
「気にしてたら、何か変わった?忘れてなかったら、芽衣は戻ってくる?未央が優しかったことにしたら、全部なかったことになる?」
「そんなこと言ってない」
「言ってるように聞こえる」
理沙と凛の視線がぶつかる。
透真は、そこで初めて口を開いた。
「白石」
理沙はこちらを見ない。
「何」
「お前、未央を庇いたいのか、芽衣のことを知りたいのか、どっちだ」
理沙の目が透真に向いた。
鋭い視線だった。
「両方よ」
「両方は難しい」
「どうして」
「未央を庇うなら、芽衣の傷は軽くなる。芽衣のことを知るなら、未央も傷つく」
理沙の唇がわずかに震えた。
「あなたって、本当に嫌な言い方をする」
「でも間違ってない」
「間違ってないから、嫌なの」
理沙はそう言って、視線を外した。
透真は少しだけ息を吐く。
理沙は未央の親友だ。
少なくとも、彼女自身はそう思っている。
だから未央を守りたい。
未央を疑いたくない。
未央がしたことを悪意ではなく善意として扱いたい。
それは自然な感情だ。
だが、相関図はそこに疑問符をつけた。
未央から理沙へ向かう線。
> 親友? 43%
理沙は、それを許せないのだろう。
「この階段の先は?」
透真は凛に聞いた。
「旧校舎の二階。使ってない教室と、美術準備室の裏口につながってる」
「未央はどっちに行った」
「二階のほう」
「見たのか」
「途中まで」
「途中までって?」
凛は階段の上を見た。
「未央が二階に上がるのを見た。そこから先は知らない」
「ついていかなかった理由は」
「行くなって言われたから」
「未央に?」
「うん」
「未央が?」
理沙が驚いたように聞いた。
凛は頷く。
「『ここからは一人で行く』って。未央にしては、珍しく強い言い方だった」
理沙は階段を見上げた。
未央がここに立っていた。
戻るか迷い、笑えずに、凛にそう言った。
ここからは一人で行く。
その言葉を、理沙はどう受け止めたのだろう。
親友である自分ではなく、凛が最後にその言葉を聞いた。
それを知った瞬間、理沙の横顔に浮かんだのは心配だけではなかった。
透真は、そういう小さなひびを見る。
理沙は未央を助けたい。
だが同時に、未央の最後の時間に自分がいなかったことを許せない。
未央が自分以外の誰かに大切なことを話していたことが、苦しい。
その苦しみは、友情と呼べるのか。
あるいは、独占欲と呼ぶべきなのか。
透真のスマホが、短く震えた。
画面を見ると、相関図が更新されていた。
未央と理沙を結ぶ線が拡大表示される。
> 白石理沙 → 橘未央
> 独占欲 86%
数字が一瞬揺れ、更新される。
> 独占欲 88%
透真は理沙を見た。
理沙も、自分のスマホを見ていた。
同じ表示が出ているのだろう。
彼女の顔は、白くなっていた。
凛がその画面に気づく。
「……上がったね」
理沙が凛を睨む。
「見ないで」
「見えた」
「あなたに何がわかるの」
「わかるよ」
凛は静かに言った。
「誰かを自分だけのものにしたい気持ちくらい」
理沙の目が揺れる。
「芽衣は、私の親友だった」
凛は言う。
「でも未央が来てから、芽衣は未央のほうを見るようになった。未央は優しかったから。明るかったから。みんなと話せたから。私にはできないことを、簡単にやってみせたから」
凛の声は、責めているようで、どこか自分自身を削っているようでもあった。
「だから、白石さんの気持ちはわかる」
理沙は何も言えなかった。
「でも、未央のことを自分だけの親友にしたかったなら、ちゃんとそう言えばよかったんじゃない」
「そんなこと……」
「言えるわけない?」
凛は小さく笑った。
「わかる。私も言えなかったから」
理沙の手が、スマホを強く握る。
透真は二人の間に流れる空気を見ていた。
相関図の線は、必ずしも嘘ではない。
だが、表示される言葉はあまりにも乱暴だ。
独占欲。
嫉妬。
憎悪。
救済願望。
人間の感情を一語に押し込め、数値で叩きつける。
それは理解ではない。
暴力に近い。
にもかかわらず、その暴力は時に真実を含んでいる。
だからこそ、逃げられない。
「行くぞ」
透真は言った。
これ以上、階段の前で感情をぶつけても進まない。
理沙は小さく息をして、頷いた。
凛は何も言わずに先に階段を上がる。
三人は旧校舎の二階へ向かった。
階段を上がると、空気がさらに古くなった。
廊下には使われていない机が積まれている。
窓際には、古い暗幕が丸めて置かれていた。
壁の掲示板には、去年の文化祭のポスターがまだ一枚だけ残っている。
紙は色あせていて、端が丸まっていた。
透真は足を止める。
ポスターには、去年の二年三組の出し物が書かれていた。
手作り迷路。
旧校舎二階特設会場。
その下に、小さな集合写真が貼られている。
今と同じ顔がいくつかある。
黒川。
葛西。
咲良。
羽田。
未央。
理沙。
凛。
そして、その端に知らない少女が写っていた。




