第6話 「今さら謝って、どうするの?」
第二問が表示されたあと、二年三組の教室は、誰も知らない場所に運ばれてしまったみたいに静かだった。
> 橘未央が謝ろうとしていた相手は誰か。
画面に映るその問いは、第一問よりもずっと短い。
けれど、重かった。
未央が最後に会った人物を答えるだけなら、証言や写真や行動を追えばよかった。
誰がどこにいたのか。
何時何分に何をしていたのか。
そこにはまだ、推理の形をした逃げ道があった。
だが、謝ろうとしていた相手となると違う。
それは未央の内側にあるものだ。
後悔。
罪悪感。
言えなかった言葉。
やり直したかった関係。
教室にいる誰もが、スマホの画面を見ながら黙っていた。
中央には、橘未央の名前。
その名前から、誰もいない空白へ伸びる赤い線。
> ???
> 後悔
名前のない誰か。
透真は、自分の席の横に立ったまま、その空白を見ていた。
線の先に名前がない。
それは、相関図がまだ答えを隠しているということだろう。
あるいは、その人物をクラスが意図的に見ないようにしているという意味かもしれない。
どちらにせよ、教室の反応はわかりやすかった。
白石理沙は、唇を引き結んでいる。
葛西悠真は、折れたチョークの欠片を握ったまま固まっている。
宮野咲良は、スマホを伏せるように持ち、画面から目を逸らしている。
羽田千尋は、いつものように情報を探そうとしているが、指の動きが鈍い。
黒川奏太は「誰だよ」と言ったきり、次の言葉を出せずにいる。
早瀬凛は、窓際に立ったまま目を閉じていた。
誰も知らない顔をしている。
けれど、誰も本当に知らないわけではない。
透真にはそう見えた。
「……謝るって、何にだよ」
最初に沈黙を破ったのは黒川だった。
声は不機嫌そうだったが、そこには明らかな焦りが混じっていた。
「未央が誰かに謝りたがってたって、早瀬が言っただけだろ。相関図のやつだって、誰が作ったかわかんねえんだし」
「でも第一問は正解だった」
羽田が言った。
「早瀬さんが未央ちゃんと会ってたことは、本当に当たってた。だったら第二問も、完全なデタラメじゃないと思う」
「だから誰なんだよ、その謝る相手って」
黒川の声が少し荒くなる。
誰かを責めたい。
早く答えを外に出したい。
そうすれば自分は関係ないと言える。
透真には、黒川の焦りがそう見えた。
「凛」
理沙が静かに言った。
凛は目を開ける。
「未央は、本当に名前を言わなかったの?」
「言わなかった」
「それ以外に何か言ってなかった?謝りたい人がいるって言ったとき、どんな様子だった?」
「……普通じゃなかった」
「普通じゃない?」
「いつもの未央じゃなかった」
凛は少し考えてから言葉を選ぶように続けた。
「未央って、困ってても笑うでしょ。相手を不安にさせないように。自分が悪くなくても、ごめんねって先に言う。そういう子」
理沙の表情が微かに揺れた。
凛はその揺れを見たが、言葉を止めなかった。
「でも美術準備室で会ったときは、笑ってなかった。ずっと迷ってるみたいだった。私に聞いたんだよ。『まだ、許さなくていいと思う?』って」
「それは、誰を許す話だったの」
「わからない」
「本当に?」
「本当に」
凛の声は平坦だった。
だが、透真にはわかった。
凛は全部を知らない。
けれど、何かを知っている。
人は、完全に知らないことに対してあそこまで疲れた顔をしない。
「未央は旧校舎側に行ったんだよな」
透真が言うと、凛は彼を見た。
「そう」
「一人で?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私は途中までしか見てない。階段のところで別れたから」
「旧校舎側の階段?」
「そう」
「そのあと誰かと会った可能性はある」
「あると思う」
「誰と?」
「知らない」
凛の返答は短い。
黒川が苛立ったように舌打ちする。
「知らないばっかじゃん」
凛は黒川を見ない。
「知らないことは知らないって言ってるだけ」
「お前、未央嫌いだったんだろ」
「嫌いだったよ」
「だったら、なんで信じろって言えるんだよ」
「信じなくていい」
凛はすぐに言った。
「でも、未央を探したいなら、私の話は使えばいい。私を信じる必要はない」
その言い方は、どこか透真に似ていた。
自分を信用しなくていい。
情報だけ使え。
その姿勢は、少なくともこの場では感情的に叫ぶ者より役に立つ。
理沙は腕を組み、相関図の空白を見つめた。
「謝ろうとしていた相手が、旧校舎に関係している可能性がある」
「また旧校舎か」
葛西が低くつぶやいた。
その声に、透真は反応した。
「また?」
葛西は、しまったという顔をした。
それはほんの一瞬だったが、透真は見逃さなかった。
「葛西。旧校舎に何かあるのか」
「いや、別に」
「今、またって言った」
「文化祭準備で旧校舎の備品を使うことが多いからだよ。去年も使ったし」
「去年?」
その言葉で、また教室の何人かが動揺した。
去年。
透真はその単語を、頭の中で線にする。
美術準備室。
旧校舎。
未央の後悔。
凛の「戻らないものは戻らない」。
相関図の空白。
そして、誰も言いたがらない去年の何か。
「去年の文化祭で、何があった」
透真が聞く。
葛西は答えなかった。
代わりに咲良が口を開きかけ、すぐ閉じた。
羽田はスマホを見るふりをして視線を落とした。
黒川はわざとらしく窓の外を見た。
沈黙。
それが答えだった。
「……今は、未央を探すほうが先だ」
葛西が言った。
それは正論だった。
だが、正論はしばしば、見たくないものから目を逸らすためにも使われる。
「そうだな」
透真は頷いた。
「じゃあ、未央が謝りたかった相手を探そう。去年の旧校舎に関係している誰かを」
葛西の顔がわずかに強張る。
咲良が小さく「やめてよ」とつぶやいた。
「何を」
透真が聞くと、咲良は顔を上げた。
「今、そんな昔のこと掘り返してる場合じゃないでしょ」
「昔?」
「去年のこととか、関係ないかもしれないじゃん」
「俺は去年のことだとは言ってない」
咲良が言葉を失う。
透真は続けた。
「自分から言ったな」
「……性格悪い」
「よく言われる」
「誰に?」
「誰にも」
透真がそう返すと、咲良は嫌そうに顔を歪めた。
軽いやりとりに見える。
けれど、教室の空気はまったく軽くなっていなかった。
咲良は去年の何かを知っている。
葛西も知っている。
羽田も、黒川も、おそらく理沙も。
そして凛は、その中心に近い。
透真はスマホの相関図を見下ろした。
第二問の答えは、まだ見えない。
だが、クラス全体が一つの方向を向いている。
未央が謝りたかった相手。
去年の旧校舎。
誰も口にしたがらない過去。
そこに答えがある。
そのとき、スマホが震えた。
全員が身構える。
匿名アカウントからの追加メッセージだった。
> 第二問の制限時間は、残り二時間。
> 正解できなければ、相関図から一人の名前が消える。
教室の空気が凍った。
「名前が消えるって……何?」
誰かが言った。
「相関図から消えるだけ?」
「それとも……」
それ以上を、誰も口にしなかった。
未央は消えた。
だから「名前が消える」という言葉は、それだけで十分すぎる脅しだった。
葛西がスマホを握りしめる。
「二時間で答えろってことか」
「未央が謝りたかった相手の名前を?」
羽田が言う。
「でも、相手が誰かわからない。そもそも今いる人なのか、卒業した人なのか、転校した人なのかも」
「転校」
透真はその単語を繰り返した。
羽田が顔を上げる。
「何?」
「今、転校した人って言った」
「あ、いや、例として」
「例として最初に出るのは、知ってるからだろ?それも羽田が知っている奴ってことだ」
羽田は一瞬だけ口をつぐんだ。
そして、すぐに笑おうとした。
「雨宮くんって、そういう言い方するんだ」
「そういう見方しかできない」
「嫌われるよ」
「もう嫌われてる」
透真は淡々と言った。
羽田は軽く息を吐き、スマホを伏せた。
「……去年、一人いたよ」
教室の何人かが、羽田を見た。
「羽田」
葛西が低く呼ぶ。
「隠しても無理でしょ。こんなの、どうせ出される」
羽田の声は、少し投げやりだった。
「去年の二年三組に、相沢芽衣って子がいた。二学期の途中で転校した」
相沢芽衣。
その名前を聞いた瞬間、教室の温度がさらに下がった気がした。
咲良は唇を噛む。
葛西は目を伏せる。
黒川は眉をひそめ、何かを思い出したくないように顔を背ける。
理沙は、まるで最初からその名前を待っていたみたいに動かない。
凛だけが、窓の外を見つめたままだった。
――相沢芽衣。
その名前に、覚えがないわけではなかった。
去年、二年三組にいた女子。
二学期の途中で転校した生徒。
透真にとっては、それ以上でも以下でもなかった。
誰かがいなくなった。
クラスの席が一つ空いた。
その程度の出来事として、彼は処理していた。
つまり、何の印象にも残っていない。
けれど今、その名前が浮かび上がった瞬間、透真はようやく気づいた。
自分は見ていたつもりで、何も見ていなかったのだと。
「転校しただけなら、未央が謝る理由になるのか」
透真が聞く。
羽田は答えない。
代わりに、凛が言った。
「転校したあと、亡くなった」
教室に、重い沈黙が落ちた。
その言葉は、あまりにも静かに発せられた。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「……亡くなった?」
透真が聞き返す。
凛は小さく頷いた。
「詳しいことは知らない。学校もはっきり言わなかった。ただ、そう聞いた」
「相沢芽衣は、早瀬の友達だったのか」
凛は、今度はすぐには答えなかった。
窓の外に目を向けたまま、長い沈黙を置く。
「親友だった」
その言葉に、理沙の目がわずかに揺れた。
――親友。
その単語が、この教室ではもう無邪気な響きを持っていない。
「未央が謝ろうとしていた相手は、相沢芽衣か」
透真が言う。
凛は答えない。
理沙が小さく息を吸った。
「未央は……芽衣のことを、ずっと気にしてた」
初めて、理沙が自分から過去に触れた。
全員が彼女を見る。
「去年、芽衣さんが孤立していたとき、未央は何とかしようとしてた。声をかけて、一緒にお昼を食べて、文化祭の準備にも誘って……」
「それで?」
透真が促す。
理沙は唇を噛んだ。
「うまくいかなかった」
短い言葉だった。
だが、その中に多くのものが詰まっていた。
うまくいかなかった。
助けようとして、助けられなかった。
関わろうとして、傷を広げた。
優しさが、救いにならなかった。
「未央は、相沢芽衣に謝りたかったのか」
透真が言うと、凛がゆっくり振り返った。
「今さら謝って、どうするの?」
その声は静かだった。
けれど、奥に強い怒りがあった。
「死んだ人に謝って、許してもらえると思う?自分が少し楽になるだけじゃないの」
「凛」
理沙が言った。
凛は理沙を見る。
「白石さんも同じでしょ」
理沙の顔が硬くなる。
「未央が芽衣に関わるの、嫌だったんでしょ。自分の親友を取られたみたいで」
教室がざわつく。
理沙はすぐに否定しなかった。
その沈黙が、何よりも答えに近かった。
咲良が不安そうに理沙を見る。
「理沙……?」
「今は関係ない」
理沙は言った。
しかし、その声は少しだけ震えていた。
「あるよ」
凛は言う。
「みんな関係ある。未央だけじゃない。私も、白石さんも、宮野さんも、葛西くんも、羽田さんも、黒川くんも。みんな少しずつ関係ある」
「やめろよ」
黒川が低く言った。
「何でもかんでも一緒にすんな」
「一緒だよ」
凛は黒川を見た。
「一緒に見ないふりをしたんだから」
黒川は黙った。
透真は、頭の中で相関図を書き換えていた。
橘未央。
白石理沙。
早瀬凛。
相沢芽衣。
中心に未央がいたと思っていた。
だが、過去の中心には相沢芽衣がいたのかもしれない。
今の相関図から名前を消された人物。
クラスが口にしたがらない少女。
未央が謝りたかった相手。
答えは、ほとんど出ている。
しかし、透真はすぐには送信しなかった。
早すぎる答えは、時に罠になる。
「相沢芽衣が答えだとして」
透真は言った。
「相手はもう亡くなっている。それでも第二問の答えとして成立するのか」
「謝ろうとしていた相手、だから」
羽田が言う。
「生きてるかどうかは書いてない」
「そうだな」
「送る?」
羽田の声は少し急いでいた。
残り二時間。
誰かの名前が消える。
焦るのは当然だった。
けれど透真は、凛を見た。
「早瀬。相沢芽衣で間違いないと思うか?」
「私に聞くの」
「お前が一番近い」
「私は未央じゃない」
「でも芽衣の親友だった」
凛の表情がわずかに歪む。
透真は続けた。
「未央が誰に謝りたかったのか。早瀬は、本当はわかってるんじゃないのか」
凛は長く黙った。
時計の秒針の音が聞こえた気がした。
文化祭準備の音はもうない。
誰も星形の画用紙を切っていない。
誰も看板を作っていない。
教室には、ただカウントダウンと沈黙だけがあった。
「……芽衣だと思う」
凛は言った。
「でも、未央が謝るべき相手が芽衣だけだとは思わない」
その言葉の意味を、教室の誰もすぐには受け止められなかった。
理沙が少し俯く。
葛西が目を閉じる。
咲良が顔を背ける。
透真は頷いた。
「今の答えとしては、相沢芽衣でいい」
理沙がスマホを持つ。
その手は、まだ少し震えていた。
「私が送る」
「また白石が?」
黒川が言う。
「未央のことだから」
理沙は短く答えた。
誰も止めなかった。
回答欄に、文字が打ち込まれる。
> 相沢芽衣
送信。
教室の全員が、画面を見つめた。
数秒。
何も起きない。
十秒。
咲良が小さく「お願い」とつぶやく。
そして、画面が黒く変わった。
> 正解。
誰かが深く息を吐いた。
咲良は椅子に崩れるように座った。
黒川は頭をかきむしる。
葛西は力が抜けたように黒板に手をついた。
しかし、安心は長く続かなかった。
次のメッセージが表示された。
> では、思い出してもらおう。
> 君たちが消した名前を。




