第5話 「知ってるから黙ってたんだよ」
十二時十八分。
黒板前で未央が星の飾りを貼っている。
そのあと、机の上にあった薄いベージュのカーディガンを手に取る。
画面の端に映った袖口。
小さな水色の汚れ。
「あ……ある」
羽田が言った。
「ほんとにある」
理沙の顔色が変わった。
「未央、美術準備室に行ったの?」
「たぶん」
透真は凛を見た。
「そして早瀬もそこにいた」
凛は何も言わなかった。
「美術準備室って、今使ってるの?」
葛西が聞く。
「内装用の古い布とかライトを取りに行くって話は出てた。でも今日はまだ誰も行ってないはず」
理沙が答える。
透真は頷いた。
「未央は教室を出たあと、美術準備室に行った。そこで早瀬と会った」
「だから、会ってないって」
凛が言った。
声は低かった。
「じゃあ、その絵の具は?」
「知らない」
「未央のカーディガンと同じ色が同じタイミングでついた偶然?」
「そうかもね」
「無理がある」
「無理でも、会ってない」
透真は、凛を見つめた。
――この反応。
隠している。
それは確かだった。
でも、犯人として追い詰められた人間の反応ではない。
もっと別のもの。
守ろうとしている。
誰かを、あるいは何かを。
理沙が凛に一歩近づいた。
「早瀬さん。お願い。未央と会ったなら教えて。未央がどこに行ったのか、何を言っていたのか、それだけでいいから」
凛は理沙を見た。
「親友なのに知らないんだ」
理沙の表情が固まる。
その一言は、わざとだった。
凛は理沙の一番痛いところを正確に突いた。
咲良が怒ったように言う。
「凛、今そういうこと言う場面じゃないでしょ」
「じゃあどういう場面?」
「未央がいなくなってるんだよ!」
「知ってる」
「なら――」
「知ってるから黙ってたんだよ」
凛の声が、わずかに震えた。
初めてだった。
それまで冷たく平坦だった凛の声に、感情が混じった。
透真はそれを聞き逃さなかった。
理沙も同じだったのだろう。
彼女は咲良を手で制し、凛だけを見た。
「どういう意味?」
凛は唇を噛んだ。
言いたくない。
でも、もう隠しきれない。
そんな顔だった。
「……会ったよ」
凛は言った。
教室が息を呑む。
「十二時過ぎ。美術準備室で。未央と会った」
咲良が口元を押さえた。
「なんで嘘ついたの」
凛は答えない。
「凛!」
「言いたくなかったから」
「未央が危ないかもしれないのに?」
「だから言いたくなかったんだよ!」
凛が初めて声を荒げた。
その声に、教室全体が固まる。
凛自身も、自分の声の大きさに驚いたように一瞬黙った。
そして、小さく息を吐く。
「……未央は、誰かに謝りたいって言ってた」
理沙の目が揺れた。
「誰に?」
「知らない」
「本当に?」
「名前は言わなかった」
「何て言ってたの」
凛は少し目を伏せた。
「もう一度だけ、ちゃんと謝りたい人がいるって」
その言葉は、教室の空気をまた変えた。
謝りたい人。
未央が。
誰に?
「それ、凛にじゃないの?」
咲良が言った。
「だって、未央と凛って……」
「私じゃない」
凛は即座に否定した。
「未央は私に謝りたいわけじゃなかった。むしろ、私には聞きたかっただけ」
「何を」
葛西が聞く。
凛は少しだけ黙ったあと、言った。
「まだ、許さなくていいと思うかって」
「許す?」
黒川が眉をひそめる。
「誰を?」
「知らない」
凛は繰り返した。
「でも、たぶん……未央はずっと誰かに謝りたかったんだと思う。自分が謝って楽になりたいだけかもしれないけど」
「そんな言い方――」
咲良が言いかけたが、凛は止まらなかった。
「未央は優しいよ。みんなが思ってる通り。明るくて、誰にでも声かけて、困ってる人を放っておけない。そういう人」
凛の声は静かだった。
「でも、優しい人がいつも正しいとは限らない」
その言葉に、理沙の指がわずかに動いた。
「未央が何をしたっていうの」
理沙が聞いた。
凛は理沙を見た。
その目には、責めるような色があった。
「それを本当に知らないなら、親友って何なんだろうね」
「早瀬さん」
葛西が低く言う。
「今はそういう――」
「また?」
凛が葛西を見る。
「また、今はそういうことじゃないって言うの?」
葛西は言葉を失った。
凛は彼をしばらく見たあと、視線を外した。
「ごめん。言いすぎた」
謝罪の言葉だったが、謝っているようには聞こえなかった。
透真は、今のやりとりを頭の中で並べていた。
未央は凛と会った。
美術準備室で。
十二時十八分から二十一分の間。
未央は誰かに謝りたいと言った。
凛に「まだ、許さなくていいと思うか」と聞いた。
許す。
謝る。
未央が背負っている何か。
そして、凛は未央を嫌っている。
同時に、未央を救いたいとも思っている。
相関図が表示していた、憎悪と救済願望。
あれは、嘘ではない。
「未央はそのあと、どこへ行った」
透真が聞いた。
凛は首を横に振った。
「知らない」
「見送った?」
「見送ってない」
「嘘だな」
凛の目が透真に戻る。
「なんで?」
「未央のカーディガンに絵の具がついたのは、美術準備室に入ったからだ。でもお前の靴の絵の具は側面についてる。床に垂れた絵の具を踏んだんじゃない。誰かとすれ違ったときに、箱か布に擦れた汚れだ」
「だから?」
「美術準備室の入口の横に、古い背景布の箱が置いてある。そこを通らないと出られない。二人が別々に入って別々に出たなら、同じ場所に同じような汚れはつかない」
透真は凛の靴を見た。
「一緒に出たか、出口で揉めたか。そのどっちかだ」
凛は黙った。
今度の沈黙は、答えだった。
「凛」
理沙の声が震えていた。
「お願い。未央を助けたいの」
凛は理沙を見た。
そして、初めて少しだけ苦しそうな顔をした。
「……階段のほうへ行った」
「どこの?」
「旧校舎側」
教室がざわつく。
理沙は旧校舎という言葉に、ほんの一瞬だけ反応した。
知っている場所を、知らないふりで聞いたような反応だった。
旧校舎。
今はほとんど使われていない校舎だった。
文化祭準備の備品置き場として、一部の教室や倉庫が使われている。生徒が自由に出入りする場所ではない。
「なんで旧校舎に?」
葛西が聞く。
「知らない」
「また知らないかよ」
黒川が苛立つ。
凛は黒川を睨まなかった。
ただ、疲れたように言った。
「本当に知らない。未央は、一人で行くって言った。私が止めても、聞かなかった」
「止めたの?」
理沙が聞く。
凛は小さく頷いた。
「行かないほうがいいって言った。今さら謝ったって、戻らないものは戻らないって」
「戻らないもの?」
理沙の声がかすれる。
――「もし私が戻れなくなったら」
ふと、凛の脳裏に未央のあの時の姿が蘇る。
未央は一度だけ、そんなことを言いかけた。
けれどすぐに首を振って、「なんでもない」と笑っていた。
「気にしないで」
そう、理沙に言い放ち凛は、また口を閉じた。
それ以上は言わない、という顔だった。
透真はスマホを見た。
匿名アカウントに回答欄が表示されている。
> 第一問の答えを入力してください。
教室の全員が、その画面を見ていた。
「答え、早瀬でいいのか?」
黒川が言う。
「未央が最後に会ったのは凛なんだろ?」
「最後かどうかはわからない」
葛西が慎重に言う。
「旧校舎に行ったなら、その先で別の誰かに会った可能性もある」
「でも、問題のヒントには合ってる」
羽田が言った。
「相関図上で未央と繋がっていない人物。今の表示だと、早瀬さんは繋がってない」
「更新で消したんだろ。犯人が答えに誘導してる可能性もある」
透真が言うと、羽田は少し驚いたように彼を見た。
「じゃあ、早瀬さんじゃないってこと?」
「いや」
透真は凛を見た。
「答えは早瀬でいい」
「根拠は?」
理沙が聞く。
「犯人がヒントで誘導しているなら、目的は俺たちに早瀬を疑わせることだ。でも第一問でいきなり誤答させるより、正解させたほうがゲームは続く。犯人は俺たちに解かせたい。少なくとも今はな」
「つまり、早瀬さんを答えさせたい?」
「そして、早瀬が隠していたことを暴かせたい」
透真は言った。
「このゲームの目的は、未央の居場所を教えることじゃない。クラスの関係を剥がすことだ!」
その言葉に、誰も反論しなかった。
咲良が小さく言う。
「じゃあ、凛を答えに送るの?」
理沙は画面を見つめていた。
凛の名前を送る。
それは、凛を犯人だと決めつけることではない。
けれど、クラス全員の前で「未央が最後に会った人物」として差し出すことになる。
理沙は凛を見る。
凛は、何も言わなかった。
その顔は、諦めているようにも、挑んでいるようにも見えた。
「私が送る」
理沙が言った。
「いいのか」
葛西が聞く。
「未央を探すためなら」
理沙は回答欄に文字を打つ。
早瀬凛。
送信。
数秒間。
教室の誰もが息を止めた。
そして、画面が黒く切り替わる。
> 正解。
短い文字が表示された。
同時に、教室の何人かが大きく息を吐いた。
咲良は机に手をつき、黒川は「よし」と小さく言った。
葛西はほっとしたように目を閉じた。
羽田は画面をスクリーンショットしようとして、できないことに気づき舌打ちした。
理沙だけは、安心していなかった。
正解。
それは未央に近づいたという意味のはずだった。
だが、凛が最後に会っていたことが明かされた。
未央が誰かに謝りたがっていたことが明かされた。
未央の優しさに傷ついた人間がいたことが明かされた。
正解するたびに、何かが壊れていく。
透真はそう感じた。
画面に、新しいメッセージが表示される。
> よくできました。
> では、第二問。
誰かが小さく「もう?」とつぶやいた。
文章は続いた。
> 橘未央が謝ろうとしていた相手は誰か。
教室の空気が、さらに重くなる。
謝ろうとしていた相手。
未央は誰に謝るつもりだったのか。
凛は「名前は聞いていない」と言った。
だが、彼女は明らかに何かを知っている。
相関図が再び更新された。
未央の名前の周囲にノイズが走る。
理沙との線が濃くなる。
咲良との線が揺れる。
葛西の名前の近くに、薄い影のようなものが浮かぶ。
そして、未央の名前から、誰もいない空白へ向かって一本の赤い線が伸びた。
線の先には、名前がなかった。
ただ、こう表示されていた。
> ???
> 後悔
理沙の顔から血の気が引いた。
葛西が画面を見つめたまま固まる。
咲良は何かに気づいたように口を開き、しかし何も言わなかった。
凛は目を閉じた。
透真は、その反応を順番に見た。
このクラスは、知っている。
未央が謝ろうとしていた相手のことを。
いや、正確には――その相手に繋がる何かを知っている。
透真は黒板の前に立つ葛西の手元を見た。
彼が握っているチョークが、折れそうなくらい強く握られている。
理沙はスマホを見たまま動かない。
咲良は俯き、唇を噛んでいる。
羽田は画面から目を逸らした。
黒川は「誰だよ」と言いながら、誰かに答えてほしくなさそうな顔をしている。
そして凛は、ぽつりと言った。
「……まだ出すんだ」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
匿名アカウントなのか。
未央なのか。
それとも、この教室にいる誰かなのか。
透真は、自分の中で何かが動くのを感じた。
それは問題が解けたことによる一種の快楽のようなものかもしれない。
不思議なことに透真自身には謎の高揚感があふれていた。
最初の問題は解けた。
だがこれは、未央の居場所に近づくゲームではない。
クラスの奥に隠されていたものを、一つずつ掘り返すゲームだ。
掘り返して、剥がして、友情という名の線を消す。
そして、未央が謝ろうとしていた相手は、おそらく今ここにはいない。
相関図の空白。
名前のない誰か。
後悔。
透真は、静かにスマホを閉じた。
「次は」
彼は言った。
声は小さかったが、教室にいた何人かがこちらを見た。
「過去の話になる。それも今はこの場に居ないんだろ?」
誰も、その言葉を否定しなかった。
カウントダウンは進み続けている。
> 70:58:13
七十二時間は、まだ始まったばかりだった。




