第36話 「ありがとう」
文化祭。
ほんの二日前まで、二年三組はそれを楽しみにしていた。
星形の飾りを作り、メニュー名を考え、看板を描き、写真を撮る予定を立てていた。
だが、その裏で過去の線が腐っていた。
文化祭どころではない。
そう言えば、それまでだ。
けれど、完全に何もしないことが正しいのかは、誰にもわからなかった。
葛西が教卓の前に立った。
「明日の文化祭だけど」
全員が顔を上げる。
「先生とも話した。二年三組の出し物は、予定通りの形ではできない。未央も休むし、桃井と瀬戸も対応がある。準備も全然進んでない」
咲良が少しだけ俯く。
「だから、中止でも仕方ないと思う」
葛西は続けた。
「でも、もしみんながいいなら、規模を小さくしてやりたい」
「小さく?」
田辺が聞く。
「飲み物と簡単なお菓子だけ。内装も最低限。宣伝もほとんどしない。クラス外へ大きくアピールするんじゃなくて、来た人を静かに迎えるくらいの形で」
羽田が小さく言う。
「星空カフェ、縮小版?」
「うん」
葛西は頷いた。
「無理して明るくやる必要はない。でも、全部なかったことにして片付けるのも違う気がする」
教室に沈黙が落ちる。
咲良が田辺を見る。
「麻衣は?」
「私は……」
田辺は少し迷う。
「やるなら、裏方がいい」
「じゃあ一緒に裏方やろ」
「咲良ちゃん、接客じゃなくていいの?」
「今は、麻衣と裏方やる」
田辺は小さく笑った。
凛は写真をしまいながら言う。
「私は、表には出ない」
葛西が頷く。
「わかった」
「でも、小道具なら手伝う」
凛のその言葉に、理沙が少し驚いた顔をした。
凛は視線を逸らしながら続ける。
「星の飾り、まだ途中でしょ」
「……うん」
理沙は頷いた。
「じゃあ、一緒にやってもいい?」
凛は少しだけ間を置いてから、答えた。
「いいよ」
理沙は、ほんの少し笑った。
それは和解ではない。
でも、会話の始まりだった。
黒川は頭をかいた。
「じゃあ俺、机とか運ぶわ。力仕事」
「今まで通りだな」
透真が言うと、黒川は睨む。
「一言多いんだよ」
「知ってる」
「あと、お前も手伝えよ」
「俺?」
「そうだよ。メニュー表の字、きれいなんだろ」
黒川が顎で黒板を指した。
未央が最初に言った言葉。
雨宮くん、字きれいだから助かる。
透真は少しだけ顔をしかめた。
「誰から聞いた」
「未央が言ってた」
「……そうか」
「だから書け」
「命令か」
「お願いだよ」
黒川は、わざとらしく両手を合わせた。
「雨宮様、メニュー表を書いてください」
「気持ち悪い」
「じゃあ普通に頼む。書いてくれ」
透真は机の上に残っていた黒いメニュー台紙を見た。
白いペンも、その横に置かれている。
事件が始まる直前、彼が書こうとしていたものだ。
星空ソーダ。
月見ココア。
流星クッキー。
くだらない名前だと思った。
今でも少し思う。
けれど、書かない理由はなかった。
「わかった」
透真が言うと、黒川は少し驚いた顔をした。
「素直だな」
「やっぱりやめるか」
「いや、お願いします」
黒川が慌てて言う。
教室に、ほんの小さな笑いが生まれた。
それは、事件が始まってから初めての自然な笑いだった。
大きくはない。
明るすぎるわけでもない。
けれど、確かに誰かを傷つけるためではない笑いだった。
透真は白いペンを手に取った。
黒い台紙の上に、ゆっくり文字を書く。
星空ソーダ。
月見ココア。
流星クッキー。
未央が考えたのか、咲良が考えたのか、誰が考えたのかは知らない。
けれど、書いてみると意外と悪くなかった。
窓際では、凛と理沙が星形の画用紙を切り始めている。
咲良と田辺は机を並べる。
葛西は縮小版のシフト表を作り直す。
羽田は、明日の案内文を「静かに営業します」と書き換えている。
黒川は段ボールを運び、瀬戸のいない分まで黙って動いている。
榊原は、教室の後ろでその様子を見ていた。
今度は、見ているだけではなく、必要なときに声をかけられる距離で。
夕方近くになって、未央が教室を覗きに来た。
保健の先生に付き添われ、無理のない範囲でという条件付きだった。
教室にいた全員の手が止まる。
未央は、少し困ったように笑おうとして、途中でやめた。
それから、小さく頭を下げた。
「……戻ってきました」
その言葉に、理沙の目が潤む。
けれど彼女は飛びつかなかった。
未央のそばへ行き、そっと言った。
「おかえり」
未央は理沙を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「ただいま」
凛は、少し離れた場所から未央を見ていた。
未央も凛に気づく。
二人の間に、長い沈黙が落ちる。
未央が口を開きかけた。
謝ろうとしたのだろう。
けれど凛が先に言った。
「今じゃない」
未央は少し驚いた顔をした。
凛は続ける。
「ちゃんと聞けるときに聞く。だから、今は休んで」
未央の目に涙が浮かんだ。
「うん」
それだけで、今は十分だった。
未央は教室の中を見回す。
縮小版の星空カフェ。
まだ不揃いな星の飾り。
書き直されたシフト表。
黒い台紙に白く書かれたメニュー。
そして、黒板。
そこには、事件の時系列はもう消されていた。
透真が消したわけではない。
理沙、凛、咲良、田辺、葛西、羽田、黒川が、少しずつ消していった。
ただ一つだけ、黒板の隅に残されている言葉がある。
――誰か一人を選ばないこと。
未央はそれを見つけると、静かに目を伏せた。
「雨宮くん」
呼ばれて、透真はメニュー表から顔を上げる。
「何」
「ありがとう」
「それはさっき聞いた」
「何回言ってもいいでしょ」
「礼は一回で足りる」
「足りないよ」
未央は、少しだけ笑った。
今度は、無理に場を和ませるための笑顔ではなかった。
弱くて、疲れていて、それでも自分のものだとわかる笑顔だった。
「雨宮くん、字きれいだね」
透真は手を止めた。
事件の始まりの日と同じ言葉。
けれど今は、少し違って聞こえた。
「誰にでも言ってるんだろ」
透真が言うと、未央は少しだけ首を傾げた。
「うん。いいと思ったら言うよ」
「そうか」
「だめ?」
「いや」
透真は台紙に最後の文字を書き入れた。
夜空のホットケーキ。
「前よりは、悪くない」
未央は少し驚いて、それから笑った。
「そっか」
教室の外では、文化祭前日の夕方の音がしていた。
机を運ぶ音。
誰かの笑い声。
先生の注意する声。
窓の外の風。
二年三組の準備は、遅れている。
傷も残っている。
明日、何事もなかったように笑うことはできない。
でも、何事もなかったことにはしないまま、明日を迎えることはできるかもしれない。
透真は、完成したメニュー表を黒板の横に立てかけた。
白い文字が、黒い台紙の上で少しだけ光って見えた。
星空カフェ。
事件のあとに残った、ささやかな名前。
明日が最終日になる。
文化祭当日。
そして、このクラスが自分たちの線を引き直す、最初の日になる。




