第35話 「親友って面倒だな」
友情相関図が消えたあとも、教室はすぐには元に戻らなかった。
スマホの画面は、何事もなかったように普通のホーム画面を映している。
通知もない。
カウントダウンもない。
人の感情を勝手に数値化する線も、もう表示されない。
それでも、二年三組の中には、まだ線が残っていた。
目には見えない。
数字にもならない。
けれど、確かにそこにある線。
未央と理沙。
未央と凛。
咲良と田辺。
瀬戸と未央。
桃井とクラス。
葛西と榊原。
そして、相沢芽衣という名前へ伸びる、まだ誰もきちんと結び直せていない線。
雨宮透真は、黒板の前に立っていた。
黒板には、事件の時系列がまだ残っている。
橘未央、失踪。
第一問、最後に会った人物。
第二問、謝ろうとしていた相手。
第三問、最初に消した人物。
第四問、友情値。
第五問、本当に守ろうとしていた人物。
第六問、第二備品庫へ導いた人物。
第七問、鍵を閉めた人物。
第八問、存在しない線。
最終問題、本当の親友。
その横に、文化祭準備の名残がある。
喫茶・星空カフェ。
メニュー係。
内装係。
買い出し係。
当日シフト。
星空ソーダ。
月見ココア。
流星クッキー。
異常な言葉と、文化祭らしい浮かれた言葉が、同じ黒板に混ざっていた。
それが、今の二年三組そのものだった。
「消すの?」
背後から声がした。
振り返ると、白石理沙が立っていた。
未央は保健室で休んでいる。
救急搬送までは必要ないと判断されたが、しばらく安静にするよう言われていた。
榊原は学年主任と生活指導の教師に事情を説明しに行った。
桃井と瀬戸も、別室で話を聞かれている。
すべてがすぐに許されるわけではない。
学校側の対応も、保護者への連絡も、これからだ。
それでも今、この教室には少しだけ時間が戻ってきていた。
「消さないほうがいいか?」
透真が聞くと、理沙は黒板を見た。
「わからない」
「消したいのか」
「消したくもある」
「残したくもある?」
「うん」
理沙は小さく頷いた。
「残っていたら、忘れない気がする。でも、残っていると、ずっと責められている気もする」
「便利だな、黒板って」
「何が?」
「都合のいい記憶にも、都合の悪い記憶にもなる」
理沙は少しだけ苦笑した。
「あなた、最後までそういう言い方なのね」
「直す予定はない」
「少しは直したほうがいいと思う」
「検討する」
「絶対しない返事ね」
理沙は、黒板の「最終問題本当の親友」という文字を見つめた。
その横に、透真が書いた言葉がある。
誰か一人を選ばないこと。
理沙は指先でその文字をなぞるように空中を動かした。
「私、未央の親友でいたかった」
「知ってる」
「でも、それを言い訳にしてた」
「それも知ってる」
「未央を一番わかってるって思いたかった。未央が私に言わなかったことがあると、それだけで裏切られたみたいに感じてた」
「親友って面倒だな」
「面倒よ」
理沙は、少しだけ笑った。
その笑顔は、まだ弱い。
けれど、事件の最中に見せていた張り詰めた顔ではなかった。
「でも、たぶん面倒だから大事なんだと思う」
「俺にはまだわからない」
「でしょうね」
理沙はあっさり言った。
透真は少しだけ眉を上げる。
「随分だな」
「あなたに、いきなり友情を信じますみたいな顔されたら、逆に怖いもの」
「それはそうだな」
二人の間に、小さな沈黙が落ちる。
気まずい沈黙ではなかった。
何かを急いで埋めなくてもいい沈黙。
透真にとっては、少し珍しい感覚だった。
教室の後ろでは、咲良と田辺が机を並べ直していた。
昨日までの二人なら、咲良が指示して、田辺がそれに合わせていたかもしれない。
でも今は違った。
「こっちの机、もう少し窓側じゃない?」
田辺が言う。
「え、そう?」
「写真撮るなら、入口側に空間あったほうがいいと思う」
「あー……確かに。じゃあ、こっち?」
「うん」
「麻衣、けっこう配置見るのうまいね」
「……便利?」
田辺が小さく言う。
咲良の手が止まった。
少し前なら、その一言で空気が壊れていたかもしれない。
けれど咲良は、逃げなかった。
「違う」
彼女は言った。
「うまいって思ったから言った。でも、私がまたそういう言い方してたら、言って」
田辺は咲良を見た。
「言ったら、怒らない?」
「たぶん、ちょっと傷つく」
「そこは怒らないって言ってよ」
「嘘つくのも違うかなって」
咲良が困ったように笑う。
「でも、聞く。ちゃんと聞く」
田辺は少しだけ迷ってから、頷いた。
「じゃあ、言う」
「うん」
「今のは、ちょっと怖かった」
「ごめん」
「でも、褒めてくれたのは……嬉しかった」
咲良は泣きそうな顔で笑った。
「そっか」
そのやりとりを、凛が少し離れたところから見ていた。
透真は、凛の横顔を見る。
凛は昨日までよりも、ずっと静かだった。
怒りが消えたわけではない。
悲しみが消えたわけでもない。
ただ、それらを握りしめる手の力が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
凛は、机の上に一枚の写真を置いていた。
去年の文化祭準備中の写真。
相沢芽衣が写っている。
控えめな笑顔。
隣に立つ凛。
少し離れたところに未央。
その周囲に、今この教室にいる生徒たち。
凛はその写真を、捨てるでも隠すでもなく、机の上に置いた。
理沙がそれに気づき、少し躊躇してから近づいた。
「凛さん」
「何」
「その写真、文化祭の展示には使わないほうがいいよね」
「使わない」
凛は短く答える。
「これは、見せ物じゃないから」
「うん」
理沙は頷いた。
それから少し迷い、言った。
「でも、捨てないでほしい」
凛は理沙を見る。
「捨てないよ」
「……よかった」
「理沙さんに言われなくても、捨てない」
「それはそうね」
二人の会話はぎこちない。
親しくなったわけではない。
許し合ったわけでもない。
けれど、言葉を交わしている。
その事実が、ほんの少しだけ前進に見えた。
葛西は、榊原と一緒に職員室から戻ってきた。
榊原の表情は硬かった。
これから学校としての対応が始まるのだろう。
桃井と瀬戸の行為は軽く済むものではない。
理沙と未央が計画したことも、クラスを混乱させた責任がある。
榊原自身も、去年の対応について問われることになる。
全部が簡単に収まるはずがなかった。
それでも榊原は、教室の入口で立ち止まり、深く頭を下げた。
「お前たちに、話さなければならないことがたくさんある」
教室の空気が少し硬くなる。
「だが、その前に一つだけ言わせてほしい」
榊原は、未央の空席を見た。
そして、凛を見た。
最後に、教室全体を見た。
「去年、俺は相沢のことを見誤った。橘に任せすぎた。葛西にも、白石にも、クラスにも、正しい形で向き合わなかった」
誰も言葉を挟まない。
「謝って済むことではない。だから、ここからは学校としてきちんと動く。相沢のことも、今回のことも、なかったことにはしない」
凛が静かに言った。
「それを、去年言ってほしかったです」
榊原は目を伏せた。
「その通りだ」
「今からでも、言わないよりはいいと思います」
凛の声は、冷たくも温かくもなかった。
ただ、事実を述べる声だった。
榊原は、もう一度頭を下げた。
黒川は、その様子を居心地悪そうに見ていた。
「なあ」
彼は透真の近くに来て、小声で言った。
「明日の文化祭、どうすんだよ」
「俺に聞くな」
「いや、お前がなんか決めそうな空気だったから」
「俺は実行委員じゃない」
「でも昨日から、だいたいお前が仕切ってたじゃん」
「非常時だったからだ」
「今もまあまあ非常時だろ」
透真は黒川を見る。
黒川は視線を逸らした。
「中止かな」
彼の声は、少しだけ寂しそうだった。




