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友情相関図  作者: えんびあゆ


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第30話 「その判断が正しかったとは、今は思っていない」

保健室の扉が閉まる音は、思ったよりも小さかった。

けれど、その音が廊下に落ちた瞬間、残された生徒たちは誰も動けなくなった。


白石理沙と早瀬凛が、橘未央のもとへ入っていった。

廊下に残されたのは、雨宮透真、葛西悠真、羽田千尋、黒川奏太、宮野咲良、田辺麻衣、瀬戸真琴、桃井紗季。


そして、少し離れたところに榊原直人がいた。


担任の榊原は、保健室の前で立ち尽くしている生徒たちを見ていた。

何かを聞きたい。

何かを言わなければならない。

だが、どこから踏み込めばいいのかわからない。


そんな顔だった。


透真は、榊原のその表情を見て思った。

この大人は、たぶん本当に何もしなかったのだ。


悪意を持って見捨てたわけではない。

生徒を傷つけようとしたわけでもない。

むしろ、問題を大きくしないことが、生徒たちのためだと思っていたのかもしれない。


けれど、それが一番厄介だった。

誰かを傷つけるのは、いつも強い悪意だけではない。


善意。

配慮。

様子見。

今は刺激しないほうがいい。

本人が話したくなったら聞こう。

クラス全体の空気もある。


そういう、正しそうな言葉が人を黙らせる。

透真は、手の中の割れたスマホを見る。


相沢芽衣のスマホ。

かつて佐伯芽衣だった少女のイニシャル、S.M.のシール。


これが第二備品庫にあった。

そして匿名アカウントは言った。


> 第八問。

> 相沢芽衣のスマホを、第二備品庫に隠した人物は誰か。

> 答えは、存在しない線の先にある。


存在しない線。


相関図には、クラスメイト同士の関係ばかりが表示されていた。

けれど、去年の相沢芽衣の件に、担任である榊原の線がないはずがない。


芽衣と榊原。

未央と榊原。

葛西と榊原。


そこに線がないこと自体が、最大の違和感だった。


「先生」

透真は口を開いた。


榊原がこちらを見る。

「何だ」

「相沢芽衣のスマホを、第二備品庫に隠しましたか」

廊下が一瞬で静まり返った。


葛西が息を呑む。

羽田がスマホから顔を上げる。

凛と理沙はまだ保健室の中にいる。

咲良は田辺の手を握ったまま、固まっている。


榊原の顔から、血の気が引いた。

答えは、それだけで十分だった。


「雨宮」

榊原は低い声で言った。


「どうして、それを」

「第二備品庫にありました」

透真は割れたスマホを見せる。


「裏にS.M.のシール。凛が相沢芽衣のものだと確認しました」

榊原は、ゆっくりスマホを見た。

その目には、驚きよりも、戻ってきてしまったものを見るような苦しさがあった。


「……まだ、あったのか」


葛西が、震える声で言う。

「先生、知ってたんですか」


榊原はすぐには答えなかった。

その沈黙に、廊下の温度が下がる。


「去年」

榊原はようやく話し始めた。

「相沢が転校する前、彼女の母親から相談があった」

「相談?」

葛西が聞く。

「芽衣の様子がおかしい。学校で何かあったのではないか、と」

榊原の声は、ひどく重かった。

「俺は、本人とも話した。だが相沢は、何も言わなかった。大丈夫です、とだけ言った」


凛が保健室に入っていてよかったのかもしれない。

透真はそう思った。

今この場でその言葉を聞いたら、凛はどんな顔をしただろう。


「そのあと、相沢の母親がスマホを持ってきた」

「どうして」

羽田が聞いた。


「学校でのやりとりを見てほしい、と。本人の許可は取ったと言っていた。そこには、グループチャットの履歴、動画、スクリーンショットが残っていた」


桃井紗季が、少しだけ顔を伏せた。

羽田も、目を逸らす。


「そこに、いじめの証拠があったんですか」

葛西が言った。


榊原は、苦しそうに首を横に振った。

「証拠と呼ぶには、どれも弱かった」

「弱かった?」

黒川が声を荒げる。


「動画があったんだろ?メッセージもあったんだろ?」

「からかい、悪ふざけ、陰口、切り取られた動画。確かにあった。だが、誰か一人が明確に相沢を攻撃していると断定できるものではなかった」

「だから?」


透真が聞く。

榊原は目を伏せた。


「だから俺は、学年主任に相談した。家庭とも話し合った。そのうえで、相沢を刺激しすぎないように、まずはクラスの様子を見ながら対応することになった」

「様子を見る」

透真は繰り返した。


その言葉は、この物語の中で何度も形を変えて出てきた。


見て見ぬふり。

今は言わない。

大事にしない。

誰かが話すまで待つ。


榊原は言った。


「その判断が正しかったとは、今は思っていない」

「今は?」


透真の声は冷たかった。


「じゃあ、その時は正しいと思ってたんですか」

「……思おうとしていた」


榊原は、ほとんど絞り出すように言った。


「問題にすれば、相沢がもっと傷つくと思った。クラスの中で彼女だけが特別扱いされることになる。誰が悪いかを探し始めれば、余計に孤立する。そう考えた」

「それで、スマホは」


透真が問う。

榊原は割れたスマホを見る。


「一時的に預かった。データを確認するために。だが、相沢の転校が決まり、母親からは返却を急がなくていいと言われた。本人も、もういらないと」

「それを第二備品庫に隠した」

「隠したつもりはなかった」


榊原は言った。

しかし、その言葉には力がなかった。


「文化祭の片付けのとき、資料と一緒に保管した。後で返そうと思っていた。でも、返せないまま……」

「忘れた」

透真が言うと、榊原は目を閉じた。


「忘れたわけじゃない」

「では、忘れたことにした」


榊原は何も言わなかった。

それが答えだった。


廊下の空気が重く沈む。

存在しない線。


芽衣から榊原へ。

榊原から芽衣へ。


それは教師と生徒の線であり、責任の線だった。


相関図は友情ばかりを暴いていた。

けれど、本当はその外側に、大人の沈黙があった。


「先生」


葛西が言った。

声が震えている。


「俺、去年の席替えのこと、先生に言われたからって……ずっとそう思ってました。でも、俺も決めたんです」


榊原は葛西を見る。


「葛西」

「先生も、俺も、クラスのためって言葉で、芽衣さんを一人にしたんですか」


榊原は答えなかった。

答えられるはずがなかった。


その時、保健室の扉が開いた。


白石理沙が出てきた。

その後ろに、早瀬凛もいる。


二人とも顔色が悪い。

だが、泣いてはいなかった。


「未央が」

理沙は小さく言った。

「話してくれた」

全員が彼女を見る。


理沙は榊原を見た。

その視線には、怒りと失望があった。

そして、それ以上に痛みがあった。


「去年、未央は先生に相談したんですね」

榊原の顔が動く。

「橘が、そう言ったのか」

理沙は頷いた。


「芽衣さんが笑えなくなってる。接客練習の動画が回ってる。クラスの空気がおかしい。自分ではどうすればいいかわからないって」


榊原は、深く息を吸った。

「相談は受けた」

「先生は、何て言ったんですか」

凛の声だった。

静かで、冷たい声。


榊原は答えづらそうに目を伏せた。

「橘には……一人で抱え込まなくていい、と言った。こちらでも様子を見る、と」


凛が笑った。

笑い声ではなかった。


「また、様子を見る」


榊原は何も言えない。

凛は続けた。


「未央は、その言葉を信じたんですね。大人が見てくれるなら、自分が動きすぎなくてもいいかもしれないって。でも先生は、何もしなかった」

「何もしなかったわけでは――」

「芽衣は転校しました」

凛の声が、榊原の言葉を切った。


「その後、亡くなりました」


廊下に、誰も動けない沈黙が落ちる。

榊原の顔が歪んだ。


「知っている」

「知ってるだけですか」


凛は問う。

「それも、聞くだけですか」


榊原は、今度こそ完全に沈黙した。

透真はスマホを見る。


第八問。


> 相沢芽衣のスマホを、第二備品庫に隠した人物は誰か。


答えはもう見えている。


榊原直人。


しかし、ここで榊原の名前を送ればいいのか。

相関図は、また誰か一人を答えとして差し出させようとしている。


だが、スマホを隠した人物が榊原であることは、おそらく事実だ。

答えなければ進まない。


葛西が言った。

「俺が送ります」

「葛西」

榊原が顔を上げる。


「俺、先生に責任を押しつけたいわけじゃありません。でも、これを曖昧にしたら、また同じことになる」


葛西はスマホを握る。

「去年、俺は様子を見る側にいました。だから今度は、答えます」

彼は回答欄に文字を打った。


> 榊原直人


送信。


全員のスマホが黒くなる。


数秒。


そして、文字が表示された。


> 正解。


誰も息を吐かなかった。

続けて、メッセージ。


> でも、彼は主催者ではない。

> 彼は、線を見なかった大人。


榊原は、画面を見たまま動けなかった。

さらに、相関図が更新される。

今まで表示されていなかった線が、ゆっくりと浮かび上がる。


> 相沢芽衣 → 榊原直人

> 期待 54%


> 榊原直人 → 相沢芽衣

> 管理対象 62%

> 後悔 91%


> 橘未央 → 榊原直人

> 相談 78%


> 榊原直人 → 橘未央

> 任せすぎた生徒 84%


理沙が画面を見て、息を呑んだ。

「任せすぎた生徒……」


未央は、生徒だった。


クラスの空気を柔らかくする便利な存在ではない。

揉め事を収めてくれる中心人物でもない。

誰かを救うために存在している少女でもない。


ただの高校生だった。

なのに、大人も、クラスメイトも、未央自身も、そのことを忘れていた。


榊原は、両手で顔を覆った。


「俺は……橘に任せすぎた」


その声は、初めて教師ではなく、一人の大人の後悔として聞こえた。


「クラスの空気を、彼女が何とかしてくれると思っていた。相沢のことも、早瀬のことも、白石のことも、橘が間にいれば大丈夫だと……どこかで思っていた」


未央を中心にした相関図。


それは、生徒たちだけが作ったものではなかった。

大人もまた、未央を中心に置いていた。

そして未央は、その中心から逃げられなかった。


スマホが再び震えた。


> これで、存在しない線は見えた。

> では、最後の問題へ進もう。


全員が画面を見る。


> 最終問題。

> 橘未央の本当の親友は誰か。


その問いが表示された瞬間、廊下の空気が凍った。

最初に届いたメッセージ。


> 橘未央を救いたければ、72時間以内に彼女の“本当の親友”を答えろ。


すべては、この問いに戻ってきた。


――本当の親友。


白石理沙か。

早瀬凛か。

田辺麻衣か。

相沢芽衣か。

それとも、別の誰かなのか。


理沙は画面を見つめたまま、動けない。

凛も、咲良も、田辺も、瀬戸も、誰も言葉を出せない。

桃井だけが笑みを浮かべて、透真の次の行動に期待を寄せている。

透真は、その問いを見た瞬間、強い違和感を覚えた。


この問いは、最初からおかしかった。

未央を救うために、本当の親友を答えろ。

親友を一人に決めろ。

未央の関係を、一本の線にしろ。


それこそが、このゲームの最大の罠だったのではないか。


「……違う」


透真は呟いた。

理沙が彼を見る。


「何が?」

「この問い自体が間違ってる」


スマホの画面では、最終問題のカウントダウンが始まっている。


> 制限時間

> 12:00:00


残り十二時間。

最後の問い。

橘未央の本当の親友は誰か。


透真は、未央のいる保健室の扉を見た。


未央は今、弱っている。

けれど生きている。


そしてこの問いに答えなければ、ゲームは終わらない。

だが、誰か一人の名前を答えた瞬間、また誰かが消える気がした。


理沙を答えれば、凛が消える。

凛を答えれば、理沙が消える。

芽衣を答えれば、生きている者たちの線が消える。

田辺を答えれば、咲良が。

透真を答えれば、全員が。


友情相関図は、ずっとそうしてきた。

一人を答えさせることで、他の線を切ってきた。


透真は、スマホを握りしめる。

ここから先は、問題に答えるだけでは足りない。


ゲームのルールそのものを壊さなければならない。

そのためには、透真自身が動くしかなかった。


観察者のままでは、終われない。

彼は静かに言った。


「最終問題は、俺が解く」


理沙が驚いたように見る。


「雨宮くんが?」

「いや」


透真は周囲を見た。

理沙。凛。咲良。田辺。葛西。羽田。黒川。瀬戸。桃井。榊原。


「俺たちで解く」


誰も、すぐには否定しなかった。

最終問題が始まった。

そして今度こそ、相関図に従って答えるのではない。


相関図そのものを否定するための、最後の十二時間が始まった。

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