第26話 「あなたは、友達を信じていないんじゃない」
視聴覚準備室の空気が、止まった。
古いモニター。
絡まったケーブル。
埃をかぶった三脚。
使われなくなったビデオカメラ。
そのすべてが、今は誰かの視線のように見えた。
雨宮透真は、スマホの画面を見つめていた。
> 特別問題。
> 雨宮透真が、最初に友達を信じなくなった理由を答えよ。
自分の名前。
自分に向けられた問い。
これまで透真は、問いを解く側にいた。
橘未央が最後に会った人物。
未央が謝ろうとしていた相手。
相沢芽衣を最初に相関図から消した人物。
友情値が最も高い二人。
未央が本当に守ろうとしていた人物。
未央を第二備品庫へ導いた人物。
第二備品庫の鍵を閉めた人物。
誰かの秘密を暴き、誰かの嘘を見抜き、誰かの関係を線にしていく。
その役割に、透真は慣れていた。
否、心の奥底で透真は楽しんでいた。
人を見る側。
観察する側。
傷つく場所から一歩離れた場所に立つ側。
だが今、相関図は透真を盤面の中央へ引きずり出した。
視線が集まる。
白石理沙が透真を見る。
早瀬凛が見る。
宮野咲良が、田辺麻衣の手を握ったまま見る。
葛西悠真が、羽田千尋が、黒川奏太が、瀬戸真琴が、桃井紗季が見る。
教室で何度も人を見てきた透真が、今度は見られている。
それは、ひどく不快だった。
「……何だよ、これ」
黒川がつぶやいた。
「雨宮の問題?」
羽田はスマホの画面を凝視している。
「特別問題って表示になってる。第七問とは別扱い。というか、第七問の回答欄が消えてる」
画面には、確かに新しいカウントダウンが表示されていた。
> 特別問題
> 制限時間 00:30:00
三十分。
短い。
まるで、これくらいならすぐに答えられるはずだと言わんばかりだった。
桃井紗季が、窓際の机に座ったまま小さく笑った。
「雨宮くん、黙っちゃった」
透真は彼女を見る。
桃井の表情には、これまでのような余裕がある。
だが、その奥に少しだけ期待もあった。
自分を見てほしい。
自分が見ていたものを、誰かにも見せたい。
桃井の行動の根にあるものが、透真には少しずつ見えてきていた。
けれど今、それを口にする余裕はない。
問題は、透真自身へ向いている。
「答えなくていい」
理沙が言った。
透真は彼女を見る。
「何?」
「こんなの、未央を助けることと関係ない」
「関係ない問題を、わざわざ出すとは思えない」
「でも、あなたの過去を晒す必要はない」
理沙の声は、思ったより強かった。
それが意外だった。
これまで理沙は、未央を助けるためなら透真を使うと言っていた。
透真の個別通知も見せろと言った。
必要なら疑うとも言った。
その理沙が今、「答えなくていい」と言った。
「白石さん、優しいね」
桃井が言う。
その声には皮肉があった。
「未央さんがいないと、代わりに誰かを守りたくなるの?」
理沙は桃井を睨む。
「黙って」
「黙らないよ。だって、これがゲームだもん」
「あなたが未央を閉じ込めたんでしょ」
「うん」
桃井はあっさり頷く。
「だから第七問には答えればいい。答えは桃井紗季。それで正解すると思う」
「じゃあ今すぐ答えさせて!」
「でも今は、特別問題が先」
桃井はスマホを軽く振った。
「ルールが変わったんだよ」
黒川が苛立ったように机を蹴った。
「ふざけんなよ!未央が閉じ込められてるかもしれないんだぞ!」
「そうだね」
「そうだねじゃねえよ!」
黒川が桃井に詰め寄ろうとする。
葛西が止めた。
「黒川、落ち着け」
「落ち着いてられるかよ!」
「ここで暴れても鍵は開かない」
葛西の声は苦しかった。
正しいことを言っている。
けれど、その正しさに自分でも苛立っているようだった。
透真はスマホを見た。
> 00:27:42
時間は減っていく。
逃げることはできる。
黙ることもできる。
答えずに放置することもできる。
だが、それで何が起きるかはわからない。
田辺の名前が消されたときのように、相関図は勝手に何かを晒すかもしれない。
あるいは、未央の状況が悪化するかもしれない。
透真は小さく息を吐いた。
「俺が答える」
理沙が目を見開く。
「雨宮くん」
「時間がない」
「でも」
「俺の過去が晒されるのと、未央の扉が開かないのと、どっちが重要かくらいわかる」
理沙は言葉を失った。
凛が静かに透真を見る。
「本当にいいの」
「よくはない」
透真は答えた。
「でも、どうせ相関図は黙ってても暴く」
それは、理沙に言った言葉と同じだった。
言わなければ、もっと悪い形で晒される。
なら、自分の口で言ったほうがまだましだ。
そう思うこと自体、相関図のルールに乗せられている。
わかっていた。
それでも、今は選べる手が少ない。
桃井がスマホを向けた。
「じゃあ、聞かせて」
その仕草はまるで録画でもしているようだった。
羽田が不快そうに言う。
「桃井さん、撮ってないよね」
「撮ってないよ」
「本当に?」
「今はね」
羽田は顔をしかめた。
透真は、部屋の中央に立ったまま話し始めた。
「中学のとき、友達だと思っていたやつがいた」
自分の声が思ったより平坦で、透真は少しだけ嫌になった。
まるで、誰か他人の話をしているみたいだった。
「同じクラスで、席が近くて、委員会も一緒だった。昼休みに話すことも多かった。家に行ったこともある。たぶん、当時の俺はそいつを好きだったし、親友だと思ってた」
――親友。
この言葉を自分の口から出すのは、ひどく気持ちが悪かった。
理沙が、黙って聞いている。
凛も、咲良も、田辺も、全員が黙っている。
「その頃、俺は家のこととか、クラスのこととか、少し面倒なことを抱えてた」
詳しく言うつもりはなかった。
家庭の事情。
クラスでの孤立。
誰かに言うには重く、言わないでいるには少し苦しいこと。
今ここで、それを全て晒す必要はない。
相関図が求めているのは、最初に友達を信じなくなった理由だ。
「そいつには少しだけ話した。全部じゃない。でも、他のやつには言ってほしくないって言った」
その時の教室を思い出す。
放課後の空き教室。
窓から入る西日。
机に置かれたプリント。
相手が真剣な顔で頷いたこと。
『言わないよ』
そう言った声。
「でも、次の日にはクラスの何人かが知ってた」
咲良が小さく息を呑む。
「広められたの?」
「そいつは、広めたつもりはなかったらしい」
透真は言った。
「心配だったから、信頼できる人に相談したって言った。自分一人では抱えられなかったって。俺のためだったって」
理沙の表情が変わる。
凛は目を伏せた。
その構図に、彼女たちは心当たりがありすぎるのだろう。
「俺のため」
透真は、その言葉をもう一度口にした。
「その言葉が、一番嫌だった」
部屋の中に、静かな緊張が広がる。
「悪意だったら、まだよかった。面白がって言いふらしたなら、嫌えば済んだ。でもそいつは本当に心配してた。たぶん、本気で俺を助けようとしてた」
透真は、未央の顔を思い出した。
中学の頃、委員会で一緒になった未央。
字が綺麗だと声をかけてきた未央。
何も知らないくせに、自然に踏み込んでくる優しさ。
それは受け取りかたによっては善意からの救済だし、偽善からの裏切りともとれる。
「だから、わからなくなった」
透真は言った。
「悪意より、善意のほうが厄介だと思った。悪意は避ければいい。でも善意は、こっちが拒むとこっちが悪者になる」
誰も何も言わなかった。
桃井の笑みも、いつの間にか消えていた。
「その友達は謝った。何度も。悪気はなかった、心配だった、助けたかったって」
透真は目を細める。
「でも俺は、そいつを許せなかった。許さなかった。そのまま距離を置いた」
「それが、最初に友達を信じなくなった理由?」
理沙が小さく聞いた。
透真は頷く。
「たぶん」
「たぶん?」
「正確には、そのとき初めて気づいた。友達って、信じるほど相手に自分を渡すことなんだって。渡したものをどう扱うかは、相手次第だって」
凛が静かに言う。
「だから、渡さないことにした」
「そうだ」
透真は凛を見る。
「見てるだけなら、渡さなくて済む。誰が誰を好きで、誰が誰を嫌っていて、誰が嘘をついているか。それを見ているだけなら、自分は傷つかない」
その言葉は、自分で言っていて不愉快だった。
だが、事実だった。
透真は人間関係を見ているつもりだった。
誰よりも冷静に、誰よりも正確に。
でも本当は、関係の外側にいる理由を探していただけかもしれない。
傷つかないために。
誰かを信じなくて済むように。
桃井が静かに笑った。
「やっぱり、雨宮くんは私に似てる」
「似てない」
「似てるよ。私は撮る側。雨宮くんは見る側。どっちも中には入らない」
透真は桃井を見た。
「でも、お前は鍵を閉めた」
「うん」
「俺は閉めてない」
「そうだね。でも、見てるだけでも人は消えるよ」
その言葉に、透真は黙った。
反論は簡単だった。
自分は相沢芽衣を知らない。
去年のことには関わっていない。
未央の失踪にも、少なくとも直接は関係していない。
だが、今はどうか。
透真はこのゲームの中で、ずっと見ていた。
誰かの秘密が暴かれるのを。
誰かが泣くのを。
誰かが追い詰められるのを。
未央を助けるという名目で。
もしかしたら、その一部を楽しんでいた。
自分が見抜いたことが当たるたびに、冷たい満足があった。
相関図によりクラスが混乱していくことに、どこか楽しんでいた。
否定できない。
「雨宮くん」
咲良が言った。
透真は彼女を見る。
咲良は泣き疲れた顔をしていた。
でも、さっきよりはまっすぐこちらを見ている。
「私、雨宮くんのこと、ずっと嫌なやつだと思ってた」
「今もだろ」
「今も」
咲良は即答した。
それから、少しだけ言葉を詰まらせる。
「でも、嫌なやつでも、ずっと見てたんだね」
「何を」
「私たちが見ないようにしてたもの」
透真は何も答えなかった。
それは褒め言葉ではない。
責め言葉でもない。
ただの事実に近かった。
理沙が言う。
「あなたは、友達を信じていないんじゃない」
透真は彼女を見る。
「何?」
「信じたら、また裏切られるのが怖かっただけでしょ」
その言葉は、あまりにもまっすぐで、透真は一瞬返せなかった。
胸の奥に、古い棘が触れた。
「知ったようなことを言うな」
「知らないわよ」
理沙は言った。
「でも、今の話を聞けばわかる。あなたは友情を馬鹿にしてるんじゃない。ずっと怒ってるの。信じたかった相手に、善意で裏切られたことを」
透真は理沙を睨んだ。
理沙は視線を逸らさない。
「だから未央の優しさも嫌だった。未央が誰にでも優しいから。誰かを救おうとして、相手を傷つけることがあるって知ってたから」
「それの何が悪い」
「悪くない」
理沙は首を横に振る。
「でも、それだけじゃ未央は助けられない」
沈黙。
その言葉は、正しかった。
透真が未央の善意の危うさを見抜いていたとしても。
未央が自分を守れていないことに気づいたとしても。
他人の嘘を見抜くことができたとしても。
それだけでは、扉は開かない。
見ているだけでは、未央は助からない。
スマホが震えた。
相関図が更新された。
透真の名前が中央近くに表示される。
> 雨宮透真 → 友情
> 拒絶 89%
次に、別の線。
> 雨宮透真 → 橘未央
> 拒絶された救済 76%
さらに、新しい線が現れる。
> 橘未央 → 雨宮透真
> 救済者 92% → 共犯者 41%
透真は眉をひそめた。
「共犯者?」
桃井が画面を覗き、少し笑う。
「面白いね」
匿名アカウントからメッセージが届く。
> 正解。
> 雨宮透真が友達を信じなくなった理由は、善意による裏切り。
続けて、次の文章。
> では、第七問に戻ろう。
> 第二備品庫の鍵を閉めた人物は誰か。
回答欄が再び表示される。
残り時間。
> 00:22:14
透真はスマホを握り直した。
自分の話は終わった。
だが、妙な感覚が残っている。
自分の中身を少しだけ引きずり出され、床に置かれたような感覚。
不快だ。
だが、軽くもあった。
ずっと一人で持っていたものが、無理やりではあるが言葉になった。
それは、透真が望んだことではない。
しかし、もう戻せない。
「答えは――、桃井紗季」
透真は言った。
桃井は、にこりともせずにこちらを見た。
「そうだね」
「お前が鍵を閉めた」
「うん」
「だが、主催者は別にいる」
「うん」
「そして、お前を動かしたのも別の人物だ」
桃井は答えない。
透真はスマホの回答欄に文字を打つ。
> 桃井紗季
送信。
全員の画面が暗転する。
短い沈黙。
> 正解。
理沙が息を呑む。
しかし、すぐにメッセージが続いた。
> 第二備品庫の鍵は、視聴覚準備室の机の中。
全員が机を見る。
桃井が座っていた窓際の机。
黒川がすぐに駆け寄り、引き出しを開ける。
中には、小さな鍵が入っていた。
「これか!」
黒川が鍵を掲げる
理沙が駆け出そうとする。
だが、スマホがまた震えた。
> ただし、急がないと間に合わない。
> 第二備品庫の換気口は、半分塞がっている。
理沙の顔から血の気が引いた。
「未央……!」
「走るぞ!」
葛西が叫ぶ。
全員が一斉に視聴覚準備室を飛び出した。
旧校舎の廊下を走る。
階段を駆け下りる。
誰ももう、先生に見つかることを気にしていなかった。
大人に話すなという警告も、この瞬間だけは頭から消えていた。
未央が息苦しい場所にいるかもしれない。
それだけで十分だった。
透真も走った。
息が切れる。
足音が廊下に響く。
理沙が先頭で走り、黒川が鍵を握って続く。
凛が、咲良が、田辺が、葛西が、羽田が、瀬戸が、桃井さえも走っていた。
透真は、走りながら思った。
見ているだけでは、傷つかない。
けれど、走らなければ届かない場所がある。
旧体育倉庫の扉が見えた。
第二備品庫の鍵は、黒川の手の中にある。
未央は、まだ生きている。
そう信じるしかなかった。




