第24話 「それを私が言ったら、つまらないでしょ」
旧校舎の空気は、昼間でも冷たかった。
廊下の窓から光は入っている。
けれど、その光は床まで届く前に、古いガラスと薄い埃に濁らされているようだった。
二年三組の生徒たちは、誰も話さずに歩いていた。
先頭に雨宮透真。
そのすぐ後ろに白石理沙、早瀬凛。
少し遅れて宮野咲良と田辺麻衣。
葛西悠真、羽田千尋、黒川奏太、瀬戸真琴が続く。
文化祭前の学校とは思えない行列だった。
向かう先は、旧校舎三階の視聴覚準備室。
そこに桃井紗季がいるかもしれない。
桃井紗季。
今まで、友情相関図の中心にはいなかった名前。
クラスにはいた。
でも、誰も大きく意識していなかった。
写真や動画を撮るのが好きで、文化祭の記録係に近いことをよくしていた女子。
田辺と同じ係だったことがある。
未央がかつて、芽衣と田辺を繋ごうとしたとき、その周辺にいた人物。
そして今、相関図は彼女を示した。
> 桃井紗季 → 相沢芽衣
> 記録 83%
> 桃井紗季 → 白石理沙
> 怨恨 69%
> 桃井紗季 → 橘未央
> 代行 72%
鍵を閉めた人物は、今この中にはいない。
さらにヒント。
> 鍵を閉めた人物は、友情相関図に名前を載せてもらえなかった。
名前を載せてもらえなかった。
その言葉は、相沢芽衣だけでなく、桃井紗季にも当てはまる。
いや、もっと正確に言えば。
相関図の外側にいた者すべてに当てはまる。
クラスの中心で笑う未央。
その未央の隣にいた理沙。
咲良のグループ。
黒川たち男子グループ。
委員長の葛西。
情報を拾う羽田。
孤立していた凛。
未央に執着していた瀬戸。
それらは、相関図に描かれるだけの存在感を持っていた。
だが、桃井は違った。
記録する側。
撮る側。
見る側。
誰かの関係を写真や動画に残しながら、自分自身はその関係の線の中に入っていなかった。
透真は、そこにわずかな既視感を覚えていた。
観察者。
誰にも深く関わらず、教室の端から人間関係を見ている者。
自分も同じだ。
ただ、透真は見るだけだった。
桃井は記録した。
その違いが、今の事件に繋がっているのかもしれない。
階段を上がる途中、田辺麻衣が小さく咲良の袖を掴んだ。
「……咲良ちゃん」
「大丈夫」
咲良は即座に言った。
その声は、少し震えていた。
けれど、田辺の手を振り払わなかった。
「私、いるから」
田辺は小さく頷く。
それを見て、凛が少しだけ目を伏せた。
去年、芽衣に対して起きなかったこと。
あのとき間に合わなかったもの。
それが今、遅れて別の形で起きている。
透真は、階段の踊り場で一度立ち止まった。
「視聴覚準備室に着いたら、勝手に喋るな」
黒川が眉をひそめる。
「また命令かよ」
「桃井が本当に鍵を閉めた人物なら、追い詰めすぎると逃げる。あるいは、スマホで何かする」
羽田が頷く。
「相関図アカウントに関わってる可能性もあるしね」
「主催者ではないって出てたけど」
葛西が言う。
「主催者じゃなくても、端末を持ってる可能性はある」
透真は続けた。
「最初に話すのは田辺」
田辺がびくっとする。
「私?」
「桃井を見たのはお前だ。しかも、田辺と桃井には去年から接点がある」
「でも……」
田辺は不安そうに咲良を見る。
咲良は少し迷ったあと、頷いた。
「私も隣にいる」
「その次は羽田」
透真は言った。
「桃井が動画や編集に関わっていたかどうか、確認できるのはお前だ」
羽田は硬い表情で頷く。
「わかった」
「白石は喋るな」
理沙が顔を上げる。
「どうして」
「桃井はお前に怨恨を持っている表示が出ている。お前が最初に喋ると拗れる」
「……わかった」
理沙は反論しなかった。
それが逆に、彼女の疲労を示していた。
視聴覚準備室の前に着く。
古いプレート。
曇ったガラス窓。
中は暗い。
扉は少しだけ開いていた。
羽田が小さく息を呑む。
「いるかも」
透真は扉に手をかけた。
ゆっくり開く。
視聴覚準備室には、古い機材が詰め込まれていた。
ビデオカメラ。
壊れた三脚。
古いプロジェクター。
モニター。
コードの絡まった箱。
使われなくなったノートパソコン。
そして、窓際の机に、一人の女子生徒が座っていた。
桃井紗季。
肩までの髪を小さく結び、膝の上にスマホを置いている。
目立つタイプではない。
教室にいても、誰かの視界の端にいるような生徒だった。
だが今、彼女は全員の視線を受けていた。
桃井は驚かなかった。
むしろ、来るのを待っていたように顔を上げた。
「遅かったね」
その声は、思ったよりも落ち着いていた。
田辺が咲良の後ろで身を強張らせる。
透真は一歩入る。
「桃井紗季」
「うん」
「第二備品庫の鍵を閉めたのはお前か」
田辺に話させる予定を、透真は変えた。
桃井の目を見た瞬間、回り道は不要だと判断した。
彼女は逃げる気がない。
むしろ、聞かれたがっている。
桃井は少しだけ笑った。
「そうだよ」
教室から来た全員が息を呑んだ。
あまりにもあっさりした肯定だった。
理沙が一歩踏み出しかける。
透真は手で制した。
「未央は中にいるのか」
桃井は首を傾げた。
「いると思う?」
「質問に答えろ」
「たぶん、いるよ」
理沙が息を呑む。
「たぶんって何!?」
桃井は理沙を見る。
その目に、感情が浮かんだ。
怨み。
憧れ。
軽蔑。
それらが薄く混ざったような目。
「理沙さん、怒るんだ」
「当たり前でしょ!未央を閉じ込めたの!?」
「閉じ込めたのは、私」
桃井は静かに言う。
「でも、未央さんをそこまで連れていったのは理沙さんでしょ」
理沙の顔が強張る。
凛が低く言った。
「そういう言い方、やめなよ」
桃井は凛を見る。
「早瀬さんも怒るんだ」
「怒るよ」
「芽衣さんのときは、怒りきれなかったのに?」
凛の目が鋭くなる。
咲良が田辺の手を握り直した。
黒川が一歩前に出る。
「おい、ふざけんなよ。未央が本当に中にいるなら、鍵を出せ!」
「いつもクラスの中心で笑ってる黒川くんも怒るんだね」
「当たり前だろ!未央の命が掛かっているんだ!」
やれやれ、といった仕草で桃井は答える。
「今は出せない」
「何でだよ」
「ルールだから」
桃井はスマホを持ち上げた。
「第七問に答えたら、開く」
「あなたが出題してるの?」
羽田が聞く。
桃井は首を横に振る。
「違う。私は主催者じゃない」
「じゃあ誰」
葛西が聞く。
桃井は笑った。
「それを私が言ったら、つまらないでしょ」
「遊びじゃない!」
理沙が叫ぶ。
「未央が中にいるの!体調が悪そうだった!返事もない!なのに、つまらないって何!?」
桃井は理沙を見つめた。
「理沙さんは、未央さんが苦しんでるときだけ怒るんだね」
理沙の顔が白くなる。
「芽衣さんのときは?」
「……」
「田辺さんのときは?」
田辺がびくりとする。
「私のときは?」
その言葉で、空気が変わった。
桃井自身のとき。
透真は、そこを逃さなかった。
「お前も、相関図から消された側だと思っているのか」
桃井は透真を見る。
初めて、少し興味を持ったような目だった。
「わぁ、雨宮くんには、やっぱりわかるんだ」
桃井は近づき、透真の顔を覗き込んだ。
「私、思ってたんだ。雨宮くんは私に似てるって。クラスの端っこで醒めた顔して誰とも関わらずに観察してる」
「……」
「空気のように、そこに存在しているのに誰も気にしない。誰にも話しかけられない。まるでそこに存在していないかのように扱われる。ただ人間観察してるだけ」
そんな桃井の語りには一切触れず、透真は口を開く。
「答えろ」
――数秒の無音。
「そうだよ」
桃井は頷いた。




