第20話 「私、もう、誰を助ければいいのかわからない」
透真は紙の相関図を見た。
田辺から理沙へ伸びていた線。
理沙が消した線。
未央が何も言わなかった線。
その線がもし残っていたら、何か変わったのか。
理沙が田辺と話していれば、田辺は咲良のグループから離れて芽衣に手を伸ばせたのか。
芽衣は少しでも孤立しなかったのか。
未央は一人で抱え込まずに済んだのか。
わからない。
たった一本の線で、すべてが変わるとは思えない。
けれど、線を消した事実は残る。
そして未央は、その消された線を覚えていた。
だから一週間前、旧体育倉庫でこの相関図を見つけたとき、思ったのだろう。
また同じことになるかもしれない、と。
「田辺が今日、一人になった」
透真は言った。
「去年、未央は田辺を芽衣と繋ごうとして失敗した。理沙への線も消えた。そして今回、田辺の名前が消えた」
理沙が顔を上げる。
「未央が守ろうとしていたのは、田辺さん?」
「可能性は高い」
「でも、あなたはさっき違うかもしれないって」
「田辺だけではない、という意味だ」
透真は紙の相関図を見る。
「未央は田辺を守りたい。同時に、田辺を追い詰めている咲良も守りたい。咲良を責めれば、咲良が壊れる。田辺を放っておけば、田辺が壊れる。去年の芽衣と同じ構図だ」
凛が言った。
「みんなを守ろうとして、誰の味方にもなれなくなる」
「そうだ」
透真は頷く。
「それが未央の善意だ」
理沙は、苦しそうに目を閉じた。
その言葉は、未央を責めているようで、未央を理解しているようでもあった。
未央は悪意で人を傷つけたわけではない。
むしろ逆だ。
傷つけたくなかった。
誰も一人にしたくなかった。
誰も悪者にしたくなかった。
だから、全部を繋ごうとした。
でも、人間関係は糸のように綺麗には結べない。
無理に結べば、どこかが引きつれる。
誰かが息をしづらくなる。
旧体育倉庫の中で、四人のスマホが同時に震えた。
匿名アカウントからの通知。
> 第五問。
> 橘未央が本当に守ろうとしていた人物は誰か。
ついに問題が提示された。
画面には回答欄が表示される。
残り時間。
> 00:41:26
続けて、相関図が更新された。
未央から田辺麻衣へ。
> 罪悪感 62% → 保護 72%
未央から宮野咲良へ。
> 友達 58% → 保護 65%
未央から白石理沙へ。
> 親友? 43% → 隠された依存 61%
未央から早瀬凛へ。
> 心配 82% → 未完の謝罪 79%
そして、未央から空白へ伸びていた線がさらに濃くなる。
> 橘未央 → ???
> 保護 87%
名前はまだ表示されない。
理沙が画面を見る。
「田辺さんじゃないの……?」
凛が言う。
「咲良さんでもない」
瀬戸が低く呟く。
「じゃあ、誰なんだよ」
透真は画面を見つめた。
未央が本当に守ろうとしていた人物。
田辺を守りたい。
咲良も守りたい。
理沙を傷つけたくない。
凛に謝りたい。
芽衣を忘れたくない。
それらはすべて本当だ。
だが、「本当に守ろうとしていた人物」と問われている。
このゲームは、単純な正解を求めているようで、その裏で別の答えを要求してくる。
第一問は凛。
第二問は芽衣。
第三問は葛西。
第四問は瀬戸。
どれも、表面的には一人の名前だった。
だが答えたあとに、本質は別にあったことが示された。
第五問も同じだ。
田辺と答えれば、たぶん一部正解だろう。
咲良と答えても、完全に間違いではない。
理沙も、凛も、未央の守りたい相手だった。
だが、相関図が隠している空白の線は、別のものを指している。
「未央は」
透真はゆっくり言った。
「誰か一人を守ろうとしていたんじゃない」
理沙が顔を上げる。
「どういうこと?」
「未央が本当に守ろうとしていたのは、誰か一人じゃない。『誰も悪者にしない関係』だ」
「それ、人じゃない」
「だからこの問いは罠だ」
凛が目を細める。
「また?」
「そうだ。相関図は、人間関係の問題を一人の名前に押し込めようとしている。第三問と同じだ」
透真はスマホの回答欄を見る。
だが、まだ送らない。
「でも、回答欄は人物名を求めてる」
理沙が言う。
「違う。『人物』とは書いてない」
画面には、こうある。
> 橘未央が本当に守ろうとしていた人物は誰か。
人物とは書いてある。
透真は自分の言葉を訂正するように目を細めた。
「いや、人物と書いてあるな」
「じゃあ」
「だからこそ、犯人は俺たちに誰かを差し出させたい」
理沙は唇を噛む。
「でも答えなきゃ、また誰かが消える」
「そうだ」
「なら、誰を答えるの」
透真は、紙の相関図を見た。
消された線。
未央の善意。
誰も悪者にしないために、誰かが悪者にならないまま傷ついた。
その結果、相沢芽衣は消えた。
今回、未央が同じことを繰り返したくなかったなら。
未央が本当に守ろうとしていたのは。
「未央自身だ」
透真は言った。
三人が同時に彼を見た。
理沙が困惑した声を出す。
「未央自身?」
「ああ」
「未央が、自分を?」
「未央は去年、誰かを助けようとして失敗した。芽衣を救えず、凛を傷つけ、理沙から目を逸らし、田辺との線も消えた。今回また田辺が一人になり、咲良も壊れかけている。未央はまた全部抱えようとした」
透真は続ける。
「でも、本当はもう抱えきれない。だから失踪した。自分を守るために」
理沙は首を振る。
「違う。未央はそんな子じゃない。自分のために誰かを巻き込むなんて――」
「その発想が未央を追い詰めてる」
透真の声が少し強くなった。
「未央はいつも誰かのために動く。だから誰も、未央が自分を守るために逃げた可能性を考えない。未央自身も、そう考えられない。だから『あの子』って言ったんじゃないのか」
理沙が言葉を失う。
「自分のことを、自分として守れない。だから、誰か別の子みたいに言った」
凛が小さく息を呑んだ。
瀬戸が呟く。
「未央さんが……逃げた?」
透真は頷いた。
「逃げたことが悪いとは言ってない。むしろ、逃げるべきだったんだと思う」
その言葉は、旧体育倉庫の中に静かに落ちた。
未央は善意の人だ。
誰にでも優しい。
困っている人を放っておけない。
だが、それは彼女自身を守らないという意味でもある。
未央は他人を一人にしないために、自分を一人にしていた。
そのことに、ようやく気づいたのかもしれない。
理沙の目に涙が滲む。
「私……未央に、逃げてもいいって言ったことなかった」
凛も、写真を握りしめたまま言った。
「私も」
瀬戸はうつむく。
「俺は、未央さんが逃げるなんて考えもしなかった」
透真は回答欄を見た。
答えを送るなら、今だ。
だが、その前に理沙が言った。
「私が送る」
「白石」
「送らせて」
理沙の声は震えていたが、はっきりしていた。
「未央が本当に守ろうとしていたのが未央自身なら、私はそれを認めなきゃいけない」
彼女はスマホを持つ。
回答欄に、文字を打つ。
> 橘未央
送信。
倉庫の中で、時間が止まったように感じた。
一秒。
二秒。
三秒。
画面が黒くなる。
そして、文字が表示された。
> 正解。
理沙は息を呑む。
だが、次の文章がすぐに続いた。
> ただし、半分だけ。
倉庫の蛍光灯が大きく揺れた。
> 橘未央は、自分を守ろうとした。
> けれど、彼女はまだ逃げきれていない。
画面が切り替わる。
短い動画。
暗い床。
古い木材。
金属の棚。
そして、未央の声。
『……ごめん』
かすれた声だった。
『私、もう、誰を助ければいいのかわからない』
映像が揺れる。
一瞬だけ、未央の顔が映った。
青ざめた顔。
乱れた髪。
乾いた唇。
理沙が叫ぶ。
「未央!」
動画の最後、画面の端に何かが映った。
錆びた扉。
白い文字。
> 第二備品庫
動画はそこで切れた。
透真は息を止めた。
第二備品庫。
旧体育倉庫の中に、さらに奥の部屋がある。
瀬戸が顔を上げた。
「奥だ」
「どこだ」
「この倉庫の奥に、もう一つ小部屋がある。古い扉で、普段は使わない」
理沙が駆け出そうとする。
透真が止めた。
「待て」
「何で!」
「鍵が必要かもしれない。罠の可能性もある」
「未央がいるかもしれないの!」
理沙の声は泣き声に近かった。
「だから落ち着け」
透真は瀬戸を見る。
「案内しろ」
瀬戸は頷いた。
四人は倉庫の奥へ向かう。
古いマットを避け、積まれた椅子の隙間を抜け、錆びた棚の奥へ進む。
そこに、扉があった。
薄汚れた鉄の扉。
白い文字で、かすかに書かれている。
> 第二備品庫
理沙が扉を叩く。
「未央!未央、いるの!?」
返事はない。
透真は取っ手に手をかける。
動かない。
鍵がかかっている。
瀬戸が顔を青くする。
「ここの鍵は……知らない」
理沙が扉を叩き続ける。
「未央!返事して!」
倉庫の中に、理沙の声だけが響く。
そのとき、透真のスマホが震えた。
匿名アカウントからのメッセージ。
> よくできました。
> でも、まだ開けてはいけない。
続けて、次の文字。
> 第六問。
> 橘未央を第二備品庫に導いた人物は誰か。
カウントダウンが表示される。
> 制限時間
> 03:00:00
理沙がスマホを見て、顔を歪めた。
「ふざけないで……」
透真は扉を見つめた。
未央は、この向こうにいるかもしれない。
だが開かない。
そして、ゲームは続いている。
未央が自分を守ろうとしたことはわかった。
しかし、未央は自分だけでここへ来たわけではない。
誰かが、彼女をここへ導いた。
透真は、背後にいる三人を見た。
理沙。
凛。
瀬戸。
この中に、その人物がいるのか。
それとも、教室に戻った誰かなのか。
あるいは、まだ相関図に現れていない誰かなのか。
第二備品庫の扉の向こうは、静かだった。
静かすぎた。
透真は初めて、胸の奥が冷えるのを感じた。
未央は、まだ生きている。
そう信じるしかなかった。




