第2話 「あんた、私のことそんなふうに思ってたの?」
橘未央がいない。
その事実は、教室の中にゆっくりと沈んでいった。
誰かが大きな声で叫んだわけではない。
誰かが泣き崩れたわけでもない。
けれど、さっきまで文化祭準備の熱気で満たされていた二年三組の教室は、まるで急に温度を奪われたみたいに冷えていた。
黒板には、まだ「喫茶・星空カフェ」の文字が残っている。
机の上には、切りかけの星形の画用紙。
床には、段ボールの切れ端。
窓際には、未央がさっきまで持っていた黄色い星の飾りが一つ、ぽつんと置かれていた。
その星が、なぜか妙に場違いに見えた。
「……もう一回かける」
白石理沙が、スマホを握りしめたまま言った。
彼女の声は落ち着いているように聞こえた。
けれど、指先はかすかに震えていた。
理沙は未央に電話をかける。
教室のあちこちで、息を呑む気配がした。
呼び出し音。
呼び出し音。
呼び出し音。
誰もしゃべらない。
普段なら、誰かが茶化す。
誰かが「出ないじゃん」と軽く言う。
誰かが別の話題に逃げる。
けれど今は、誰もそんなことをしなかった。
理沙のスマホから、無機質な音だけが流れ続ける。
やがて通話は切れた。
「出ない……」
宮野咲良が小さく言った。
それは確認というより、自分に言い聞かせるような声だった。
「いや、だからさ」
黒川奏太が、わざと大きめの声を出した。
「こんなの、普通に考えたら悪質ないたずらだろ。未央もどこかにいるって。スマホ忘れてるとか、電源切ってるとか」
「動画に映ってた」
理沙が言った。
黒川の声が止まる。
理沙はもう一度、匿名アカウントから送られてきた短い動画を開いた。
暗い床。
古びた木材のような影。
かすかな息遣い。
一瞬だけ映る、制服の袖と白い指先。
そして、未央がいつもつけている小さな星のヘアピン。
五秒。
たったそれだけの動画だった。
けれど、その五秒は教室から「ただの悪戯」という逃げ道を奪うには十分だった。
「でも、顔は映ってないだろ」
黒川は食い下がった。
「ヘアピンなんて、似たようなの持ってるやついるかもしれないし」
「少なくとも、未央のものに見える」
理沙の声は強かった。
けれど、その強さは確信というより、そう言い切らなければ崩れてしまう人のものに聞こえた。
それ以上、黒川は何も言えなかった。
葛西悠真が、黒板の前に立った。
「とにかく、俺は先生に言うべきだと思う」
委員長らしい声だった。
真面目で、筋が通っていて、正しい。
だからこそ、その言葉に何人かがすがるような顔をした。
「そうだよね……」
「警察とか、先生とか、大人に言ったほうがいいよ」
「私たちだけでどうにかできるわけないし」
空気が、少しだけ葛西のほうへ流れた。
雨宮透真は、自分の席に座ったままその様子を見ていた。
葛西が正しい。
たぶん、それは間違いない。
もし本当に未央が危険な目に遭っているなら、クラスメイトだけで抱え込むべきではない。
教師に言うべきだし、警察にも相談すべきだ。
だが、正しいことを言えば人が動くとは限らない。
特に、恐怖が目の前に置かれているときは。
また、通知音が鳴った。
全員のスマホが、同時に震える。
その音だけで、教室中の肩が跳ねた。
匿名アカウントからの新しいメッセージ。
> もう一度だけ警告する。
> 大人に話せば、橘未央のいる場所の鍵は破棄される。
その下に、カウントダウンが表示されていた。
> 71:42:11
数字は、一秒ずつ減っていく。
「鍵……?」
「鍵って何?」
「閉じ込められてるってこと?」
「やだ、怖い」
ざわめきが広がる。
葛西はスマホを見つめたまま、唇を噛んだ。
「こんなの、脅しだ」
そう言った声は、少しだけ弱かった。
透真は、葛西の顔を見ていた。
葛西は正しいことを言いたい。
正しい側にいたい。
でも、もし自分が先生に言ったことで未央の身に何かあったら。
その責任を負う覚悟までは、まだできていない。
人は正しさだけでは動かない。
責任が自分に返ってくる可能性を見た瞬間、足が止まる。
葛西は、その典型だった。
「……とりあえず」
理沙が口を開いた。
「今すぐ先生に言うのは、少し待って」
「白石まで何言ってるんだよ!」
葛西が顔を上げる。
「未央が本当に危ないなら――」
「だからこそ、今すぐ軽率に動けないって言ってるの」
理沙の声は冷たかった。
「相手は私たちのスマホに同時にメッセージを送ってきてる。未央の動画も持ってる。少なくとも、ただの悪戯より準備されてる。警告を無視して動くなら、その前に何が起きてるのか把握したい」
「でも」
「葛西くんが先生に言うなら止めない。でも、その結果未央に何かあったら、あなたは責任を取れる?」
教室が静かになった。
その問いはズルかった。
けれど、効いた。
葛西の顔が歪む。
「……そういう言い方は卑怯だろ」
「わかってる」
理沙は言った。
「でも、今は卑怯なことを言ってでも、未央を助けたい」
誰も何も言えなかった。
透真は、理沙を見た。
冷静。
それでいて合理的。
それだけに理沙の判断は正しいとさえ思える。
しかし、それは未央を助けたいという感情を、できるだけ論理の形に押し込めている形なのだ。
その奥には、もっと違うものが見える。
焦り。
それと怒り。
そして、未央が自分の知らないところで消えたことへの――強い動揺。
親友なら、知っているはずだった。
親友なら、止められたはずだった。
親友なら、最後に会っていたはずだった。
たぶん理沙は、そう思っている。
透真は、机の上のスマホに視線を戻した。
画面には、あの奇妙な相関図が表示されたままだった。
二年三組の名前。
無数の線。
感情のラベル。
数値。
中心には橘未央。
未央の周囲には、たくさんの線が伸びている。
その中でも、ひときわ目立っていたのは咲良との線だった。
> 宮野咲良 → 橘未央
> 嫉妬 91%
「……ほんと、最悪」
その咲良が、吐き捨てるように言った。
彼女は自分のスマホを強く握っている。
「誰がこんなの作ったの?未央がいないとかも意味わかんないけど、これも意味わかんない。嫉妬って何?私が未央に?」
咲良の周りにいた女子たちは、困ったように顔を見合わせた。
「いや、咲良が未央に嫉妬とか、別に……」
「そうだよ、変なやつが勝手に書いただけでしょ」
「でも九十一って高すぎない?」
「ちょっと、どういう意味?」
最後の一言に、咲良の目が鋭くなった。
「なに。あんたも信じてるの?」
「そうじゃないけど……」
「そうじゃないなら言わなくてよくない?」
空気が刺々しくなる。
文化祭準備で一緒に星形の飾りを切っていた女子たちが、急に互いの距離を測り始める。
さっきまでの笑顔が、薄い紙みたいに剥がれていく。
普段は仲良しのように見えても、こんな相関図の線だけで簡単に友情は壊れていく。
透真は、それを黙って見ていた。
相関図は、未央の失踪を告げるためだけに送られてきたのではない。
これは、クラスを壊すための道具だ。
人は、自分と誰かの関係に名前をつけられると、無視できない。
しかもそれが「嫉妬」や「支配」や「利用価値あり」ならなおさらだ。
「咲良ちゃん、別に怒らなくても……」
咲良の隣にいた女子――名前は確か、田辺麻衣だったか――が、おそるおそる言った。
「怒るでしょ。勝手にこんなの書かれてるんだよ?」
「でも、未央ちゃんがいなくなってるんだし、今はそっちを――」
「あんたさ」
咲良の声が低くなった。
「今、私が未央より自分のこと気にしてるって言いたいの?」
「そんなこと言ってない」
「言ってるように聞こえた」
「……ごめん」
田辺はうつむいた。
その瞬間、近くにいた別の女子が小さくスマホを見た。
透真の位置からは画面が見えない。
けれど、その女子の顔色が変わったことで、何が起きたのかはだいたいわかった。
新しい線が表示されたのだ。
「なに?」
咲良がその視線に気づく。
「見せて」
「いや、これは……」
「見せてってば」
咲良がスマホを奪うように覗き込む。
そこには、咲良と田辺麻衣を結ぶ線があった。
> 宮野咲良 → 田辺麻衣
> 支配 69%
そして逆向きの線。
> 田辺麻衣 → 宮野咲良
> 便利な友達 57%
咲良の表情が固まった。
田辺は真っ青になった。
「違う、私そんなつもりじゃ……」
「便利な友達?」
「違うって!」
「あんた、私のことそんなふうに思ってたの?」
「思ってない!勝手に出ただけでしょ!」
「じゃあなんでそんな顔してんの?」
田辺は何も言えなくなった。
教室の中で、小さな亀裂がいくつも入っていく。
それは咲良たちだけではなかった。




