第1話 友情相関図 -出題-
文化祭まで、あと三日。
二年三組の教室は、いつもの授業中よりもずっと騒がしかった。
黒板には、白いチョークで大きく「喫茶・星空カフェ」と書かれている。
その下には、メニュー係、内装係、買い出し係、宣伝係、当日シフト、会計担当――と、文化祭準備の役割分担が細かく書き込まれていた。
窓際では、女子たちが色画用紙を切って星形の飾りを作っている。
教室の後ろでは、男子数人が段ボールを組み立て、模擬店用の看板に黒いスプレーを吹きかけようとして、委員長の葛西悠真に止められていた。
「だから、教室の中でスプレー使うなって。換気してても匂い残るだろ」
「へーへー、委員長は細かいな」
「細かいんじゃなくて普通のことを言ってるんだよ」
葛西の声は真面目で、少しだけ疲れている。
誰かが笑う。
誰かが文句を言う。
誰かがスマホを見ながら手を止める。
誰かが「これインスタ載せたら映えるんじゃない?」と声を上げる。
文化祭前の教室には、独特の浮ついた空気があった。
普段は別々のグループに分かれているクラスメイトたちが、準備という名目で同じ場所に集まり、同じ目標に向かっているような顔をする。
全員で一つのものを作っている。
そんな、聞こえのいい空気。
雨宮透真は教室の端の席に座ったまま、それを眺めていた。
自分の机の上には、まだ何も貼られていない黒いメニュー表の台紙が一枚置かれている。
透真はそこに白いペンで文字を書く係になっていた。
とはいえ、周囲の熱量に合わせて急ぐつもりはない。
透真は、文化祭が嫌いというわけではなかった。
ただ、こういう空気が少し苦手だった。
みんなで頑張ろう。
最高の思い出にしよう。
このクラスでよかったね。
そういう言葉が飛び交うたびに、透真はいつも思う。
――誰が本気でそう思っているんだろう、と。
「未央、こっちの星、青と黄色どっちがいいと思う?」
窓際で宮野咲良が声を上げた。
咲良は、肩より少し長い髪を揺らしながら、二枚の色画用紙を掲げている。
明るくて、よく笑い、クラスの女子グループの中心に近い。
誰とでも話せるように見えて、実際には話す相手をきちんと選んでいるタイプだ。
「んー、黄色かな。黒板の背景、紺色にするなら黄色のほうが星っぽいし」
そう答えたのは、橘未央だった。
未央は咲良の隣に立ち、切り抜かれた星を一つ手に取って、黒板の前まで歩いていく。
軽く背伸びをして、星を黒板の上の方にあてた。
「ほら、こっちのほうが明るくない?」
「あ、ほんとだ。未央センスあるじゃん」
「えー、咲良が選んだんでしょ」
「でも決めたの未央だし」
咲良が笑う。
未央も笑う。
そのやりとりを見て、周囲の女子たちも自然に笑った。
橘未央は、そういう存在だった。
特別に声が大きいわけではない。
誰かを引っ張っていくタイプでもない。
けれど未央がそこにいると、場の角が少し丸くなる。
揉めそうな話題があれば、やわらかく間に入る。
浮いている誰かがいれば、さりげなく声をかける。
誰かの冗談が滑れば、ちゃんと笑って拾う。
そういうことを、未央は自然にやる。
たぶん本人は、特別なことをしているつもりはない。
だからこそ、厄介なのだと透真は思っていた。
「未央、午後の買い出しって誰が行くんだっけ?」
黒川奏太が、ペンキのついた軍手を外しながら未央に声をかける。
黒川はクラスの男子の中心にいる。
背が高く、笑い方に余裕があって、人との距離を詰めるのがうまい。
教師受けも悪くない。
女子からもそれなりに人気がある。
「えっと、買い出しは黒川くんと、葛西くんと、あと私と理沙だったかな」
未央が黒板の役割表を確認しながら答える。
「理沙も?じゃあ大丈夫だな。白石がいれば会計ミスらなそう」
「私を電卓扱いしないで」
未央の斜め後ろから、白石理沙が静かに言った。
理沙は長い髪を耳にかけ、クリップボードを片手に持っていた。
表情はあまり変わらない。
けれど、その視線はいつも周囲を正確に見ている。
未央の親友。
クラスの誰もが、そう認識している。
登下校も一緒。
移動教室も一緒。
昼休みも一緒にいることが多い。
文化祭準備でも、未央が感覚で動き、理沙がそれを整理する。
よくできた組み合わせだった。
少なくとも、表面上は――。
「ごめんごめん。頼りにしてるって意味」
黒川が軽く手を合わせると、理沙は小さく息をついた。
「頼るなら、レシートをなくさないで」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
周囲がまた笑う。
透真はペンのキャップを外しながら、その光景を見ていた。
未央と理沙。
咲良と未央。
黒川と未央。
葛西とクラス全体。
羽田千尋とスマホの中の情報。
瀬戸真琴と、教室の隅に積まれた段ボール。
それぞれの距離。
それぞれの視線。
それぞれの沈黙。
教室という場所は、わかりやすいようでわかりにくい。
誰が誰と仲がいいかなんて、見ればだいたいわかる。
けれど、誰が誰を本当に好きで、誰が誰を面倒だと思っていて、誰が誰の隣にいることで安心しているのかまでは、表面だけでは見えない。
――それでも、見ようとすれば見えるものはある。
咲良は未央の意見をよく求める。
けれど、未央が他の女子に褒められると一瞬だけ笑顔が遅れる。
黒川は未央に気安く話しかける。
けれど、未央が困っているときより、未央の周囲に人が集まっているときのほうが近づいてくる。
葛西はクラスのために動く。
けれど、面倒な空気になると、正しさを盾にして少しだけ引く。
羽田はよく笑う。
けれど、笑いながら全員の反応をスマホより細かく記録している。
――そして理沙は。
理沙はいつも、未央の隣にいる。
だが未央が誰かに呼ばれて離れるたびに、ほんの一瞬だけ、目の奥が冷える。
透真は、そういう小さな変化を見るのが得意だった。
否、得意になりたかったわけではない。
ただ、いつの間にかそうなっていた。
「雨宮くん」
突然名前を呼ばれて、透真は顔を上げた。
未央が、彼の机の前に立っていた。
「メニュー表、進んでる?」
「まだ」
「そっか。じゃあ、決まってるメニューだけ先に書いてもらってもいい?あとで値段変わるかもしれないけど」
「変わるなら、あとで書いたほうがいいだろ」
「それはそうなんだけど、今日の放課後に一回、全体の写真撮りたいんだって。宣伝用に」
未央は申し訳なさそうに笑う。
透真は机の上の台紙を見た。
星空ソーダ。
月見ココア。
流星クッキー。
夜空のホットケーキ。
誰が考えたのか知らないが、文化祭らしい浮ついた名前だった。
――くだらない。
そうは思っても口には出さない。
それぐらいは、わきまえているつもりだった。
「わかった」
「ありがとう。雨宮くん、字きれいだから助かる」
「別に」
「ほんとだよ。去年の掲示物も見やすかったし、雨宮くんが適任だと思ってる」
未央は、そういうことを覚えている。
多くの人間なら見落とすようなことを、拾ってしまう。
透真は少しだけ眉を寄せた。
「そういうの、誰にでも言ってるだろ」
「え?」
「褒めるやつ」
未央はきょとんとした顔をしたあと、困ったように笑った。
「いいと思ったら言うよ」
「だから、誰にでも言ってる」
「……それ、だめかな」
未央の声は、少しだけ小さくなった。
透真は返事をしなかった。
だめではない。
たぶん、だめなことではない。
けれど、誰にでも渡される優しさを、自分だけのものみたいに受け取ってしまう人間はいる。
そして、それが自分だけのものではなかったと知ったとき、勝手に傷つく人間もいるし、勘違いして暴走する人間もいる。
未央は、それをどこまでわかっているのだろう。
「とにかく書く」
透真が言うと、未央は少し安心したようにうなずいた。
「うん。お願い」
未央は窓際のグループに戻っていく。
その途中で、教室の隅にいた瀬戸真琴が顔を上げた。
瀬戸は文化祭の裏方担当だった。
段ボールを運んだり、倉庫から備品を出したり、誰かに頼まれたことを黙ってこなしたりする。
目立たないが、いないと困るタイプ。
未央が瀬戸に声をかける。
「瀬戸くん、さっき運んでくれたライト、すごく助かった。重かったでしょ」
「……いや、別に」
「ありがとうね」
未央が笑う。
瀬戸は一瞬だけ、顔を上げた。
その目を見て、透真はペンを止めた。
瀬戸の表情は、喜びに似ていた。
けれど喜びだけではない。
喉が渇いている人間が、ようやく水を見つけたときのような顔。
透真は、静かに視線を外した。
――見るべきものが多すぎる。
教室は、相変わらず騒がしかった。
教室の隅では、桃井紗季が準備風景をスマホで撮っていた。
誰もそのレンズを気にしていなかった。
誰も、自分たちが今どんな顔をしているかなんて気にしていない。
未央の一言に救われた気になっている瀬戸も。
そのやりとりを遠くから見て、笑顔を少し硬くした咲良も。
未央が瀬戸に声をかけた瞬間、クリップボードを握る手に力を入れた理沙も。
――誰も気づいていない。
その時だった。
教室のあちこちで、同時に通知音が鳴った。
ひとつではない。
ふたつでもない。
机の上。
制服のポケット。
鞄の中。
手に持ったままのスマホ。
短い電子音が、まるで合図のように重なった。
「え、なに?」
「グループLINE?」
「今、全員鳴らなかった?」
ざわめきが広がる。
透真のスマホも、机の中で震えていた。
彼はゆっくりと取り出し画面を見た。
差出人は不明。
知らない匿名アカウント。
本文はなく、画像が一枚だけ添付されていた。
透真は画像を開いた。
最初、それはただの図に見えた。
白い背景。
いくつもの名前。
名前と名前を結ぶ線。
線の上に、小さな文字。
だが、数秒後には違うとわかった。
そこに書かれているのは、二年三組の生徒全員の名前だった。
中央に、橘未央。
その周囲に、白石理沙、宮野咲良、黒川奏太、葛西悠真、羽田千尋、瀬戸真琴、早瀬凛、そして雨宮透真。
さらにその外側に、他のクラスメイトたちの名前が並んでいる。
――相関図。
そう呼ぶしかないものだった。
けれど、線に書かれた言葉が普通ではなかった。
未央と咲良を結ぶ線。
>宮野咲良 → 橘未央
>嫉妬 91%
咲良が甲高い声を上げた。
「は?なにこれ。最悪なんだけど!」
咲良の周囲にいた女子たちが、一斉にスマホを覗き込む。
「ちょっと、誰が作ったの?」
「咲良、未央に嫉妬って……」
「してないし!意味わかんない!」
咲良は笑おうとしていた。
けれど笑いきれていなかった。
別の場所で、男子が声を上げる。
「おい、黒川、お前のやつ見ろよ」
「は?」
黒川がスマホを見る。
未央と黒川の線には、こう書かれていた。
黒川奏太 → 橘未央
利用価値あり 81%
黒川の顔から、いつもの余裕がわずかに消えた。
「いや、悪趣味すぎだろ。誰だよこれ作ったの」
羽田千尋が素早く画面を操作している。
「これ、普通のLINEじゃない。変な匿名リンク踏んだ覚えある人いる?」
「ないって」
「全員に来てるの?」
「たぶん」
「え、こわい……」
羽田は画面を拡大したり、リンク先を確認したりしながら、眉をひそめた。
「完全なアプリじゃない。文化祭用の共有ページに、通知っぽく見える仕掛けを重ねてるだけだと思う。全員、一度は準備資料のリンク開いてるでしょ。たぶん、そこを使われてる」
教室の空気が変わっていく。
さっきまでの文化祭前の浮かれたざわめきではない。
冷たいものを含んだ、低い騒ぎ。
誰もが自分の名前を探している。
誰もが誰かとの線を確認している。
そして、自分がどう見られているかに怯え始めている。
葛西が立ち上がった。
「みんな落ち着いて。誰かの悪戯だろ。とりあえず先生に――」
その瞬間、また通知音が鳴った。
全員のスマホが、同時に震えた。
匿名アカウントから、今度はメッセージが届いていた。
先生に話した時点で、ゲームは終了。
橘未央を見つける手がかりは二度と届かない。
教室から、音が消えた。
誰も、すぐには意味を理解できなかった。
最初に声を出したのは理沙だった。
「……未央?」
理沙が教室を見回す。
窓際。
黒板前。
廊下側の棚。
教室の後ろ。
未央はいなかった。
「未央、トイレじゃないの?」
咲良が言った。
声が少し震えていた。
理沙はすぐに未央へ電話をかけた。
教室中が、その画面を見る。
呼び出し音。
呼び出し音。
呼び出し音。
出ない。
理沙はもう一度かける。
やはり出ない。
羽田が青ざめた顔で言った。
「さっきまで、いたよね?未央」
「いた。星の飾り見てた」
「いつ出てった?」
「知らない」
「誰か見た?」
誰も答えない。
文化祭準備の騒がしさに紛れて、未央がいつ教室から消えたのか、誰も見ていなかった。
また通知が来た。
>橘未央を救いたければ、72時間以内に彼女の“本当の親友”を答えろ。
画面の下には、カウントダウンが表示されていた。
>71:59:48
一秒ずつ、数字が減っていく。
咲良が口元を押さえる。
「なにこれ……未央、どこにいるの?」
黒川が苛立ったように机を叩いた。
「ふざけんなよ。誰かの悪質なドッキリだろ。未央もどっかに隠れてんじゃねえの?」
「未央が、こんな形でやるわけない」
理沙の声は低かった。
黒川は言い返そうとして、やめた。
葛西がもう一度言う。
「やっぱり先生に言うべきだ。脅しに従う必要なんて――」
その言葉を遮るように、三度目の通知が鳴った。
警告。
大人に話せば、橘未央のいる場所の鍵は破棄される。
その下に、短い動画が添付されていた。
理沙が震える指で再生する。
画面は暗かった。
どこかの床。
古い木材のようなもの。
微かな息遣い。
そして一瞬だけ、未央の手が映った。
制服の袖。
白い指先。
未央がいつもつけている、小さな星のヘアピン。
動画は五秒で終わった。
教室の誰かが、小さく悲鳴を上げた。
透真は画面を見つめていた。
悪戯。
ドッキリ。
その可能性はまだ残っている。
けれど、この教室の空気はもう戻らない。
未央がいない。
相関図が届いた。
誰にも知られたくなかった感情が、線と数値になって表示された。
――それだけで、人は簡単に揺らぐ。
ただ、透真にはひとつだけ引っかかった。
画面は暗く、息遣いも震えているように聞こえた。
けれど、映った手元の動きだけは、怯えている人間にしては妙に落ち着いていた。
そんな風に感じたのだ。
透真は自分のスマホに表示された相関図を、もう一度見た。
咲良の嫉妬。
黒川の利用価値。
葛西の責任感。
羽田の観察。
瀬戸の執着。
理沙の独占欲。
どれも、完全な出まかせには見えなかった。
――いや。
出まかせなら、こんなに人は怒らない。
透真は、画面の中の線を指でたどった。
この相関図は、クラスの人間関係を暴いている。
正確かどうかはわからない。
けれど、少なくとも人を壊すには十分な精度がある。
そして奇妙なことに、透真はそれを見て恐怖しなかった。
むしろ、胸の奥に冷たい納得が広がっていくのを感じていた。
これ、俺の頭の中と同じだ。
誰が誰に執着しているか。
誰が誰を利用しているか。
誰が誰を見下しているか。
誰が誰の隣にいることで自分の価値を保っているか。
透真がずっと見ていたものが、線になって表示されている。
そう思った瞬間、画面がわずかに揺れた。
相関図の中央、橘未央の名前から一本の線が伸びる。
その線は、まっすぐ透真の名前へ向かっていた。
今まで表示されていなかった線。
教室の誰かが気づいた。
「おい、雨宮のところ……」
視線が集まる。
透真は画面を見た。
そこには、こう表示されていた。
>橘未央 → 雨宮透真
>救済者 92%
一瞬、教室が静まり返った。
咲良が呆然とつぶやく。
「救済者……?」
黒川が透真を見る。
「どういうことだよ、雨宮。お前、未央と何かあったのか?」
理沙の視線が、鋭く透真に突き刺さる。
透真は答えなかった。
――救済者。
馬鹿みたいな言葉だと思った。
未央が自分に向けていたものが何だったのか、透真は知らない。
知りたいとも思っていなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
友情相関図――これは武器だ。
明確に人と人の関係を結び付け、疑いの目を向けて、疑心暗鬼にさせ友情を破壊してくる。
そして自分は、誰かを救うような人間ではない。
特定の誰かと仲良しなわけでもない。
もっと言うならば、こんなクラスのことはどうでも良かった。
透真はスマホの画面を閉じた。
教室中の視線が、まだ彼に向いていた。
文化祭三日前。
星形の飾りが散らばった教室。
黒板に書かれた「星空カフェ」の文字。
そして、姿を消した橘未央。
72時間のカウントダウンは、もう始まっている。
透真は小さく息を吐いた。
「……違うな」
誰にも聞こえないくらいの声で、彼は言った。
「俺は、この状況を楽しんでいるのかもしれない」
その囁きは誰にも気づかれることはなかった。
ただ一人、スマホカメラのその先の人物以外には――。




