第18話 「次は、お前が隠している線の話だ」
廊下は授業前のざわめきで満ちていた。
他のクラスの生徒たちは、文化祭の話をしている。
模擬店の衣装。
看板のデザイン。
放課後の買い出し。
そういう普通の会話が、今の透真には遠い世界のものに聞こえた。
階段を下り、渡り廊下を抜け、校舎の裏手へ回る。
旧体育館は、現在ほとんど使われていない。
新体育館ができてからは、倉庫代わりか、行事用の一時置き場になっている。
建物の外壁はくすみ、窓の一部には内側から板が打ち付けられていた。
その横に、旧体育倉庫がある。
低いコンクリート造りの小さな建物。
重そうな鉄の扉。
錆びた取っ手。
入口には、「関係者以外立入禁止」と書かれた札がかかっている。
瀬戸は倉庫の裏側へ回った。
壁に取り付けられた古いキーボックス。
番号式の簡単なものだった。
「番号は?」
透真が聞く。
瀬戸は少し躊躇してから、番号を合わせた。
カチリ、と音がして、蓋が開く。
中には、小さな鍵が一本入っていた。
理沙が息を呑む。
「本当にあった」
「去年から、ずっと」
瀬戸は鍵を取り出した。
そのとき、透真のスマホが震えた。
匿名アカウントからではない。
相関図の通知。
画面に、旧体育倉庫の扉が簡略化されたアイコンが表示される。
> そこにあるものは、忘れ物ではない。
> 誰かが、忘れたことにしたもの。
理沙のスマホにも同じ通知が来ていた。
凛も、瀬戸も画面を見る。
監視されている。
それが偶然のタイミングではないことは、もう明らかだった。
「開けるぞ」
瀬戸が鍵を差し込む。
金属が擦れる音がした。
未央の音声の最後に入っていた音と、よく似ていた。
理沙が顔を強張らせる。
「今の音……」
「ああ」
透真も聞いていた。
同じかどうかまではわからない。
だが、近い。
扉が重く開く。
中から、湿った空気とほこりの匂いが流れてきた。
旧体育倉庫の中は暗かった。
瀬戸が壁のスイッチを押す。
古い蛍光灯が数回点滅し、薄い明かりがついた。
中には、パイプ椅子、折りたたみ机、古いマット、壊れた得点板、文化祭用の木材、紙箱が雑然と積まれている。
理沙が未央の名前を呼びかける。
「未央!」
返事はない。
「未央!いたら返事して!」
倉庫の中に、理沙の声だけが反響する。
未央はいない。
少なくとも、この入口付近には。
透真は床を見た。
ほこりが積もっている。
だが、いくつか足跡があった。
新しいものもある。
「瀬戸」
透真は言った。
「お前、一週間前以降ここに来たか」
「来てない」
「本当に?」
「本当だ」
透真は足跡を見る。
数は多くない。
未央が来た。
瀬戸が一週間前に来た。
他にも誰かが来ている可能性がある。
理沙は倉庫の奥へ進もうとする。
透真は腕を掴んで止めた。
「焦るな」
「でも、未央が――」
「ここにいるなら声がする。まず足元を見ろ」
理沙は言い返そうとして、床の足跡に気づいた。
唇を噛む。
「……わかった」
瀬戸が倉庫の奥を指さす。
「あの箱」
そこには、古い段ボール箱が三つ積まれていた。
側面に、黒いマジックで書かれている。
> 旧二年三組
> 文化祭備品
> 迷路・装飾
去年のものだ。
理沙が箱に手を伸ばす。
今度は透真も止めなかった。
一番上の箱を開ける。
中には、折りたたまれた暗幕、星形の飾り、古い案内板、手書きの看板。
未央のクラスが今作っているものとよく似ている。
去年も、同じように文化祭の準備をしていた。
同じように笑って。
同じように誰かを見落として。
凛が二つ目の箱を開ける。
そこには、写真の束があった。
文化祭当日の写真。
準備中の写真。
集合写真。
教室の装飾。
迷路の入口。
凛は一枚ずつめくる。
その指が、ある写真で止まった。
相沢芽衣が写っていた。
旧校舎の迷路の入口。
首から案内役のプレートを下げている。
笑おうとしているが、笑えていない。
その隣に未央がいる。
未央は芽衣に何か話しかけている。
少し離れたところで、理沙がそれを見ている。
凛は、その写真をじっと見つめた。
「この時」
彼女は言った。
「芽衣、帰りたいって言ってた」
理沙が顔を上げる。
「聞いたの?」
「聞いた。私にだけ、小さく言った。でも私、その時……」
凛は言葉を詰まらせた。
「何」
透真が促す。
「私、怒ってた」
「なぜ」
「芽衣が未央に頼ろうとしてたから」
理沙が息を呑む。
凛は写真を握りしめる。
「私が親友なのに、って思った。芽衣がつらいなら、私に言ってほしかった。未央じゃなくて、私を見てほしかった」
その言葉は、理沙に深く刺さったようだった。
凛と理沙。
二人は違う場所にいたが、同じ感情を抱えていた。
自分だけの親友でいてほしかった。
でも、そう言えなかった。
「だから」
凛の声が震える。
「芽衣が『帰りたい』って言ったとき、私は『未央に言えば』って言った」
倉庫の空気が重くなる。
凛は目を伏せた。
「そのあと、芽衣は何も言わなくなった」
透真は、何も言わなかった。
凛もまた、芽衣を一人にした。
親友だったからこそ。
相関図が震える。
凛のスマホに通知が来た。
> 早瀬凛 → 相沢芽衣
> 親友 91%
> 拒絶 33%
凛はその画面を見て、唇を噛んだ。
「……知ってる」
彼女は小さく言った。
「そんなの、知ってる」
その時、理沙が三つ目の箱を開けた。
中には、紙の束が入っていた。
去年の企画書。
係表。
案内用の台本。
そして、その下に一枚のクリアファイル。
理沙の手が止まる。
「これ……」
透真が覗き込む。
クリアファイルの中には、手書きの相関図が入っていた。
旧校舎で見つけたものと似ている。
だが、こちらのほうが書き込みが多い。
芽衣を中心に、いくつもの線が伸びている。
未央。
理沙。
凛。
咲良。
葛西。
羽田。
黒川。
そして、もう一人。
右下の空白に、小さく名前が書かれていた。
> 田辺麻衣
理沙が息を呑む。
「田辺さん……?」
透真はその線を見る。
相沢芽衣から田辺麻衣へ、細い線が伸びている。
線の上には、未央の字らしき丸い文字でこう書かれていた。
> 本当は話せるかも
凛が写真から顔を上げる。
「芽衣と田辺さん?」
「接点があったのか」
透真が聞く。
凛は首を横に振る。
「知らない」
瀬戸も知らない様子だった。
理沙は、記憶を探るように眉を寄せた。
「未央が言ってたかもしれない」
「何を」
「田辺さんは、芽衣さんのことを本当は嫌ってないんじゃないかって。咲良たちに合わせてるだけで、二人だけなら話せるかもしれないって」
透真は相関図を見つめた。
田辺麻衣。
昨日名前が消えた生徒。
今日、駅に一人でいた生徒。
咲良が迎えに向かった生徒。
そして、去年未央が「本当は話せるかも」と見ていた相手。
――時系列が繋がる。
未央は去年、芽衣と田辺を繋ごうとしていた。
だがそれは実現しなかった。
今回、田辺の名前が消えたことで、未央は「また同じことになる」と思った。
――いや。
――――違う。
未央は昨日の田辺の件を事前には知らない。
だが未央が一週間前に旧体育倉庫でこの相関図を見たなら、田辺の存在を思い出していた可能性がある。
未央が守ろうとしていた“あの子”は、田辺なのか。
しかし、まだ違和感が残る。
透真はクリアファイルの相関図をさらに確認した。
田辺の近くに、もう一本薄い線がある。
消しゴムで消されかけていて、ほとんど読めない。
田辺から、別の名前へ。
その名前は、かすれている。
理沙が目を凝らす。
「これ……誰?」
透真は紙を光にかざした。
薄く残った文字。
相沢芽衣でもない。
田辺麻衣でもない。
別の名前。
その瞬間、全員のスマホが震えた。
> 見つけたね。
> 消えた相関図の、消された線を。
続けて、第五問の予告が更新される。
> 第五問。
> 橘未央が本当に守ろうとしていた人物は誰か。
> 正午までに答えなさい。
カウントダウン。
> 01:03:12
透真は紙の薄い文字を見つめる。
消えた相関図。
消された線。
未央が見つけたものは、田辺だけではない。
田辺の先に、もう一人いる。
そして、その名前を消したのは、おそらく未央自身か、理沙だ。
「白石」
透真は低く言った。
「この線に心当たりはあるか」
理沙は青ざめた顔で紙を見ていた。
やがて、かすれた声で言う。
「……ある」
凛が理沙を見る。
瀬戸も息を呑む。
「誰だ」
透真が聞く。
理沙は答えない。
「白石」
「言いたくない」
「未央を探す手がかりだ」
「わかってる!」
理沙の声が倉庫に響いた。
その目には、恐怖があった。
透真は、そこで理解した。
理沙はこの線を知っている。
そして、この線を知られたくない。
親友の疑問符。
独占欲。
未央が隠した名前。
消えた相関図。
その中心に、白石理沙がいる。
透真はゆっくり言った。
「次は、お前が隠している線の話だ」
理沙は紙を握りしめたまま、何も答えなかった。
旧体育倉庫の蛍光灯が、じりじりと不安定に鳴っていた。




