第14話 「好きとか、そういうんじゃない」
未央の声は、十二秒で途切れた。
『ごめん、理沙』
『私、やっぱり……あの子を一人にしたくない』
それだけだった。
たったそれだけの音声が、二年三組の教室を完全に黙らせていた。
白石理沙は、スマホを握ったまま動けない。
画面には、橘未央のアカウントから届いた音声ファイルが表示されている。
再生時間は十二秒。
差出人の名前は、間違いなく未央のものだった。
けれど、それが未央本人から送られたものなのか、誰かが未央のスマホを使って送ったものなのかはわからない。
わからないことばかりだった。
わかっているのは、未央がどこかにいて、まだ生きている可能性が高いこと。
そして、未央が最後に守ろうとしていた誰かを「あの子」と呼んだこと。
雨宮透真は、教室の後ろに置かれた段ボールに目を向けた。
さっき音声の最後に混じっていた音。
金属が擦れるような、短い音。
扉。
鍵。
古い棚。
あるいは、倉庫。
音だけでは断定できない。
ただ、未央がいる場所は教室ではない。
静かで、閉じられていて、何か金属製のものが近くにある場所。
旧校舎か。
体育倉庫か。
美術準備室か。
考えられる場所はいくつもある。
「もう一回、再生して」
羽田千尋が言った。
理沙は反応しない。
「白石さん」
羽田が少し強めに呼ぶ。
理沙はようやく顔を上げた。
「……何?」
「音。最後に何か入ってた。もう一回聞きたい」
理沙は小さく頷き、再生ボタンを押した。
雑音。
かすかな息遣い。
『ごめん、理沙』
その瞬間、理沙の指がわずかに震える。
『私、やっぱり……あの子を一人にしたくない』
金属音。
短い。
けれど確かにある。
音声が切れる。
教室の誰もが、無意識に息を止めていた。
「金属音だよね」
羽田が言う。
「ロッカーとか、棚とか。あと、扉の鍵?」
「体育倉庫の鍵の音っぽくない?」
黒川奏太が言った。
「体育倉庫?」
葛西悠真が振り向く。
「ほら、旧体育館の横にある古いやつ。文化祭の備品とか入ってる。扉がめちゃくちゃ重くて、開けるときにギィっていう」
「でも、あそこ今は立ち入り禁止じゃなかった?」
咲良が言う。
「旧体育館側は工事前だから基本使わない。でも、文化祭準備で先生が鍵を開けることはある」
葛西が答えた。
透真は黒川を見る。
「お前、よく知ってるな」
「去年、椅子運ばされたから」
黒川は不機嫌そうに答える。
「旧校舎の倉庫も似たような音する。音だけじゃわかんねえよ」
「なら候補に入れておく」
透真は黒板に書き足した。
未央の音声。
金属音。
旧体育倉庫?
旧校舎備品室?
美術準備室?
その横に、新しい問いを書く。
あの子=誰?
教室に残っている全員が、その文字を見た。
未央が一人にしたくない相手。
未央が守ろうとしている人物。
相関図では、未央から空白へ向かって「保護 87%」の線が伸びている。
けれど、名前はまだ表示されていない。
「相沢芽衣じゃないの?」
咲良が小さく言った。
「未央、芽衣ちゃんのことずっと気にしてたんでしょ。だから『あの子』って」
「相沢芽衣はもういない」
透真は答える。
「未央の声は現在形だった。一人にしたくない。つまり、今一人になりかけている誰かだ」
「……じゃあ、凛?」
咲良が言った。
早瀬凛が窓際から視線を向ける。
咲良は少し気まずそうにしたが、言葉を続けた。
「未央、凛のこと気にしてたじゃん。昨日も美術準備室で会ってたし。芽衣ちゃんのこともあるし」
「私は違う」
凛は即答した。
「どうして言い切れるの」
理沙が聞く。
「未央は私を一人にしたくないなんて思ってない」
「未央がそう言ったの?」
「言わなくてもわかる」
「それ、あなたの思い込みじゃない?」
理沙の声に、微かに苛立ちが混じる。
凛は静かに理沙を見る。
「白石さんこそ、未央のことなら全部わかると思ってるんじゃないの」
理沙が黙る。
透真は二人を見た。
未央を巡る理沙と凛の対立は、昨日より深くなっている。
理沙は未央の親友として未央を理解したい。
凛は、未央の善意を疑っている。
どちらも未央を見ているが、見ている角度がまるで違う。
そして、どちらの見方にも間違いだけではない。
「凛ではないと考える根拠はある」
透真が言うと、咲良が顔を上げた。
「何?」
「未央は昨日、凛と会った。そこで何かを確認した。もし未央が守ろうとしているのが凛なら、その場で一緒に行動するはずだ」
「でも、未央は一人で旧校舎へ行った」
葛西が続ける。
「つまり、守りたい相手は別の場所にいた?」
「少なくとも、未央はそう思っていた可能性が高い」
透真は黒板の「あの子」の横に、候補と書いた。
凛。
理沙。
咲良。
瀬戸。
田辺。
その他。
最後に、未央自身、と小さく書く。
「未央自身?」
羽田が気づいた。
「自分を守ろうとしてたってこと?」
「可能性としてはある」
「未央ちゃんが自分のことを『あの子』って言う?」
「普通は言わない」
「じゃあ低いね」
「低いが、消さない」
羽田は少しだけ眉を上げた。
「雨宮くん、そういうところは慎重なんだ」
「人を疑うときはな」
「褒めてない」
「知ってる」
そんな短いやりとりのあと、教室の視線は自然と瀬戸真琴へ向かった。
瀬戸は昨日までより、明らかに孤立していた。
第四問の答え。
瀬戸真琴から橘未央への友情値 94%。
その内訳は、依存と執着。
本人がどれだけ否定しても、相関図はその感情を表示した。
そして、それを見たクラスメイトたちはもう、瀬戸を昨日までと同じ目では見られない。
「瀬戸くん」
葛西が慎重に声をかける。
瀬戸は顔を上げない。
「未央が、君のことを守ろうとしていた可能性はあると思うか?」
瀬戸は少し笑った。
ひどく乾いた笑いだった。
「未央さんが俺を?」
「可能性の話だ」
「ないよ」
瀬戸は言った。
「未央さんは、俺のことなんて見てない」
「でも、未央は君に声をかけていた」
理沙が言う。
「昨日もライトのことをお礼言っていた」
「それだけだろ」
瀬戸の声が低くなる。
「白石さんはわからないよ。いつも未央さんの隣にいたから」
理沙の顔がこわばる。
瀬戸は机の上を見たまま続けた。
「未央さんに名前を呼ばれるのが、どれだけ特別に思えるかなんて、白石さんにはわからない。だって白石さんは、未央さんに毎日名前を呼ばれてるから」
理沙は何も言えなかった。
瀬戸の言葉は、理沙を責めているようで、同時に羨望でもあった。
未央の隣にいられる理沙。
未央の親友と呼ばれる理沙。
未央にとって当たり前の存在でいられる理沙。
それらは、瀬戸にとって遠すぎるものだった。
「瀬戸くん」
咲良が恐る恐る言う。
「未央のこと、好きだったの?」
教室の空気が、一瞬固まる。
黒川が顔をしかめる。
「おい、宮野」
「だって……聞かなきゃわかんないじゃん」
咲良は自分の声に怯えながらも、瀬戸を見ていた。
瀬戸はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言う。
「好きとか、そういうんじゃない」
その言い方が、逆に重かった。
「じゃあ何?」
羽田が聞く。
「わからない」
瀬戸は答えた。
「未央さんがいると、教室にいていい気がした。未央さんが笑ってくれると、自分が変なやつじゃない気がした。未央さんがありがとうって言ってくれると、役に立ってる気がした」
瀬戸の声は、だんだん小さくなる。
「それが何なのか、俺にもわからない」
透真は、瀬戸を見ていた。
嘘はない。
少なくとも、この瞬間の瀬戸は正直だった。
だから余計に危うい。
自分でも名前をつけられない感情ほど、扱いにくいものはない。
それを相関図は「執着 94%」と呼んだ。
乱暴だ。
だが完全に間違いでもない。
「未央があの子を一人にしたくないと言った」
透真は言った。
「瀬戸。お前は、昨日未央と何か話したか」
「話してない」
「本当に?」
「昨日は、ライトのことでお礼を言われただけ」
「昨日以外は?」
瀬戸が少しだけ顔を上げる。
「何?」
「未央は最近、お前に相談していなかったか」
「相談?」
「誰かを一人にしたくない。誰かを守りたい。そういう話を」
瀬戸は目を逸らした。
それだけで、教室の空気が変わる。
黒川が立ち上がりかけた。
「おい、瀬戸」
「待て」
透真が止める。
「瀬戸。答えろ」
瀬戸は黙っている。
理沙が机に手をついた。
「未央があなたに相談していたの?」
「……相談じゃない」
瀬戸は小さく言った。
「じゃあ何」
「独り言みたいなもの」
「何を聞いた」
瀬戸は嫌そうに顔を歪めた。
「言いたくない」
「未央の命がかかってる」
「だからって、未央さんが俺に話してくれたことを全部言えっていうのかよ!」
瀬戸の声がまた荒くなる。
今度は、怒りだけではなかった。
怯えがあった。
自分だけが持っていた未央との小さな接点を、教室全員に奪われることへの恐怖。
その気持ちは、透真にも理解できないわけではなかった。
秘密とは、時に関係そのものだ。
たとえ相手にとっては何でもない言葉でも、それを持っている側にとっては宝物になることがある。
だが、今はその宝物を守っている場合ではない。
「瀬戸」
透真は静かに言った。
「お前が言わなければ、相関図が勝手に暴く」
瀬戸の顔がこわばる。
「田辺を見ただろ。あれが次にお前へ来るかもしれない。未央とのことを、もっと嫌な形で晒されるかもしれない」
瀬戸は唇を噛む。
「それでも黙るなら、好きにすればいい。でも、そのせいで未央を見つける手がかりを失う」
「……卑怯だ」
「そうだな」
透真は認めた。
「でも、お前も本当はわかってるだろ。未央はお前の秘密を守るために消えたんじゃない」
瀬戸は、何も言い返さなかった。
長い沈黙のあと、彼はゆっくり口を開いた。
「未央さん、言ってた」
教室の全員が、耳を澄ます。
「誰かをまた一人にしちゃうかもしれないって」
理沙の顔が変わる。
「また?」
「そう言った」
「誰を?」
「名前は言わなかった」
「いつ?」
「一週間くらい前。文化祭の備品を運んでるとき。旧体育倉庫の前で」
旧体育倉庫。
さっき音声の金属音で候補に出ていた場所。
透真は黒板に線を引いた。
未央の音声。金属音。旧体育倉庫。
瀬戸の証言。旧体育倉庫。
――繋がる。
「そのとき未央は、何をしていた」
「倉庫の鍵を探してた。古い飾りを取りに行くって」
「一人で?」
「うん」
「お前は?」
「手伝うって言った。でも、未央さんは大丈夫って」
瀬戸は悔しそうに拳を握る。
「いつもそうなんだ。未央さんは、大丈夫じゃない顔してるのに、大丈夫って言う」
理沙が目を伏せた。
その言葉は、理沙にも刺さったのだろう。
未央の近くにいた彼女だからこそ、その「大丈夫」を何度も聞いているはずだ。
「一週間前に、未央は誰かを一人にしちゃうかもしれないと言った」
透真は確認する。
「そのあと、何か見たか」
「未央さんが、古い箱を開けてた」
「箱?」
「文化祭の去年の備品が入ってる箱。旧体育倉庫の奥にあった」
「中身は」
「よく見てない。でも、写真とか紙が入ってた気がする」
羽田が反応する。
「写真?」
「たぶん」
「去年の文化祭関係?」
「わからない」
瀬戸は首を振る。
「でも、未央さんはそれを見て、しばらく動かなかった」
旧体育倉庫。
去年の備品。
写真か紙。
未央の動揺。
相沢芽衣に関係している可能性が高い。
葛西が言った。
「旧体育倉庫なら、放課後に先生から鍵を借りれば行ける」
「今は?」
「授業前に勝手には無理だ。鍵は職員室にあるからな」
「榊原に聞くか」
透真が言うと、全員が黙った。
大人に話せば、未央の居場所の鍵は破棄される。
匿名アカウントの警告が頭をよぎる。
「鍵を借りる理由だけなら言える」
葛西が慎重に言った。
「文化祭備品の確認。未央のことは言わない」
「それで済めばいいけど」
羽田が言う。
「榊原先生、昨日から二組の様子がおかしいの気づいてるかも」
「気づいてないほうがおかしい」
凛が言った。
「でも、先生ってそういうの、気づいても踏み込まないから」
その言葉に、葛西が表情を曇らせる。
凛は気にせず続けた。
「去年もそうだった」
教室が静かになる。
榊原直人。
二年三組の担任。
芽衣の件で、どこまで知っていたのか。
未央が相談したのか。
葛西の席替え案に関わったのか。
大人の線。
相関図にはまだ、担任の名前は出ていない。
それが逆に不自然だった。
透真は黒板に新しく書いた。
榊原?
その瞬間、チャイムが鳴った。
朝のホームルームの時間。
教室の扉が開く。
担任の榊原直人が入ってきた。
年齢は三十代半ば。
国語教師らしい落ち着いた雰囲気で、いつも淡々としている。
生徒に厳しすぎるわけでも、親しすぎるわけでもない。
踏み込みすぎない大人。
透真は、そんな印象を持っていた。
榊原は教室に入るなり、いつもと違う空気に気づいたように足を止めた。
未央の空席。
黒板の不自然なメモ。
机の上に広げられた去年の資料。
顔色の悪い生徒たち。
「……どうした」
榊原が言う。
誰もすぐには答えない。
その沈黙を見て、榊原の目が少しだけ鋭くなった。
「橘は?」
理沙の指がスマホを握る。
葛西が口を開きかける。
だが、その前に透真が言った。
「文化祭の準備で、少し確認したいことがあります」
榊原は透真を見る。
「雨宮?」
「旧体育倉庫の鍵を借りられますか」
教室中が息を潜める。
榊原の表情は大きく変わらなかった。
ただ、ほんのわずかに眉が動いた。
「旧体育倉庫?」
「去年の備品を確認したいんです」
「今か?」
「はい」
「授業前に?」
「文化祭まで時間がないので」
苦しい理由だった。
だが完全に不自然でもない。
榊原は教室全体を見回した。
誰も目を合わせない。
その中で、凛だけが榊原をまっすぐ見ていた。
榊原の視線が凛で止まる。
一瞬。
本当に一瞬だけ、榊原の表情に何かが浮かんだ。
後悔か。
警戒か。
見なかったことにしたい過去か。
透真は、それを見た。
「旧体育倉庫は、今は立ち入りを制限している」
榊原は言った。
「必要なら、放課後に俺が同行する」
「今じゃないと困ります」
理沙が言った。
声が震えていた。
榊原は理沙を見る。
「白石。何があった」
理沙は答えない。
答えられない。
そのとき、全員のスマホが震えた。
最悪のタイミングだった。
匿名アカウントからの通知。
> 大人に話してはいけない。
> でも、大人が知らなかったことにするのも罪だよね。
教室中が凍りつく。
榊原は、生徒たちが一斉にスマホを見たことに気づいた。
「何だ、それは」
誰も答えない。
通知は続いた。
> 第五問まで、あと三時間。
> 橘未央が守ろうとした“あの子”を見つけてね。
透真はスマホを伏せた。
榊原が一歩、教室に入る。
「雨宮。白石。葛西。何が起きてる」
沈黙。
その沈黙の中で、凛がぽつりと言った。
「先生」
榊原の視線が凛へ向く。
「去年も、そうやって聞きましたよね」
榊原の顔が固まる。
「何が起きてる、って」
教室の空気が変わった。
凛は続ける。
「でも、聞いただけでした」
榊原は何も言わなかった。
透真は、その反応を見て確信に近いものを得た。
担任は知らなかったわけではない。
知っていた。
少なくとも、気づいていた。
そして踏み込まなかった。
相関図にまだ表示されていない、大人の線。
その線が、今ようやく見え始めていた。
未央が守ろうとしている「あの子」を探すには、旧体育倉庫だけでは足りない。
去年、芽衣を一人にした構造そのものを見なければならない。
榊原はしばらく黙ったあと、静かに言った。
「放課後、旧体育倉庫を開ける」
「今じゃないんですか」
理沙が詰め寄る。
「今は無理だ。授業もある。勝手に生徒を連れて行くわけにはいかない」
「未央が――」
言いかけて、理沙は止まった。
未央の名前を出せない。
榊原はその不自然な止まり方を見逃さなかった。
「橘に何かあったのか」
理沙は答えない。
透真は、カウントダウンを見る。
残り時間。
> 59:41:03
第五問まで三時間。
放課後では遅いかもしれない。
しかし、今ここで未央のことを話せば、匿名アカウントの警告が発動する可能性がある。
どちらも危険だった。
透真は、初めて少しだけ舌打ちしたくなった。
相関図のゲームは、子どもだけで閉じていた昨日より、さらに厄介な段階に入っている。
大人に話せない。
だが大人は過去に関わっている。
榊原は教卓に手を置き、教室を見渡した。
「ホームルームを始める」
誰も返事をしなかった。
未央の席だけが空いている。
榊原は、その空席を見た。
そして一瞬、視線を逸らした。
透真は、その小さな動きを見た。
見なかったことにする大人。
その線も、いつか相関図に表示される。
そう思った。




