第10話 「次に消える名前は、誰だろうね」
第二準備室の空気は、ほこりっぽかった。
古い机。
積み上げられた段ボール。
折れた看板の木枠。
去年使ったらしい色あせた布。
壁際には、使われなくなった椅子がいくつも重ねられている。
文化祭の残骸が、ここには詰め込まれていた。
その中で、白石理沙は一枚の紙を握りしめたまま動けずにいた。
手書きの相関図。
中心に相沢芽衣。
その周囲に、橘未央、白石理沙、早瀬凛、宮野咲良、黒川奏太、葛西悠真、羽田千尋たちの名前。
薄い鉛筆の線。
何度も消して書き直した跡。
右下には、はっきりと書かれている。
> 橘未央・白石理沙
透真はその文字を見下ろしていた。
今スマホに表示されている友情相関図ほど悪意はない。
線に「嫉妬」や「支配」や「利用価値あり」などとは書かれていない。
ただ、「話せそう」「同じ係」「苦手かも」「凛と仲がいい」など、未央らしい柔らかい言葉が並んでいる。
だが、それでもこれは相関図だった。
人と人との距離を、紙の上に置いたもの。
「説明して」
早瀬凛が言った。
声は低く、震えてはいなかった。
理沙は返事をしない。
「白石さん」
凛はもう一度呼んだ。
「これ、何」
理沙は手書きの相関図を見つめたまま、ようやく口を開いた。
「……芽衣さんを、助けるためだった」
その声は、ほとんど息のようだった。
「未央が言ったの。芽衣さんがクラスで孤立してる。どうにかしたい。でも、誰にどう頼ればいいかわからないって」
透真は黙って聞いていた。
凛の表情は変わらない。
しかし、その目の奥だけが冷えていく。
「だから、未央と一緒に整理した。芽衣さんと話せそうな人。話すと逆に傷つけそうな人。間に入れそうな人。文化祭の係で自然に関われそうな人」
「それで相関図?」
凛が聞く。
「未央は、悪いことのつもりじゃなかった」
「未央は?」
凛の声が少し鋭くなる。
「白石さんは?」
理沙は言葉を詰まらせた。
透真はその沈黙を見ていた。
理沙は未央を庇いたい。
同時に、自分が完全に無関係ではないこともわかっている。
その二つの間で、答えを選べずにいる。
「私は……」
理沙は紙を握る手に力を込める。
「私は、未央がそこまでしなくてもいいと思ってた」
「芽衣なんて放っておけばよかった?」
「違う!」
理沙の声が、部屋の中に強く響いた。
凛はひるまなかった。
「じゃあ何」
「未央が壊れそうだったから!」
理沙は吐き出すように言った。
「未央は、誰かが困ってると自分のせいみたいに抱え込む。芽衣さんのことも、最初は少し声をかけただけだった。でもだんだん、放っておけなくなって、毎日気にして、泣きそうな顔で『どうすればいいと思う?』って私に聞いてきた」
理沙の声が揺れた。
「私は、未央を助けたかった。未央がこれ以上傷つかないようにしたかった」
「だから相関図を作った」
透真が言う。
理沙は小さく頷いた。
「未央が一人で抱え込まないように。誰に頼ればいいか、どう動けばいいか、見えるようにしたかった」
「でも、その紙はここにある」
透真は古い準備室を見回した。
「誰かに見られたんだな」
理沙の顔色が変わった。
その反応だけで十分だった。
「……なくしたの」
理沙は言った。
「文化祭の準備中に。未央と二人で作って、あとで見直そうって言って、でもそのあと紙がなくなった。どこかに紛れたんだと思った」
「それが、誰かの手に渡った」
透真は紙に目を落とす。
相関図には、芽衣に関する情報が書かれている。
誰と話せるか。
誰が苦手か。
誰が噂を信じていそうか。
誰が距離を置いているか。
助けるための情報でも、使い方を変えれば刃物になる。
凛は、静かに言った。
「それで、芽衣はもっと孤立した」
理沙は答えなかった。
凛は一歩、理沙に近づく。
「その紙が広まったの?」
「広まってはいないと思う」
「思う?」
「少なくとも、私は見てない。未央も見てない。でも、そのあとから変な噂が増えた。芽衣さんは誰からも本当には好かれてないとか、未央に同情されてるだけだとか、凛さんしか相手がいないとか」
凛の表情が消えた。
「……そう」
短い声だった。
それ以上は何も言わない。
けれど、理沙はその沈黙に耐えられなかったように言った。
「ごめんなさい」
凛は理沙を見た。
「今、私に謝るの?」
「……」
「それとも、芽衣に謝ってるつもり?」
理沙は言葉を失う。
透真は二人の間に入らなかった。
これは、今止めても意味がない。
言葉は人を傷つける。
だが、言葉にしないまま腐ったものが、今のこのゲームを生んでいる。
そう考えた瞬間、スマホが震えた。
三人同時だった。
透真は画面を見る。
匿名アカウントからのメッセージ。
> 第二問は正解。
> けれど、思い出すだけでは足りない。
続けて、相関図が表示される。
中央に橘未央。
その下に、赤い点線で囲われた相沢芽衣。
> 相沢芽衣
> 削除済み
その文字が、一度点滅した。
そして、別のメッセージが浮かぶ。
> 第三問。
> 相沢芽衣を最初に相関図から消した人物は誰か。
透真は眉をひそめた。
相沢芽衣を最初に相関図から消した人物。
直接的に考えれば、芽衣を孤立させた最初の人物。
噂を流した人物。
あるいは、相関図を悪用した人物。
だが、このゲームの問いはいつも少し歪んでいる。
最後に会った人物。
謝ろうとしていた相手。
そして、最初に消した人物。
人間関係を、犯人探しの形に変換している。
理沙が画面を見て、息を呑んだ。
「最初に……」
凛は顔を歪める。
「そんなの、誰か一人じゃない」
「でも答えは求めてる」
透真は言った。
「このゲームは、複数人の責任でも一人の名前を要求してくる。そうやって、関係を壊す」
「じゃあ、答えなければいい」
凛が言う。
「答えなければ、名前が消えるらしい」
透真は画面下の警告を見る。
> 制限時間内に回答しなければ、相関図から一人の名前を消す。
カウントダウンは、第三問用に新しく表示されていた。
> 01:59:58
二時間。
理沙の顔が強張る。
「教室に戻ろう」
透真は言った。
「情報が足りない」
凛は頷かない。
だが、反対もしなかった。
理沙は手書きの相関図を折りたたもうとして、途中で止めた。
その紙をどう扱えばいいのかわからない。
証拠なのか。
罪なのか。
未央の善意の残骸なのか。
透真は言った。
「持っていけ」
理沙は小さく頷き、紙をファイルに挟んだ。
三人は旧校舎を出た。
教室に戻るまでの廊下は、行きよりも長く感じた。
文化祭のポスター。
笑顔のイラスト。
「最高の思い出を作ろう」という手書きの文字。
透真はその言葉を横目に見ながら歩いた。
最高の思い出。
たぶん去年も、誰かが同じような言葉を書いたのだろう。
そして、そのすぐそばで一人の名前が消えていった。
教室に戻ると、空気はさらに悪くなっていた。
咲良は友人グループから少し離れて座っている。
黒川は男子たちと低い声で話している。
葛西は文化祭実行委員のファイルを机に広げていた。
羽田はスマホとにらめっこしている。
全員が、何かを待っていた。
「どうだった?」
葛西がすぐに聞いた。
透真は理沙を見る。
理沙は少し迷ったあと、手書きの相関図を机の上に広げた。
教室の何人かが息を呑む。
「何これ」
咲良が小さく言った。
「去年、未央と私が作ったもの」
理沙は言った。
「芽衣さんを助けるために、人間関係を整理した。誰なら話せるか、誰なら間に入れるか。そういう目的だった」
「それが、今の相関図の元ネタってこと?」
羽田が問う。
「たぶん」
理沙は認めた。
黒川が顔をしかめる。
「じゃあ、お前らが始めたようなもんじゃん」
「黒川」
葛西が止める。
「事実だろ」
黒川は理沙を睨む。
「こんな紙作らなきゃ、今みたいなことになってなかったかもしれない」
理沙は何も言わない。
凛が低く言った。
「それを言うなら、噂を信じた人も、広めた人も、黙ってた人も同じだよ」
「だから一緒にすんなって」
「一緒だよ」
「俺は何もしてない」
「それが一緒なんだよ」
凛の声は静かだったが、強かった。
黒川は言い返そうとして、言葉を失った。
そのとき、羽田のスマホが震えた。
続いて、教室中のスマホが一斉に鳴る。
匿名アカウントではない。
相関図アプリの通知だった。
画面に、第三問が改めて表示される。
> 相沢芽衣を最初に相関図から消した人物は誰か。
そして、制限時間。
> 01:21:09
「もう一時間以上減ってる……」
咲良が呟く。
理沙たちが旧校舎にいる間にも、時間は進み続けていた。
「答えないとどうなるの?」
誰かが言った。
その瞬間、画面に新しい文章が表示された。
> 警告として、ひとつだけ見せる。
相関図が拡大される。
表示されたのは、咲良のグループの一人、田辺麻衣の名前だった。
咲良と揉めていた女子。
田辺の名前の周囲に、いくつもの線が走る。
> 宮野咲良 → 田辺麻衣
> 支配 69%
> 田辺麻衣 → 宮野咲良
> 便利な友達 57%
その下に、新しいラベルが浮かぶ。
> 田辺麻衣 → 相沢芽衣
> 拡散 42%
田辺の顔が真っ青になった。
「え……何これ。私、そんな」
さらに画面が切り替わる。
古いメッセージのスクリーンショットらしきものが表示された。
日付は去年。
グループチャット。
芽衣に関する噂を茶化すような短いやりとり。
その中に、田辺の名前があった。
> でも相沢さん、ちょっと怖くない?
> 裏で何書いてるかわかんないし笑
たったそれだけ。
だが、それは確かに芽衣を遠ざける側の言葉だった。
田辺は震える声で言う。
「違う……私、そんなつもりじゃ……みんな言ってたし、私だけじゃ……」
画面の文字が変わる。
> 名前を消すとは、存在を消すことではない。
> その人が隠していたものを、全員に見える場所へ置くこと。
次の瞬間、教室の外からざわめきが聞こえた。
廊下。
別のクラスの生徒たちがスマホを見ている。
数人が二年三組の教室を覗き込んでいた。
「ねえ、これって二組の田辺さん?」
「去年のやつ?」
「やば……」
田辺の顔が崩れた。
「やだ……やめて……」
彼女はスマホを落とし、席を立った。
咲良が慌てて腕を掴む。
「麻衣、待って」
「離して!」
田辺は叫んだ。
「咲良ちゃんだって言ってたじゃん!私だけじゃないのに、なんで私だけ!」
咲良の手が止まる。
田辺は泣きながら教室を飛び出した。
教室に、重い沈黙が残る。
誰も追えなかった。
いや、追おうとしなかった。
追えば、自分にも何かが飛んでくるかもしれない。
そう思った顔が、いくつもあった。
透真は、その顔を見ていた。
――名前が消える。
それは、物理的にいなくなることではない。
秘密を剥がされ、逃げ場を奪われ、教室の中での立場を失うこと。
――社会的に消される。
そのほうが、ある意味ではずっと現実的だった。
咲良は震えていた。
「私だけじゃ……」
その声は、田辺の言葉と同じだった。
――私だけじゃない。
おそらく去年も、同じ言葉が何度も使われたのだろう。
自分だけではない。
みんなも言っていた。
直接やったわけではない。
悪気はなかった。
冗談だった。
そうして、一人の名前が消えた。
―相沢芽衣。
透真のスマホが震えた。
第三問の残り時間。
> 01:12:44
その下に、メッセージが追加される。
> 次に消える名前は、誰だろうね。
教室中が凍りついた。
羽田が机を叩くように立ち上がる。
「答えないと、また誰かのスクショが出されるってこと?」
「たぶん」
透真は言った。
「それも学校中に」
咲良が青ざめた顔でつぶやく。
「そんなの、脅しじゃん……」
「最初からそうだろ」
透真は返す。
葛西がファイルを強く閉じた。
「第三問の答えを探す。これ以上、誰かの名前が消える前に」
「でも、誰なの」
羽田が言う。
「芽衣を最初に消した人物って。噂を最初に言った人?スクショを作った人?それとも、この相関図をなくした白石さんたち?」
理沙の肩がわずかに揺れた。
透真は手書きの相関図を見た。
助けるための図。
悪用された図。
芽衣を中心にした線。
この紙をなくした理沙と未央。
噂を広めた誰か。
見て見ぬふりをしたクラス。
だが「最初に消した人物」という表現には、もっと別の意味がある気がした。
「最初に芽衣を消した」
透真はつぶやく。
「噂より前かもしれない」
凛が顔を上げる。
「どういう意味」
「噂で孤立する前に、芽衣はもう誰かの相関図から消されていたんじゃないか」
「誰かの……」
凛の声がかすれる。
透真は凛を見る。
「早瀬。去年、芽衣が一番最初に変わったきっかけは何だった」
凛はすぐには答えなかった。
だが、その沈黙で透真にはわかった。
凛は知っている。
噂の前に、何かがあった。
「……席替え」
凛が言った。
「芽衣は、最初は私の隣だった。でも、文化祭準備が始まる前に席が変わった」
「誰の隣に?」
凛の視線が、ゆっくりと葛西へ向いた。
葛西の顔が強張る。
「待て」
黒川が言う。
「なんでそこで葛西を見るんだよ」
凛は答えた。
「席替えを決めたの、葛西くんだったから」
教室の視線が、一斉に葛西へ向かう。
葛西は唇を引き結んだ。
「俺は、委員として席替え案をまとめただけだ」
「芽衣を私の隣から離した」
「それは……」
「芽衣が浮いてたから?」
「違う」
「クラスの空気が悪くなるから?」
「違う!」
葛西の声が大きくなる。
だが、その否定には力がなかった。
相関図が更新される。
葛西悠真の名前から、相沢芽衣へ向かう薄い灰色の線が表示された。
> 葛西悠真 → 相沢芽衣
> 沈黙 72%
そして、次の文字。
> 候補者:葛西悠真
葛西の顔から血の気が引く。
第三問の答えが、近づいた。
だが透真は、まだ送信しようとは思わなかった。
このゲームは、単純な犯人当てではない。
葛西は何かをした。
あるいは、何かをしなかった。
しかし、最初に消した人物。
その言葉が、まだ引っかかっている。
透真は教室を見回した。
理沙。
凛。
咲良。
羽田。
黒川。
葛西。
誰もが自分の線を恐れている。
相関図は、まだ完成していない。
それはつまり、これからもっと残酷に更新されるということだ。
残り時間は、あと一時間少し。
誰かの名前が消える前に、答えなければならない。
だが、答えを間違えれば、別の何かが壊れる。
透真は静かに息を吐いた。
「葛西」
一呼吸おいて続ける。
「席替えの話を全部聞かせろ」
葛西は顔を上げた。
その目には、恐怖と後悔が混じっていた。
文化祭の飾りが揺れる教室で、誰もが次の言葉を待っていた。




