09
だが、私は世界からその存在を完全に忘れ去られるその瞬間まで、「マーシャ」として確かに存在していた。
私が処刑の槍に貫かれて命を落としたのは、今から十年も前のことだ。
なのに……何故か、私はこの世界を彷徨い続けていた。
それは、私がこの世に強烈な『未練』を抱えたまま死んだ、霊体だったからだ。
私が死の淵から霊体として再びこの世界の空気を吸い、目を開けたとき……私はすぐに気づいた。
今の私に足りないもの。
それは、私を置いて遠くの町へ行かされていた「お父さんとお母さん」だと。
処刑の混乱の後、町を逃げ出した両親と再会を果たした私は、再び彼らの娘として共に暮らし始めた。
お父さんとお母さんは、生き返った(ように見えた)私を抱きしめ、涙を流して愛してくれた。
私が死の境界を超えた『霊体』であることに、彼らが気づくことは決してなかった。
だけど……やがて残酷な現実を思い知ることになる。
移住先の村長が放った「マーシャ・アドミニストレーターは世界を滅ぼす悪魔である。
惨殺せよ」という言葉。
それから、私達の地獄の逃亡生活が始まった。
私のせいで、大好きなお父さんとお母さんが、ボロボロになっていく。
何度も、何度も、私は自分で自分の首にナイフを突き立て、自殺しようとした。
でも、私はすでに死んでいる霊体だった。
刃物は喉をすり抜け、絶対に『死ねない』。
私は、夜が来るたびに泣いた。
私は、生きる価値なんてないのに。
本当は、とうの昔にロイドと一緒に死んでいるのに。
やがて、果てしない逃亡の末に、私達は雪深き北の辺境の村へと辿り着いた。
その村では、ちょうど『冬祭り』が行われていた。
その、白銀の雪が舞う冬祭りの夜に。
私は、エミール・ハーヴェストという名の、不器用で優しい瞳をした少年と出会ったのだ。
(………………)「……ハッ!!」大きく息を吸い込み、私は跳ね起きた。
額にはべっとりと冷や汗が張り付き、肩で激しく息をしている。
「マーシャ! 大丈夫か!? 気を失ってたんだぞ!」視界が鮮明になると、そこにはランプの淡い光と、私を心配そうに覗き込むエミールの顔があった。
彼の大きな手が、私の冷え切った手をしっかりと握りしめている。
ここは、あの雪降る村じゃない。
王都を目指す過酷な旅の途中で立ち寄った、薄暗い『古文書院』の床の上だ。
私は、息を整えながら、自分の顔を覆った。
頬は濡れていた。
ロイド。
私の、最初の愛しい人。
私を守るために嘘をつき、その命を散らした彼。
私が霊体としてこの世界に縛り付けられ、絶望の中で逃げ惑い続けていたあの日々。
あの夢……いや、忌まわしくも愛おしい『過去の記憶』が、あの黒い本を読んだことで強制的にフラッシュバックしたのだ。
「エミール……」「無理するな。
あの本に触れて、何か強い呪いでも当てられたんだろ。
もう読まなくていい」エミールは私の背中を優しくさすってくれた。
その手の温もりが、冷え切った霊体であるはずの私の魂の奥まで、じんわりと染み渡っていくのが分かった。
ロイドは、私を守って死んだ。
「幸せにしてやれなくてごめんな」と言い残して。
もし、彼が今の私を見たら、どう思うだろう。
自分のせいで両親を逃亡生活に巻き込み、死ぬこともできず、ただ絶望に泣き濡れていた私を見て、彼は安心してくれるだろうか。
……ううん。
違う。
ロイドが命を賭けて繋いでくれたこの魂を、私は決して無駄にはしない。
私は顔を上げ、エミールの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
エミール。
冬祭りの夜、私に「俺が君を守る」と誓い、あんな理不尽な魔王の呪いをその身に宿してまで、私の隣に立ち続けてくれている人。
ロイドが教えてくれた「愛することの尊さ」を、私は今度こそ、絶対に手放さない。
もう、誰も私の目の前で死なせない。
私が、今度こそ大切な人を守り抜く。
「エミール。
私、もう大丈夫。
……ありがとう」私は、震えの止まった手で、彼の手を強く握り返した。
その手は、氷のように冷たい私の手とは違い、力強く、確かな命の鼓動を刻んでいた。
ロイドの犠牲があったからこそ、私はこの温もりの意味を知ることができたのだ。
過去の悲しみは、決して私の足を引っ張る鎖じゃない。
今、目の前にいるエミールを守り抜くための、最も強靭な盾になるのだと。
私は、確かな決意を胸に、古文書院の薄暗い天井を見上げた。
勇者ラングルド。
そして、私を呪われた運命へと引きずり込んだこの世界の理。
そのすべてを打ち砕き、エミールと共に生きる未来を掴み取るために。
私は、私自身のすべてを懸けて戦う覚悟を、ここに完了させたのだ。
外に出ると、猛吹雪は少しだけ弱まっていたが、冷え込みはさらに厳しくなっていた。
僕たちは肩を寄せ合いながら、路地裏の安宿へと戻った。
一階の食堂では、女将さんが約束通り、野菜がたっぷり入った温かいスープと、焼きたての黒パンを用意して待ってくれていた。
「おかえりなさい。
若いのに、こんな雪の中を熱心に調べ物なんて偉いわね。
さあ、冷めないうちに食べて」
湯気を立てるスープの匂いに、張り詰めていた神経が少しだけ解けていくのがわかった。
一口飲むと、野菜の甘みと塩気が、冷え切った内臓にじんわりと染み渡る。
「……美味しい」
「ふふっ、本当。
すごく温まるね」
マーシャの頬にも、ようやく血の気が戻ってきた。
その笑顔を見て、僕は心から安堵した。
彼女が誰であろうと、どんな運命を背負っていようと関係ない。
僕が守ると誓ったんだ。
あの狂った勇者からも、旧勇者パーティーの刺客からも、魔王の呪いからも。
すべてを僕が切り裂いて、この笑顔を守り抜く。
スープの温もりが、僕の心の中に静かな決意の炎を灯した。
部屋に戻り、冷え切った身体を休めるためにベッドに潜り込む。
「おやすみ、エミール。
今日も……ありがとう」
「おやすみ、マーシャ」
隣のベッドで、マーシャが規則正しい寝息を立て始める。
僕は、ほんの少しだけ開けた窓の隙間から、舞い散る雪を眺めていた。
この静寂が、永遠に続けばいいのに。
だが、僕たちの運命は、すでに理不尽な暴力の射程圏内に捉えられていた。
この安宿から遥か数キロメートル離れた雪山の頂で。
『堕天』した地上最強の狙撃手、ヘンリー・テイラーが、絶対的な死の弓を引き絞っていることなど、この時の僕は知る由もなかったのだ。
そして、夢の中で亡き父の声が警告を告げる、あの中途半端な眠りの底へと、僕は静かに沈んでいった——。




