08
暗闇の中で、私は酷くうなされていた。
これからの漠然とした不安、後頭部の鈍い痛み、そして何より……ロイドにひどい言葉をぶつけてしまったことへの、どうしようもない後悔。
「ごめんなさい」という言葉が喉の奥でつっかえたまま、私は重い瞼をゆっくりとこじ開けた。
「……ん」霞む視界が徐々に焦点を結ぶ。
肌を刺すような冷たい風。
ざわざわという無数の人の気配。
自分が今、町の広場の中心にある噴水の前……普段は子供たちが集まって遊ぶ場所にいることに気がついた。
だが、状況は絶望的だった。
私は、広場の中心に立てられた太い木の柱に、背中合わせで縛り付けられていた。
麻縄が手首や胴体にきつく食い込み、身動き一つ取れない。
七歳の子供の力では、到底振りほどけるものではなかった。
魔法の知識も力も、今の私にはない。
「だれか……」助けを呼ぼうと声を出しかけて、私は息を呑んだ。
広場を埋め尽くすように、ぐるりと私を取り囲んでいる群衆。
それは、昨日まで気さくに挨拶を交わしていた、町じゅうの人達だった。
しかし、その顔に浮かんでいるのは、見知った温かな表情ではなかった。
恐ろしいほどの『怨念』と『憎悪』。
パン屋のおじさんも、花屋のおばさんも、一緒に遊んだ子供たちでさえもが、まるで汚らわしい化け物を見るような、氷のように冷たい目線で私を睨みつけていたのだ。
みんな……私の敵なの?これは、何かの悪い夢?私は、ただの悪戯好きの子供で……殺されるような悪いことなんて、何もしていないのに。
恐怖で全身がガタガタと震え出した。
神様。
いるなら……お願い、私を早く助けて!お父さん! お母さん! どこにいるの!?「お父さん!! お母さぁん!! 私をっ……助けてよぉ!!」半狂乱になって叫ぶ私の声は、冷え切った広場の空気に虚しく吸い込まれるだけだった。
「無駄だ。
お前のお父さんとお母さんなら、こうなることを予測して、遠くの町へ行くように儂らが仕向けたわい」群衆が海が割れるように道を開け、そこから、豪奢な衣装と重厚な王冠を身につけた初老の男が進み出てきた。
その背後には、先ほど私を気絶させた騎士たちが恭しく付き従っている。
え……?なんで……一国の頂点である『国王陛下』が、自らこんな辺境の地に?国王は、私の目の前まで歩み寄ると、虫けらを見下ろすような目で私を睨み据えた。
「マーシャ・アドミニストレーター。
お前は……生まれるべきでは無かったのだ」「……なんで」震える声で聞き返すのが精一杯だった。
「お前が、我が王国の最も邪魔となる『絶対的な危険存在』だからだ」「だから……なんで! 私はただの……!」「お前は、神が無作為に選んだ、生まれつきの権力者だ。
……もしかしてお前、自分が何者なのか、親から何も聞かされていないのか?」国王の言葉に、私は息を詰まらせた。
私自身が、何者か?「私は……誰……なの?」「なら、冥土の土産に望むとおり教えてやろう」国王は、広場に響き渡るよく通る声で、死刑宣告のように告げた。
「お前の正体は……この世界の真の頂点にして、王国の最も危険な反乱分子。
世界の理を書き換える力を持つ――『調律者』である」(………………)「ちょう……りつしゃ……?」聞いたこともない言葉だった。
それが何を意味するのか、七歳の私には全く理解できなかった。
ただ、それが「世界中から命を狙われるほどの大罪」の証なのだということだけは、肌で感じ取れた。
「そうだ。
お前は儂らにとっての悪魔の子だ。
だから、お前をここで殺す。
そしてまた次の調律者が現れれば、それを殺す。
我々はその繰り返しで、この国の平和を維持してきたのだ」「いや……だ。
死にたくない……」「恨むなら、こんな残酷な運命をお前に背負わせた、この世界の神々を恨むのだな」国王は無慈悲に宣告し、冷酷に右手を振り上げた。
「何故なら……調律者は、この世界に不要なのだからな! やれ、お前ら」「ハッ!!」周囲を囲んでいた騎士たちが一斉に槍を構え、じりじりと距離を詰めてくる。
鋭く尖った無数の刃先が、私に向けられていた。
そっか。
本当に、私……ここで殺されるんだ。
ロイドに謝ることもできないまま。
「やれ! どうした……早くやらんか!!」国王が声を荒げた。
騎士たちの動きが、何故かピタリと止まっていたのだ。
彼らは戸惑ったように顔を見合わせ、広場の入り口の方へと視線を向けている。
嘘。
どうして……君が、ここにいるの??「何をやっておる! お前ら、早くその忌まわしいガキを串刺しにせんか!!」「で、ですが国王陛下……! 先日、偶然にも王族の血の繋がりが見つかって、次期国王(皇太子)として迎え入れられたばかりの『あの坊ちゃん』が……」「ああ!? あいつがどうしたというのだ!!」「後ろで、何か……武器を構えて立ち塞がっております!!」群衆がどよめき、道が開いた。
そこに立っていたのは、私の大嫌いで、大好きな、一人の少年。
「ロイド……逃げて……っ」私の掠れた声を掻き消すように、ロイド・アガルタは両手を大きく広げ、騎士たちと私の間に立ちはだかった。
その手には、どこから拾ってきたのか、古びた鉄の剣が握られている。
「やめろ、お前ら!! こいつは……この俺、”次期国王”ロイド・アガルタ様の大切な人だ!! 絶対に手を出させるもんかよ!!」「ロイド……!」ボロボロになりながらも私を庇うその背中を見て、私は涙が溢れるのを止められなかった。
しかし、その光景を見た国王は、呆れたようにため息をついた後、腹を抱えて爆笑し始めた。
「ハハハハッ! 貴様に、何ができるというのだ!! 貴様は確かに血筋としてはこの国の未来ではあるが、今はただの路地裏で育った薄汚い子供に過ぎない!! 人の上に立つ『覚悟』など、欠片も持ち合わせておらんだろう!!」「くっ……!!」国王の圧倒的な威圧感に、ロイドは歯を食いしばりのけぞった。
「もし……もしだ!」国王は、悪趣味なゲームを思いついたように口角を吊り上げた。
「もし貴様が、その命を賭してでも覚悟を示せたなら、この小娘の命を見逃してやろう! さあ、どうする!? 次期国王、ロイド・アガルタよ!!」ロイドの肩が、ピクリと震えた。
彼は逃げない。
このままでは、彼は国王の凶刃に倒れてしまう。
(ロイド……)助けに来てくれて、本当に嬉しい。
君が私を「大切な人」と呼んでくれただけで、私の胸は張り裂けそうなくらい温かくなった。
でも、私ね。
やっぱり、あなたのことが……大好きだから。
世界中の誰よりも、愛しているから。
あなたに危険な目に遭ってほしくない。
この先、私なんかと一緒にいて、不幸になってほしくない。
次期国王として、安全な場所で、これからもずっと幸せに生きてほしい。
だから。
今から、とびきりの嘘をつくね。
だからお願い、ロイド。
私のことを、心の底から嫌いになって?私のことなんか、忘れて生きて?「ロイド……!」私が声を振り絞ると、ロイドは焦ったように振り返った。
「マーシャ、大丈夫だ! 俺はお前を助けに……!!」「私は、お前のことが大嫌いだ!! ずっと!! これからも!!!」ロイドの顔から、血の気が引くのが分かった。
「マーシャ……?」「私は、広場であんたに『嫌い』って言われたけど!! 私のほうが、あんたのこと大嫌いだ!! 大嫌い……!! 大嫌いなのよ!!」「マーシャ……」心が、千切れるように痛かった。
声が震えないように必死だったのに、気づけば私の顔は、ボロボロと溢れ出る涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「だから……っ!」早く、私を見捨てて。
「はやく……! 私のことなんか、忘れてよ!!」――それが、私の心から漏れてしまった、痛切な本音だった。
「時間切れだ」国王の冷酷な声が、私の悲鳴を断ち切った。
「兵士たちよ。
構わん、次期国王ごと、槍でその女を突き刺せ」「御意!!」殺意を宿した号令。
重い甲冑の擦れる音と、複数の足音が、地響きのようにこちらへ迫ってくる。
ああっ……逃げて、ロイド!!私は、恐怖と絶望で強くまぶたを閉じた。
死ぬ。
今度こそ、間違いなく死ぬんだ。
しかし……。
一秒、二秒、五秒。
どれだけ時が経っても、私の体に鋭い痛みが訪れることはなかった。
代わりに聞こえたのは、生温かい液体が地面に滴り落ちる音と、人々の息を呑む声。
私は、恐る恐るまぶたを開けた。
「ロイド……?」目の前には、私をすっぽりと隠すようにして立つ、見慣れた背中があった。
「やりやがったな! せっかく苦労して跡継ぎを見つけたところを!! 貴様ら、ロイド・アガルタになんてことを!!」錯乱したように叫ぶ国王の声。
「ひぃっ! 陛下が『ごと刺せ』と仰ったから……!」戸惑い、後退りする兵士たちの声。
群衆のざわざわとした悲鳴。
すべてが、水底で聞いているように遠く、非現実的だった。
私は、もう一度、ゆっくりと視線を下へ向けた。
すると……そこにあったのは。
私を庇うように両腕を広げたまま……背中から胸へ向けて、何本もの鋭い鉄の槍で、身体のあちこちを完全に貫かれた、ロイド・アガルタの血まみれの姿だった。
(あの時、ロイドは……勇者ラングルドの悪辣な罠に嵌められ、私を救うために「嫌いだ」と嘘をつかされていたのだと、私が知ったのはずっと後のことだった。
)ボタボタと、彼の口から吐き出された血が、石畳を赤く染めていく。
全部……私のせいで。
私なんかが、この世界にいなければ。
調律者なんていう呪われた存在に生まれてこなければ。
ロイドは、こんな冷たい槍に貫かれることはなかった。
次期国王として、温かいベッドで、美味しいものをたくさん食べて、幸せに生きられたはずなのに!「ロイド……? なんで……」全身の血の気が引き、私の喉からヒューヒューと掠れた音だけが漏れる。
「私のこと……嫌いじゃないの……? ねえ! ロイドォ!! なんで……!!」「私なんかのために!! ロイドの本当の気持ちも知らずに、あんなひどいことを言った、私なんかのために……!!!」縛られたままの私の顔は、とめどなく溢れる涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
ロイドは、口の端から血を流しながら、激痛に顔を歪め、それでも私を振り返って、笑おうとした。
「マーシャ……」「ロイド……ッ!」「……愛してる!!」その言葉が耳に届いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
「ロイ……ド……?」「あー……わりぃ。
今の、やっぱ無しで。
お前は俺のことなんか忘れて、どっかで勝手に幸せに生き……」「マーシャ……? 何を……」私は、顔を真っ赤にして照れ隠しをしようとする彼の言葉を遮るように、拘束された状態から必死に身を乗り出し――涙をポロポロとこぼしているロイドの血まみれの唇に、そっと自分の唇を重ねた。
抑え込もうとしても滝のように溢れる涙が、ロイドの頬を伝い落ちる。
血の味と、涙のしょっぱさが混じり合った、ロイドと私の、最初にして最後の熱いキスだった。
「ロイド……」「マーシャ、俺……」「良いの。
私と一緒に……逝こ?」「ごめん! ごめん!! 俺……!! 俺ェ……!!」ロイドの悲痛な嗚咽が響く中、背後の国王が忌々しそうに怒号を上げた。
「ええい、今だ!! 兵士たちよ!! 謀反人ロイド・アガルタごと、その悪魔を刺し殺してしまえぇ!!!」「ロイド……」「私も、愛してるよ」その瞬間、ロイドは……痛みを忘れたかのように、出会った頃と同じ、無邪気で優しい表情で微笑んだ。
「マーシャ。
……幸せにしてやれなくて、ごめんな」それが、彼の最後の言葉だった。
直後、無数の槍がロイドの身体を深々と貫き、その後ろにいた私の身体をも容赦なく貫通した。
焼けるような激痛。
ごぼりと喉に湧き上がる鮮血。
今思えば、あの「幸せにしてやれなくてごめんな」という最後の言葉こそが、ロイドと私が交わした、たったひとつの『約束』だったのかもしれない。
――こうして、私、マーシャ・アドミニストレーターは死んだ。




