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06

吹き荒れる猛吹雪の廃村から逃れ、僕とマーシャが名もなき宿場町に辿り着いたのは、空が鉛色から深い藍色へと沈みかけ、凍てつくような夜の帳が下りようとしている頃だった。



「エミール、見て。

明かりが見えるわ……!」


厚い防寒具越しでも震えているのがわかるマーシャの声に、僕は重い雪を掻き分ける足を止め、前方を凝視した。



猛吹雪の向こう側に、確かにオレンジ色の温かな灯りが幾つも滲んでいる。

煙突から立ち昇る薪の匂いが、冷たい風に乗って微かに鼻腔をくすぐった。



「ああ、やっと着いたな。

地図にあった中継ぎの宿場町だ」


僕たちは文字通り、這うようにしてその町へと滑り込んだ。



村を焼かれ、あの中級魔族の毒を浴びてからというもの、僕の身体は不思議なほどに軽い。

あの廃教会で僕の身体から溢れ出した「黄金の光」が、疲労すらも浄化してしまったかのようだった。



だが、その代償のように、分厚いマントの下に隠された『魔王の右腕』は、人間の温もりを拒絶するかのように、時折ドクン、ドクンと不気味な脈動を打っている。



町外れの路地裏にある、古びた二階建ての安宿。



人の良さそうな女将さんに銀貨を握らせて部屋を確保した僕たちは、荷物を置くや否や、休む間もなく再び外へと出た。



温かいベッドに倒れ込みたい衝動を必死に堪え、向かったのは、女将さんに道順を聞き出した『町営の古文書院』だった。



「ごめんね、マーシャ。

休みたいはずなのに」


「ううん、平気。

それに……あの廃教会で見つけた『伝承』の続き、私も早く知りたいから」


マーシャは白く吐く息の中で、気丈に微笑んでみせた。



僕たちを助けてくれたあの老剣士は言った。

『旧勇者パーティーの三人を倒せ。

そうすれば自ずと力がつき、真相に辿り着く』と。



だが、ただ闇雲に追手を待つだけでは殺される。

奴らはなぜ、かつての英雄でありながら勇者ラングルドの狂気の手駒に成り下がったのか。

あの純白の悪魔を殺すための弱点は存在しないのか。



戦うための「情報」が、僕たちには決定的に不足していた。



カラン、と寂れた鐘の音を鳴らして古文書院の扉を開ける。



そこは、埃と古い羊皮紙の匂いが充満する、薄暗く広大な空間だった。

老眼の進んだ管理人の老人は、僕たちが暖炉の火に当たることを条件に、閉館時間ギリギリまでの閲覧を許可してくれた。



「エミール、こっちよ。

歴史や神話の分類は、この棚みたい」


マーシャが、小さな光の魔法ライトを指先に灯し、暗い書架の奥へと進んでいく。



僕たちは手分けして、王国歴の古い記録、魔王討伐に関する伝承、そして『勇者』という存在そのものの成り立ちに関する書物を手当たり次第に引き抜いては、ページをめくった。



数十分の静寂が続いた後。



「……エミール。

これを見て」


分厚く、革の表紙がボロボロに崩れかけた古書を広げたまま、マーシャが震える声で僕を呼んだ。



駆け寄った僕の目に飛び込んできたのは、古代文字と王国語が入り混じった、ひどく難解な記述だった。



「これは……?」


「『聖なる加護の変質』について書かれた項目よ。

エミール、あのお爺さんが言っていた言葉、覚えてる?」


老剣士の言葉。



――『奴らは、ラングルドと共に旅をした英雄たちだ。

だが、今は堕天し、世界に害をなす存在へと成り下がっている』。



「『堕天』……」


「そう。

この本には、その『堕天』という現象についての仮説が記されているわ」


マーシャは、指先の魔法の光を書面に近づけ、なぞるようにして読み解いていく。



「『神聖なる加護を受けし英雄の魂は、強靭であるがゆえに、一度その均衡が崩れれば深い闇へと反転する。

これを堕天と呼ぶ』……」


「魂の、反転?」


「ええ。

原因は大きく分けて二つあるみたい。

一つは、上位の魔族やより強大な力を持つ者による『精神の直接的な操作』。

強力な洗脳魔法のようなものね。

そしてもう一つは……」


マーシャは言葉を区切り、辛そうに息を飲んだ。



「『己の心の傷、深い絶望、あるいは愛する者を失った喪失感によって、精神が完全に崩壊し、自らの意志で黒い心を持った怪物へと変貌すること』……って書いてあるわ」


絶望による、怪物への変貌。



その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。



かつて、世界を救うために命を賭して戦った英雄たち。



彼らは今、勇者ラングルドの手駒として、僕たちのような何の罪もない村人を虐殺している。



もし、彼らが自ら望んで悪に染まったのではなく、ラングルドという底知れない悪魔によって『洗脳』されているのだとしたら。



あるいは、ラングルドの手によって、精神が崩壊するほどの『絶望』を人為的に与えられ、狂わされてしまったのだとしたら……。



「……ふざけるな」


僕の口から、低く、呪詛のような声が漏れた。



怒りで、視界が赤く染まる。

右腕の脈動が、僕の殺意に呼応して激しく跳ねた。



「自分が世界を支配するために、かつて背中を預けた仲間たちの心すらも壊して、手駒にしたっていうのか。

あの白亜のクソ野郎は……!!」


「エミール、落ち着いて。

……右腕が、瘴気を放ってる」


マーシャの冷たく柔らかい手が、僕の右腕をそっと包み込んだ。



その温もりに触れ、僕はハッと我に返り、荒くなっていた呼吸を整えた。

いけない、少しでも感情を乱せば、魔王の瘴気に意識を持っていかれそうになる。



「……ごめん。

でも、これで敵の輪郭が少しだけ見えた。

奴らはただの殺人鬼じゃない。

心底狂っているか、操られている化け物だ。

一切の情けをかける必要はない」


「うん。

……でもね、エミール。

もっと厄介な記述が、別の本にあったの」


マーシャは、隣に積まれていた、さらに古い——表紙のタイトルすら削れ落ちている一冊の黒い本を開いた。



その本は、先ほどの本以上に不気味な雰囲気を漂わせていた。

ページを開いた瞬間、微かに古い血の匂いがしたような気がした。



「これは、魔王討伐の裏に隠された、もう一つの『システム』について書かれた異端の書のようね。

……エミールは、『調律者』って言葉を聞いたことがある?」


「調律者……? いや、ないな」


聞いたことのない単語だった。



楽器の音を合わせる人間のことか? いや、文脈からしてそんな牧歌的な意味ではないだろう。



「……あの勇者が、なぜあんなにも絶対的で、不老不死に近い存在なのか。

その秘密が、この『調律者』にあるかもしれないの」


マーシャは、古い羊皮紙に記されたかすれた文字を、まるで呪文を唱えるように静かに読み上げた。



「『勇者の命は、星のことわりと深く結びついている。

だが、その強大すぎる力は、時に器たる人間を壊してしまう。

ゆえに、神は勇者と対になる存在を世界に遣わした。

それを“調律者”と呼ぶ』」


「勇者と対になる存在……」


「『調律者は、勇者の魂の均衡を保つためのくさびである。

勇者が受けた致命の傷は、調律者との繋がりがある限り、即座に星の力によって修復される。

すなわち、調律者が生を全うする限り、勇者は決して死ぬことはない——』」その残酷な一文が、埃っぽい書庫の空気に重く沈み込んだ。

エミールが何かを言おうとした、その瞬間だった。

「あ……ぁ、ぐっ……!」突如、頭蓋骨を内側からハンマーで殴られたような、視界が真っ白に飛ぶほどの激痛が私を襲った。

手から黒い本が滑り落ち、床に鈍い音を立てて落ちる。

『調律者』。

その単語を口にした瞬間、脳の奥底に何重にもかけていたはずの分厚い鍵が、無理やりこじ開けられるような感覚。

「マーシャ!? 大丈夫か!」エミールの焦燥に満ちた声が、ひどく遠く聞こえる。

ごめんね、エミール。

急に取り乱したりして。

そう言おうとした私の意識は、そこでぷつりと途切れた。

冷たい石の床に倒れ込んだはずの私の身体は、底なしの暗闇へと真っ逆さまに落ちていき――。

やがて、眩しい光と、肌を焦がすような夏の熱気、そしてけたたましい蝉の声に包まれた。


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