05
吹き荒れる猛吹雪が、刃のように頬を切り裂く。
見渡す限り白一色に染まった世界の中で、僕——エミール・ハーヴェストは、重い雪を掻き分けながら一歩ずつ前へと進んでいた。
「エミール、大丈夫? 右腕、痛んでない?」
背後から、分厚い防寒具に身を包んだマーシャが、凍えるような声で気遣ってくれる。
「大丈夫だよ、マーシャ。これくらい、なんてことない」
僕は振り返り、努めて明るい声で答えた。だが、分厚いマントの下に隠された『魔王と契約した右腕』は、先ほどから警告音を鳴らすように、ドクン、ドクンと不気味な脈動を繰り返していた。
村を焼き払われたあの夜から、僕たちは王都を目指して過酷な旅を続けていた。
狂った勇者ラングルドを殺し、すべての元凶である魔王を討ち果たす。その途方もない目的を果たすため、僕たちは人目を避け、魔物が跋扈する険しい山越えのルートを選んだのだ。
「もう少しで、地図にあった廃村につくはずだ。そこで一晩やり過ごそう」
僕の言葉に、マーシャは小さく頷いた。
やがて、猛吹雪の向こう側に、黒ずんだ建造物の輪郭が浮かび上がってきた。
かつては栄えていたのだろうが、今や見る影もなく寂れ果てた廃村だった。屋根は崩れ落ち、窓ガラスは割れ、家々の柱は朽ち果てている。
その村の中心に、ひときわ大きく、威容を誇る石造りの建物がそびえ立っていた。
「あれは……教会、かな?」
マーシャが雪を払いながら見上げる。
「みたいだね。かなり古そうだけど、壁も屋根もしっかり残ってる。今日はあそこで休もう」
僕たちは、軋む重い木扉を押し開け、教会の中へと転がり込んだ。
外の狂ったような吹雪が嘘のように、教会の中は静まり返っていた。
ステンドグラスは大部分が割れていたが、かすかに差し込む青白い月光が、広大な身廊を照らし出している。空気がひんやりと澄んでおり、廃墟特有の淀みや魔物の気配は感じられない。
僕は手早く火を起こし、凍りついた体を温めた。
パチパチと爆ぜる焚き火の音が、張り詰めていた神経を少しだけ和らげてくれる。
「ふう……生き返るわね」
マーシャが両手を火にかざし、ほっと息をついた。その横顔を見て、僕は少しだけ胸が痛んだ。
彼女は僕の復讐に付き合って、こんな過酷な旅をしている。本来なら、温かい部屋で笑っていてほしいのに。
「……ごめんな、マーシャ。こんな旅に巻き込んで」
「またそれ? 言ったでしょ、私は私の意志で君についてきてるの。それに……君一人じゃ、すぐに無茶して死んじゃいそうだしね」
彼女は悪戯っぽく笑い、僕の肩を軽く小突いた。
その時、僕の右腕が再び、ズキリと鋭く痛んだ。
「っ……」
思わず顔をしかめ、右腕を押さえる。
魔王の瘴気で変異したこの腕は、ただの「武器」ではない。僕の寿命を削り、常に魂を黒く染め上げようと侵食してくる「呪い」そのものだ。
「……痛むの?」
マーシャの表情がサッと曇る。
「平気だ。ただ……この教会に入ってから、少し右腕の様子がおかしいんだ。まるで、この場所そのものに『拒絶』されているような……」
「拒絶?」
マーシャは不思議そうに周囲を見渡し、ふと、祭壇の奥にある巨大な石碑に目を留めた。
「エミール、見て。あそこ……」
彼女に促され、僕は立ち上がって祭壇へと近づいた。
そこには、神話の時代に彫られたような、精緻で荘厳なレリーフが壁一面に刻まれていた。
「これは……創世の神話?」
僕が呟くと、魔術の歴史に明るいマーシャが、壁面に刻まれた古代文字をなぞりながら読み解き始めた。
「違うわ。これは神話じゃなくて……『伝承』ね。かつて、魔王がこの世界を闇で覆い尽くそうとした時、それを退けた存在の記録……」
「勇者のことか?」
僕の脳裏に、村を焼いたあの純白の悪魔の姿がフラッシュバックし、無意識に声が険しくなる。
「……ううん。今の『勇者』というシステムができる、もっとずっと前の話みたい。文字の解読が正しければ……『千年に一度、星の意思が人の形をとって現れる。それを“真の英雄”と呼ぶ』……」
真の英雄。
その言葉の響きに、僕はなぜか胸の奥がざわつくのを感じた。
「『英雄は、魔を祓う黄金の瞳と、すべてを浄化する退魔の光を宿す。その力は神すらも凌駕し、魔王の深淵を打ち砕く』……凄い。おとぎ話で聞いたことはあったけど、こんな古い記録が残ってるなんて」
マーシャは感嘆の声を漏らし、祭壇の中央に安置されている「ある物」に気づいた。
それは、台座の上にぽつんと置かれた、手のひらサイズの水晶のような石だった。
だが、その石はただの鉱石ではない。内側に鈍い光を宿し、教会の冷たい空気の中で、そこだけが微かな温もりを放っているように見えた。
「『英雄の試金石』……って書いてあるわ。千年に一度の英雄の魂を持つ者が触れた時だけ、光り輝く聖なる遺物だって」
マーシャは興味深そうに石を覗き込んだ。
「英雄、か。僕たちには縁のない代物だな。僕の体には、魔王の呪いがこびりついてるんだから」
僕は自嘲気味に笑い、その場を離れようとした。
だが、その時だ。
——ズンッ!!
教会の重い木扉が、爆発したかのように吹き飛んだ。
「なっ!?」
木っ端微塵になった扉の向こう、吹き荒れる吹雪の中に、巨大な影が三つ、ゆっくりと姿を現した。
人間の倍はあろうかという巨体。全身を覆う漆黒の甲殻。そして、山羊のようにねじ曲がった角。
「魔族……しかも、下級じゃない! 上級に近い中級魔族よ!」
マーシャが即座に杖を構え、迎撃の態勢をとる。
「チッ……こんな吹雪の中を追ってきたのか!」
僕は背中の大剣を引き抜き、マーシャの前に立ち塞がった。
『ヒャハハハ! 見つけたぜェ、魔王様を裏切った汚え泥棒ネズミと、そのお仲間ァ!』
真ん中に立つ魔族が、耳障りな金切り声を上げた。
『ヘンリー様の部隊に合流する前に、手柄を立てさせてもらうぜ! お前ら、生きたまま皮を剥いでやる!』
ヘンリー。その名前に聞き覚えはなかったが、奴らが僕の命を狙う魔王の尖兵であることには違いない。
「やらせるか!」
僕は床を蹴り、先頭の魔族に向かって斬りかかった。
右腕の瘴気を解放し、大剣にどす黒い魔力を纏わせる。魔王の力を借りた一撃は、魔族の硬い甲殻を紙のように切り裂いた。
『ギャアアアアッ!』
「エミール、右から来るわ! 『氷槍』!」
マーシャの援護魔法が、右側から迫っていた魔族の動きを止める。
だが、残る一体——リーダー格の魔族が、狡猾にも僕を無視し、後方にいるマーシャへと狙いを定めた。
『まずはその女からブチ殺してやる!』
魔族の口が大きく裂け、その奥でドロドロとした緑色の液体が沸騰し始めた。
「マーシャ、危ないッ!」
「……え?」
『喰らえ! “魂腐呪のブレス”!!』
吐き出されたのは、ただの毒液ではない。
触れた者の魂を直接腐らせ、一切の治療魔法を無効化する、上位魔族特有の極大の呪毒だった。
放射状に広がるその緑色の瘴気は、回避不可能な速度でマーシャへと迫る。
「マーシャ!!」
僕は思考を捨てた。
ただ、彼女を守らなければという本能だけで、限界を超えた速度で地面を蹴り、マーシャの前に飛び込んだ。
「エミール! 駄目ぇっ!!」
ドバァァァッ!!
緑色の呪毒が、僕の全身を容赦なく包み込んだ。
「が……あ、あ、ああああっ!!」
想像を絶する激痛が走る。皮膚が焼けるのではなく、内臓を通り越して「自分」という存在そのものが溶かされていくような、絶対的な死の感覚。
『ギャハハハハ! 馬鹿なガキだ! 魔王様の腕を持っていようと、その身体はただの人間! 俺様の呪毒をモロに浴びて、生きてられるわけが——』
魔族の嘲笑が、教会のドームに響き渡る。
僕の意識は、猛烈な吐き気と痛みの渦の中で急速に薄れていった。
(あ、あ……ここで、死ぬのか……?)
視界が緑と黒に染まる。
後ろで、マーシャが悲痛な声を上げて泣き叫んでいるのが聞こえる。
駄目だ。僕が死んだら、マーシャが殺される。
立ち上がれ。剣を握れ。
だけど、魔王の右腕の力は、この呪毒の前に完全に沈黙していた。
同じ『魔』の力である以上、より高位で濃密な呪いには抗えないのだ。
(くそ……っ、動け……動けよ!! 僕は……マーシャを、守るんだ!!)
魂の底から、血を吐くような叫びを上げた。
その、刹那だった。
——ドクン。
僕の心臓が、今までとは全く違う、強く、清らかなリズムを刻んだ。
それは魔王の右腕の脈動ではない。僕の胸の奥底……クルーガーさんから受け継いだ心臓の奥、僕自身の魂の核から湧き上がってきた鼓動。
「……え?」
僕の身体を覆っていた緑色の呪毒が、突如として「蒸発」し始めたのだ。
シュゥゥゥゥッという音を立てて、毒の瘴気が浄化されていく。
『な、なんだァ!? どうなってやがる!!』
魔族が驚愕の声を上げる。
僕自身が一番驚いていた。
痛みが引いていく。代わりに、身体の奥底から、信じられないほど温かく、そして圧倒的な『力』が溢れ出してくるのを感じた。
ふと視線を下ろすと、僕の身体から、微かに「黄金の光」が漏れ出していた。
それは魔王の禍々しい紫色の瘴気とは真逆の、触れるものすべてを癒やし、そして邪悪を焼き尽くすような、神聖な光だった。
(この力は……なんだ……?)
考えるより先に、身体が動いた。
僕は大剣を握り直し、黄金の光をその刃に纏わせた。
驚くべきことに、魔王の右腕もその光に反発することなく、むしろ光を増幅させるように融合していく。
「消えろ……!!」
僕は床を蹴った。
先ほどまでの動きが児戯に思えるほどの、神速の踏み込み。
『ヒィッ——』
魔族が防御の姿勢をとる間もなかった。
一閃。
黄金の光が教会の闇を切り裂き、中級魔族の巨体を唐竹割りに両断した。
悲鳴を上げる暇もなく、魔族の身体は光に包まれ、文字通り「浄化」されて塵となって消え去った。
圧倒的な静寂が、教会に戻ってきた。
僕は荒い息を吐きながら、大剣を下ろした。身体から溢れていた黄金の光は、役目を終えたようにスーッと僕の体内へと収束して消えていった。
「エミール……! エミール!!」
マーシャが駆け寄り、僕の身体にすがりついてきた。
「ばか、ばか……! 死んじゃうかと思った……! 呪毒をモロに浴びたのに、どうして……!」
彼女はボロボロと涙をこぼしながら、僕の顔や身体をペタペタと触って無事を確認する。
「ごめん、マーシャ。僕も、何が起きたのかよく分からないんだ」
僕は自分の両手を見つめた。
呪毒のダメージは一切ない。それどころか、先ほどまで感じていた長旅の疲労すら完全に消え去っていた。
「あの毒を無効化するなんて……。それに、さっきの光……」
マーシャは涙を拭い、僕の顔をじっと見つめた。
「エミール。君、魔王の呪いとは違う、何かとてつもない魔法を使った?」
「いや……何もしてない。ただ、君を守りたいって強く念じただけで……」
僕は首を振り、ふと、祭壇の方へ目を向けた。
「あっ……!」
マーシャも気づき、息を呑む。
祭壇の中央に置かれていた、あの『英雄の試金石』。
千年に一度の英雄の魂を持つ者が触れた時だけ光り輝くというその遺物が。
僕が触れてもいないのに、今、まるで太陽のように眩い「黄金の光」を放っていたのだ。
「試金石が……光ってる」
マーシャが震える声で呟く。
僕はゆっくりと祭壇に近づき、その光り輝く石を見つめた。
さっき僕の身体から溢れ出した光と、全く同じ色の輝き。
それはまるで、僕という存在に呼応して、千年もの眠りから目覚めたかのような反応だった。
「マーシャ……。もしかして、魔王の右腕の呪いが、この石の魔力に反応して暴走したのかな?」
僕は、信じられない現実から目を背けるように、そう仮説を立てた。僕が英雄などであるはずがない。僕はただの、大切なものを守れなかった、泥に塗れた復讐者なのだから。
マーシャはしばらく石と僕の顔を交互に見比べていたが、やがて小さく首を振った。
「……そうね。きっと、魔王の絶大な瘴気が、この聖なる遺物と反発して、あんな特異な現象を起こしたんだわ。君が毒を弾いたのも、魔王の呪いが君の命を勝手に守ろうとしたから……」
彼女の言葉には、どこか自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
調律者である彼女の直感は、その光が「魔王のもの」ではなく、僕自身の魂から発せられたものであることに気づきかけていたのかもしれない。
だが、僕たちはあえて、その真実にこれ以上触れないことを選んだ。
「……とにかく、無事でよかった」
マーシャが微笑み、僕の手を優しく握る。
「ああ。これくらいで死んでたら、勇者も魔王も殺せないからな」
僕は彼女の手に力を込め、強く握り返した。
祭壇の試金石は、しばらくの間、僕たちを祝福するように静かに黄金の光を放ち続けていた。
この不可解な力の正体が何であれ、構わない。
僕の中に眠るこの力——どんな毒も退け、魔を浄化するこの光が、本当に『英雄』の力なのだとしたら。
僕はそのすべてを、マーシャを守り、この狂った世界を終わらせるために使い尽くしてやる。
吹雪の音は、いつの間にか止んでいた。
壊れた扉の向こう側には、これから待ち受ける過酷な運命を暗示するかのように、深く、冷たい闇が広がっていた。
僕たちはまだ知らない。
この先に、不死身の肉体を持つ狂気の射手・ヘンリーが待ち受けていることを。
そして、この日垣間見た「黄金の光」が、やがて神すらも凌駕する『1000年に一度の英雄』としての完全覚醒へと繋がる、最大の伏線であったことを。




