04
冷たい風が頬を撫でる感覚で、僕は意識を取り戻した。
重い瞼をゆっくりと開けると、見知らぬ木造の天井と、吹き込んでくる雪の白さが視界に飛び込んできた。
どうやら、どこかの家のベランダに寝かされているらしい。
ここは……どこだ? 僕はなんでこんな所に……。
体を起こそうとすると、首の裏側に鈍い痛みが走った。
視線を巡らせると、すぐ傍らで心配そうに僕を覗き込むマーシャの姿があった。
その瞳は赤く腫れ上がり、彼女がどれほど泣き続けたのかを物語っていた。
そして、その奥には……猛吹雪の中で僕の命を救い、首元に手刀を叩き込んだ、あの老齢の剣士が腕を組んで壁にもたれかかっていた。
気を失う……前……?そうだ。
思い出した。
脳裏に、鮮烈な赤色がフラッシュバックする。
床一面に広がっていた、どす黒い血の海。
不自然な方向に手足を曲げて転がっていた、父さんと母さんの体。
首から上が無かった、あの凄惨な光景。
「あ……ぁ……」喉の奥から、空気が漏れるような情けない音が鳴った。
僕の両親は、殺されたんだ。
あの純白の外套を羽織った殺人鬼に。
この世界の希望であるはずの、勇者に。
「う、ああああああああっ!!!」気がつけば、僕は喉が裂けんばかりの絶叫を上げていた。
悲しみ、絶望、そしてそれを遥かに凌駕するほどの、煮えたぎるような憎悪が全身の血液を沸騰させる。
「殺してやる……!! あの野郎……勇者ぁ……!!!!」僕はベランダの床を拳で何度も、何度も叩きつけた。
拳の皮が破れ、血が滲んでも痛みなど感じなかった。
「バラバラのグチャグチャにしてやる……!!! ぶち殺してやる!! だから……! 首を洗って待ってろォォォッ!!!」叫びすぎた反動と、極限の精神的ストレスが胃を激しく収縮させた。
「ゲフッ……! ゲボァッ……!!」僕は床に四つん這いになり、胃液を激しく嘔吐した。
吐くものなど何も残っていないのに、何度も何度もえずき続ける。
涙と鼻水と涎が混ざり合い、顔中がぐちゃぐちゃになっていた。
「エミール……。
大丈夫、ゆっくり息をして……」背中を優しく、一定のリズムで撫でる手のひらがあった。
マーシャだった。
彼女は僕の汚れた口元を自分の袖で拭い、壊れ物を扱うように抱きしめてくれた。
情けない。
本当に、僕は情けない。
マーシャの親だって、あの状況からして、恐らくすでに殺されているはずだ。
彼女自身、心が粉々に砕け散りそうなほどの絶望の中にいるはずなのに。
それなのに、彼女は自分の悲しみを押し殺して、僕のことを第一に考えてくれている。
「僕……情けないなあ……」掠れた声で、僕は呟いた。
「マーシャを僕が守るって……告白した時に、あんなに偉そうに約束したのに。
いざって時は、何もできなくて……僕は、マーシャに守られてばっかりだ」「そんなことないよ」マーシャは、涙声でありながらも、はっきりとした強い口調で言った。
「私だって、エミールのことを守りたい。
だから、もし君がピンチになった時は私が全力で助けるから、私がピンチになったら君が助ける……それで、お互い様。
……ってことで良いよね?」彼女の温かい涙が、僕の頬に落ちた。
「うん……!! うんっ!!」僕は何度も頷いた。
「それに、私だって……お父さんやお母さん、それに村のみんなを惨殺したあの悪魔を、絶対に許すつもりはないから……。
一緒に戦おう……ね?」「ああ。
二人で……必ず、あの勇者を倒そう」僕たちは互いの体を支え合いながら、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、もはや先ほどの絶望の涙はなく、冷たく燃え盛る復讐の炎だけが宿っていた。
「……ゴホン。
愛を確かめ合うのは結構だが、そろそろ良いかな?」ずっと黙って僕らを見つめていた老剣士が、重々しい口を開いた。
その声には、一切の感情が排されたような冷徹な響きがあった。
「君たちに、最悪の知らせがある」「これ以上、悪い知らせって……? 何だよ」僕は血走った目で老人を睨み返した。
「私も、これ以上悪い知らせなんて、この世にないと思うけど……」マーシャも身構えるように僕の腕を強く掴む。
「確かに、一般的に考えれば両親の死以上の悲劇はないかもしれない。
だが、生存という観点から考えれば、現状は最悪だ」老人は窓の外、吹き荒れる吹雪の闇を見つめながら、単刀直入に告げた。
「あの狂人が、ここに向かってきている。
どうやら、この隠れ家の場所がすでに割れたらしい」その情報は、今の僕らにとってあまりにも刺激が強すぎるものだった。
「来るっていうなら、好都合だ……! ここで殺してやる……!」僕は反射的に剣の柄に手をかけた。
「私も戦う!!」マーシャも即座に魔法の詠唱姿勢に入る。
「落ち着け。
愚か者共」老人の鋭い一喝が、凍てつく空気を通して僕らの肌を刺した。
その圧倒的な覇気に当てられ、僕らは息を呑んで動きを止めた。
「…………」「…………」「いいか、よく聞け。
今の君たちでは、束になろうが奴の指一本にすら勝てない。
犬死にするだけだ」老人は僕らの目を交互に見据え、言葉を続けた。
説明をしている暇などない、と急き立てるような早口だった。
「だから、君たちはまず、生き延びて力をつけろ。
手始めに……『旧勇者パーティー』の三人を倒すのだ」「旧勇者パーティー……?」「奴らは、ラングルドと共に旅をした英雄たちだ。
だが、今は堕天し、世界に害をなす存在へと成り下がっている。
あの狂人に付き従う、狂った手駒だ」老人は荷物をまとめ、僕らに向かって素早く投げ渡した。
中には数日分の保存食と、古びた地図が入っていた。
「残念だが、ここでゆっくりと過去の歴史を語って聞かせる暇はない。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの堕天した旧勇者パーティーを追って倒していけば、自ずと力がつき、そして……なぜ君たちの村が襲撃されたのか、その『真相』に辿り着くはずだ」「……わかりました」僕は地図を握りしめ、深く頷いた。
マーシャも力強く頷き、僕の隣に並び立つ。
今の僕らが、あの勇者に勝てないことは痛いほど理解していた。
あの圧倒的な力の差、指先一つで僕を殺そうとしたあの余裕。
だから、悔しいが、この老人の提案を呑んで逃げる以外の選択肢はなかった。
死んでしまえば、復讐すら果たせないのだから。
「追っ手は私が引き受ける。
それでは行け!! 真に勇気を持つ若き者たちよ!! さらばだ、また必ず会いに行くから、それまで決して死ぬな!!!」老人の怒号のような激励を背に受け、僕らは振り返ることなく、猛吹雪の吹き荒れる白銀の闇の中へと全力で駆け出した。
(………………………)——物語の視点は、冷たい雪山の頂から、華美で狂気的な空間へと移る。
「おい、ラングルド」足音も立てずに背後から歩み寄ってきた男の声に、僕はゆっくりと振り返った。
「何だ? ヘンリー。
君の方から僕に話しかけてくるなんて、随分と珍しいじゃないか。
明日は雪でも降るのかな? ああ、ここは一年中雪だったね」僕の名前は、ラングルド・ハーヴェスト。
この腐りきった世界を救済する、ただ一人の『勇者』だ。
僕に話しかけてきたのは、かつての仲間であり、今は僕の忠実な手駒の一人であるヘンリー・テイラー。
無精髭を生やし、背に身の丈ほどもある巨大な長弓を背負った男だ。
彼の瞳には、常に血に飢えた獣のような光が宿っている。
「くだらねえ冗談はよせ。
単刀直入に言う」ヘンリーは忌々しそうに舌打ちをし、低い声で唸った。
「俺に、あのマーシャ・アドミニストレーターって小娘を殺させてくれ」その要求を聞いた瞬間、僕は少しだけ目を丸くし、やがて優雅に微笑んだ。
「……ふーん。
良いよ」「……あっさり譲るんだな。
お前らしくない。
あの小娘が、お前の『計画』の目障りなんだろう?」拍子抜けしたのか、ヘンリーは胡乱な目を僕に向けてきた。
「まあね。
でも、僕は彼女をただ単に殺すよりも、もっと、もーっと面白いことをしようと計画しているだけさ。
その最初の舞台装置として、君の存在はピッタリだと思ってね」僕はワイングラスを片手に、窓の外の猛吹雪を見下ろした。
あの白雪の中に、必死で逃げ惑う哀れなネズミが二匹いるはずだ。
「……? ……まさか……! おいラングルド、お前! 俺があんな田舎者のガキどもに遅れをとるとでも思ってんのか……!!?」ヘンリーの顔が、怒りで赤黒く染まる。
己の腕に絶対の自信を持つ男特有の、激しいプライドの反発だ。
「まあ、その言葉の解釈は君の想像力に委ねるとするよ。
ヘンリー・テイラー。
地上最強の狙撃手たる君の弓の腕は、僕ももちろん信頼している。
それだけは忘れないでくれ。
……せいぜい、油断せずに楽しんでおいで」「当たり前だ。
あんなガキの眉間、何キロ離れていようがブチ抜いてやるよ」ヘンリーは乱暴に踵を返し、足音荒く部屋から出ていった。
扉が閉まる音を確認し、僕は一人、静かにグラスの赤ワインを揺らした。
フフッ。
クククッ……!正直な話……ヘンリーは、負けるな。
何故なら、マーシャの隣には……あのエミール・ハーヴェストという少年がいるからだ。
彼の剣技の才能は本物だ。
荒削りだが、死線の中でこそ輝く原石。
そして恐らく、今回の『両親の死』という極上の悲劇をスパイスにしたことで、彼の剣技は今までとは比べ物にならないほどの飛躍的な成長を遂げるだろう。
人間というのは、極限状態に追い込まれた時こそ、真の力を発揮する。
愛する者を失った悲しみ、愛する者を守りたいという切実な願い。
……フフッ。
アハハハハッ!全く……。
「愛の力」というのは、実に恐ろしく、そして美しいものだ。
だからこそ……。
僕はその『愛と絶望』という名の試練を、平等に彼らに与えなくてはならない。
彼らが血反吐を吐きながら成長し、すべての旧勇者パーティーを打ち倒し、最高の希望と力に満ち溢れた状態で僕の元へ辿り着く。
その瞬間に、彼らの持つすべての希望を、この僕の手で完膚なきまでに叩き潰すのだ。
それこそが、至高の芸術。
至高のエンターテインメントではないか。
焦るな……僕。
舞台の幕は、まだ上がったばかりだ。
僕が望む、この世界を絶望で塗り替える至高の"計画"が完遂される日は、そう遠くない。




