03
あんなにも禍々しく、魂を直接削り取られるような恐怖を味わったというのに、僕の体は疲労に抗えなかったらしい。
帰路につき、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ僕は、泥のような眠りにつき、次に目を覚ました時にはすでに午前10時を回っていた。
窓の隙間から差し込む、白銀の雪に反射した眩い朝の光。
僕はゆっくりと身を起こし、昨夜の出来事を反芻した。
魔王の圧倒的な威圧感、マーシャを逃がした瞬間の絶望、そして謎の空間に引きずり込まれた直後に聞こえた、あの男の声。
『魔王なんて、いないだろ。だって、数年前に僕が殺したよ』
伝説の勇者、ラングルド・ハーヴェストは確かにそう言った。
では、僕とマーシャが見たあの怪物は一体何だったのか。勇者の言う通り、魔王の残滓か、あるいはただの上級魔族の変異体に過ぎなかったのか。
考えれば考えるほど思考は泥沼に沈んでいく。
一階に降りると、食卓にはいつもより豪華な朝食が並んでいた。
焼きたての白パンに、厚切りにされたベーコン、そして野菜がたっぷり入った温かいスープ。湯気とともに漂う香ばしい匂いが、僕の胃袋を強烈に刺激する。
「おはよう、エミール。よく寝てたわね」
台所に立つ母さんが、鼻歌交じりに笑いかけてきた。
そうか、今日は昼から年に一度の「冬祭り」がある日だ。村人たちにとって最大の娯楽であり、今日ばかりはと各家庭でも財布の紐が緩む。この豪華な朝食も、祭りの高揚感がもたらしたものだろう。
温かいスープを胃に流し込みながら、僕はどこか現実離れした感覚に陥っていた。
昨夜の死の恐怖と、目の前にある温かなスープの味。この二つが同じ世界に存在していることが、ひどく奇妙に思えた。
(…………)
身支度を整え、軽く歯磨きをしていると、屋台の準備をあらかた終えたらしいお父さんが、雪を払いながら家に入ってきた。
顔は寒さで赤くなっているが、その表情はどこか晴れやかだった。
「エミール。昨日は本当に、大変な災難だったな」
お父さんは、僕の肩にポンと大きくて温かい手を置いた。
「ともあれ、エミールがこうして五体満足で家に帰ってきてくれて、俺は本当に嬉しいよ。生きていれば、それで十分だ」
僕は口をゆすぎ、タオルで顔を拭いてから頷いた。
「ありがとう、お父さん。心配かけてごめん」
「なあ、エミール」
お父さんは少しだけ声を潜め、真剣な眼差しで僕を見た。
「どうした? 父さん」
「お前、昨日……『魔王』に会ったってのは、本当に本当か?」
僕は一瞬だけ口ごもったが、まっすぐに父さんの目を見返した。
「ああ。本当だよ。信じられないかもしれないけど……」
お父さんは大きく息を吐き出し、顎をさすった。
「俺はてっきり、運悪く上級魔族辺りに遭遇して死にかけたのかと思ってたんだが……まさか、その上級魔族の中でも頂点たる魔王だったとはな。だが、勇者様が村に来ていて本当によかった。勇者様がいなけりゃ、今頃お前もマーシャちゃんも、どうなっていたか分からねえ」
お父さんは、僕が見たものを頭から否定しなかった。勇者が魔王は死んだと言ったことなど知らない彼は、息子の言葉をそのまま受け止めてくれたのだ。
「うん……。でも、信じてくれるんだね、父さん。僕やマーシャの突拍子もない話を」
「あったりめーよ」
お父さんは豪快に笑い、僕の頭をガシガシと撫で回した。
「俺の息子が、あんな真剣な顔で嘘をつくわけがねえ。お前は俺の自慢の息子だ」
「……ありがとう、父さん」
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がるのを感じた。
その時、外からドタバタと雪を蹴立てて走ってくる足音が聞こえ、続いて玄関の扉が勢いよく開いた。母さんが目を丸くして台所から顔を出す。
「エミール! あんた!! マーシャちゃんが、家の前に来てるよ! ものすごい顔して!」
「……今行く!」
僕はタオルを放り投げ、急いで玄関へと向かった。
(………………)
「エミール……エミールゥ!!」
扉を開けた瞬間、小さな体が弾丸のように僕の胸に飛び込んできた。
「うわっ……!」
受け止めた瞬間、分厚いコート越しでも分かるほど、彼女の体が小刻みに震えているのが伝わってきた。
「愛してる……! 愛してる!! だから……死んでなくて良かったよおおおおっ!!」
マーシャは僕の胸に顔を埋め、まるで子供のように声を上げて激しく泣きじゃくった。
彼女の目から溢れ出る涙が滝のように僕の服を濡らし、僕の背中に回された腕の締め付ける力が、時間とともにどんどん強くなっていく。
昨夜、彼女は無理やり安全な場所へ転移させられた。残された僕が魔王に殺されたと思い込み、一晩中どれほどの絶望と恐怖の中で泣き明かしたのだろうか。その苦しみを想像すると、胸が張り裂けそうになった。
マーシャ……。僕も、君のことを心から愛している。
だから、もう二度とこんな思いはさせない。これからはずっと一緒だ。
僕は彼女の背中に腕を回し、凍えそうなほど冷え切った彼女の体を強く抱きしめ返した。
「ごめん、心配かけたね。僕も君を愛してるよ、マーシャ。これからも、ずっと一緒にいような?」
「ゔん……っ! ゔん……!!」
マーシャはしゃくりあげながら、何度も何度も強く頷いた。
(………………)
昼になり、雪がシトシトと舞い散る中、村の中心部で冬祭りが始まった。
僕は両親のポテトフライの屋台に立ち、揚げたての芋を紙袋に詰める作業に追われていた。祭りの熱気は最高潮で、行き交う人々の顔はどれも笑顔に満ちている。
そんな忙しい最中、お父さんとお母さんが突然僕の背中をドンと押した。
「エミール、ここはもう俺たちだけで大丈夫だ。ほら、ずっとお前のこと待ってるじゃないか。マーシャちゃんのところに行って、祭りを思い切り楽しんでこい!」
「でも、一番忙しい時間帯じゃ……」
「いいから行きなさい! 若い子がこんな油臭いところにずっといるもんじゃないわよ!」
僕は両親の優しさに申し訳なさと感謝を覚えつつ、エプロンを外して屋台を飛び出した。
少し離れたところで待っていたマーシャは、僕の姿を見るなりパッと顔を輝かせた。
降りしきる雪の中、僕らは手を繋ぎながら、立ち並ぶ屋台を見て回った。
まずは、的当ての屋台(射的)を見つけた。おもちゃの弓矢ではなく、火薬の力で弾を飛ばす鉄の筒――遠い極東の国から伝えられた異国の文化だという。
僕は日頃の剣術で培った動体視力を活かし、マーシャは魔法で培った集中力を発揮して、見事に三つもの景品(可愛らしい雪ウサギのぬいぐるみなど)を撃ち落とした。
両腕にぬいぐるみを抱えたマーシャは、この世の春が来たかのように嬉しそうに笑っていた。
その無邪気な笑顔を見ていると、僕まで幸せな気分になった。
それから僕らは、とろけるチーズがたっぷりかかった肉厚なフランクフルトを頬張り、温かい屋台の裏手で冷たいベリーのジェラートを分け合って食べた。
どちらもこの冬祭りで、年に一回しか食べられない特別な味だ。冷たさと温かさが口の中で混ざり合い、とびきり美味しかった。マーシャも口の周りにチーズをつけながら、とても満足そうな顔をしている。
その後も、ハズレばかりのくじ引きに一喜一憂したり、焼き立てのチーズタルトの匂いにつられて買い食いしたり、村の若者たちが腕を競う小規模な魔法選手権に飛び入り参加して喝采を浴びたりと、とにかく色んな楽しいことをした。
楽しくて、楽しくて、しょうがなかった。
この村で生まれ育ち、この先もずっとこの村で、この愛する少女と共に生きていく。そんなささやかで絶対的な未来が、約束されているような気がした。
あまりにも楽しくて、平和で……。
昨日、あんな恐ろしい魔王が何故、何の前触れもなく僕らの村の周辺に現れたのか。その根本的な疑問すら、頭の片隅から完全に締め出してしまうほどに。
祭りの喧騒に酔いしれているうちに、気づけばあたりはすっかり暗くなり、夜空には無数の星と、魔法ランプの柔らかな光が灯っていた。
(……………)
「じゃあね、エミール。今日は本当に楽しかった。また明日、学校でね!」
「うん。マーシャも、気を付けて帰ってね。バイバイ! またね」
祭りの終わりを告げる鐘の音が鳴り響く中、僕らは彼女の家の前で手を振り合った。
明日も、明後日も、こんな平和な日々が続くと信じて疑わなかった。
自分の家に帰り、冷え切った体を温かいお湯で拭うと、急激な眠気が襲ってきた。
両親はまだ屋台の片付けで遅くなるらしい。僕は一足先に部屋の魔法ランプの明かりを消し、毛布にくるまって深い眠りについた。
(…………………)
『……いつまで眠っている?』
(…………………)
『起きろ、エミール・ハーヴェスト。村が、襲撃されているぞ』
頭蓋骨の内側に直接響くような、不気味な声。
僕はベッドからバッと飛び起きた。全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。
なんだ……? 今の声は。夢、か……?
心臓が早鐘のように打っている。窓の外を見ると、雪明かりのせいで白いはずの夜の闇が、赤く、禍々しく染まっていた。
焦げ臭い。木が、肉が、焼けるひどい悪臭が隙間風に乗って入り込んでくる。
「キャアアアアアッ!!!! 嫌っ、殺さないでぇ゙ぇ゙ぇ゙ぇ゙ぇ゙!!!!!!」
「助けて! 誰か、勇者様ァァァァッ!!!」
外から聞こえてきたのは、祭りの歓声などではない。
肺の底から絞り出されたような、村人たちの断末魔の悲鳴だった。
なんだ、今の声は……。
それに……今、「勇者様」と助けを呼んだか?
魔物が村に侵入したというのか。あの、魔王を単独で討ち果たしたという伝説の勇者がこの村に滞在しているのに!?
僕はベッドから転げ落ちるようにして剣を掴み、防寒着も羽織らずに部屋を飛び出した。
一階へ続く階段を、転がるように駆け下りる。
(……………………)
「父さん! 母さん!!」
一階の居間に飛び込んだ僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
床一面に、どす黒い液体が広がっている。昨日の魔物の血などとは比べ物にならない、生々しい鉄の匂い。
その血溜まりの中心に、見慣れた二つの身体が、まるで壊れた人形のように不自然な方向に手足を曲げて転がっていた。
父さんと、母さんだ。
首から上が、ない。
「あ……」
喉から、ヒューという間抜けな音が漏れた。
思考が完全に停止する。ありえない。こんなこと、あっていいはずがない。
「やあ。一日ぶりだね。魔王の時の少年」
血の海の向こう側。部屋の奥の暗がりから、穏やかで優しい、あの春の陽だまりのような声が響いた。
コツ、コツと足音を立てて現れたのは、一滴の返り血すら浴びていない、純白の外套を羽織った男。
この世界の希望。英雄。伝説の勇者、ラングルド・ハーヴェスト。
彼は、首の無い僕の両親の死骸を見下ろし、まるで道端の石ころでも見るかのような冷たい瞳で微笑んでいた。
「たしか、君はエミールと言うそうじゃないか。悲しい出来事だね。でも、どうか恨むならマーシャというあの少女を恨んでくれ」
「……は??」
僕の口から出たのは、絞り出すような疑問符だった。
何を言っているんだ、この男は。
「マーシャ・アドミニストレーター。彼女の存在が、僕の『計画』には少し邪魔でね。さあ、彼女が今どこに隠れているのか、君の口から教えてもらおうか」
「なんで……なんで……」
僕は剣を握る手が震え、歯の根が合わなかった。
「なんで、今、こんなことを……! あんた、昨日村に入った時点で俺たちを殺そうと思えば殺せたんじゃないのか! なんで、父さんたちを……!」
勇者は小首を傾げ、心底不思議そうな顔をした。
「どうして昨日殺さなかったのかって? それはねえ……それじゃあ、『面白くない』じゃないか」
「……え?」
「絶望というものはね、希望というスパイスを十分に振りかけ、一度高く舞い上げてからどん底に叩き落とした方が、より深く、より美しい味がするんだ。昨日の今日で君たちがどれほど家族と愛を深め、未来を夢見たか。それを今、この瞬間に刈り取るからこそ……至高の悲劇が完成する」
「違……違う……俺が聞きたいのは、そんな狂った御託じゃない……!!」
僕は血走った目で勇者を睨みつけた。視界が真っ赤に染まる。
「お父さんと、お母さんは……。あんたが、お前が殺したのか……!?」
勇者はクスリと上品に笑った。
「ああ。僕以外に、誰がいると言うんだい?」
プツン、と。僕の中で何かが決定的に切れる音がした。
「この……ッ!!!」
理屈も、実力差も、恐怖も、すべてが吹き飛んだ。ただ純粋な、煮えたぎるような殺意だけが全身を支配する。
「ひと……ごろし……この……!!!」
床を蹴り破るほどの勢いで、僕は血溜まりを駆け抜けた。
「人殺しがァァァァァァァァァァァッ!!!!!!」
上段から振り下ろした渾身の一撃。だが、勇者は避ける素振りすら見せない。彼はただ指先一つを僕に向け、退屈そうに目を細めた。
ああ、死ぬ。
この絶対的な暴力の前に、僕は虫けらのように殺される。
だが、その瞬間だった。
我が家の壁が、外側から爆発したように木端微塵に吹き飛んだ。
吹き荒れる猛吹雪と、家を包み込み始めていた炎を真っ二つに裂いて、凄まじい質量の「オーラ」が室内に雪崩れ込んでくる。
その圧倒的な闘気に当てられ、僕の剣は空を切り、勇者の指先から放たれようとしていた魔法の光が掻き消された。
「……ほう」
勇者の表情から、初めて余裕の笑みが消えた。
粉塵が舞う中、崩れ落ちた壁の向こうに一人の人物が立っていた。
ボロボロの外套を羽織り、白髪を風に靡かせた、老齢の男。しかし、その体から放たれる威圧感は、昨夜の「魔王」に勝るとも劣らない、いや、それ以上に鋭く研ぎ澄まされた刃のような覇気だった。
勇者は、忌々しそうに顔を歪めてその老人を睨みつけた。
「……貴方は。わざわざ辺境まで、邪魔をしに来たのですか、師匠」
師匠……? この殺戮の化身のような勇者の、師匠だと?
老人は、手にした無骨な大剣をゆっくりと構え、地獄の底から響くような声で言い放った。
「堕ちたな、ラングルド。光を背負う資格なき、ただの狂獣よ」
老人の眼光が、勇者を射抜く。
「貴様がその足で踏みにじってきた無数の命の重さ……そして、正道を外れた愚かな弟子の罪。この老いぼれの剣で、貴様の魂の底まで刻み込んでやろう。ここが貴様の終着点だ!!」
「引導を渡す、と? 過去の遺物が笑わせる。僕は世界を統べる無敵の存在だ。やれるものなら、やってみなさい……!!」
勇者の全身から、禍々しい光が吹き上がった。老人の大剣にも、空間を歪めるほどの魔力が収束していく。
二つの絶対的な力が激突する――その直前。
「ぐっ……!?」
僕の視界が、唐突にぐらりと揺れた。
気がつけば、老人が僕の背後に回り込み、僕の首元に正確無比な手刀を叩き込んでいた。
「な、にを……」
崩れ落ちる僕の体を、老人は片手で軽々と抱え上げる。
「生き急ぐなよ、少年」
薄れゆく意識の中で、老人の静かな、しかし確かな意志を持った声が聞こえた。
「絶望に呑まれてここで犬死にするには、お前はまだ若すぎる。……生き延びて、本当の戦いに備えろ」
そう言って、老人は気を失っていく僕を担いだまま、勇者との衝突を避けるように、猛烈なスピードで夜の吹雪の中へと跳躍した。
この小説をキープするためにも、ブクマをぜひ!




